空の向こうにいる人
あの遠い空の彼方に天国があるとか、お天道様が見ているから、誰も見てないひとりのときだって悪いことをしちゃいけないとか。
空にまつわる様々な逸話を教えられて育ったけれど、まさか空の向こうに自分の実の母親が暮らしているだなんて、そんなことを経験するやつは世界中どこを探しても、絶対に俺ひとりだけだろう。
ーーー「実の」母親って、なんだろうか。
母親というものに、もしも実や虚があるとするなら、俺にとってはある日突然現れた存在こそが、あきらかな虚像だというのに。
一秒たりとも共に過ごしたことがなければ、抱きしめられたことも、言葉を交わしたことすらなかった人。
顔も知らなかった。その存在さえも。
どれほど理解しようと試みても、あの日、目の前で顔を覆って泣きじゃくる翼の生えた美しい女性は、完全なる他人だった。
初めて会ったのに、まるで昔から知っているかのように何度も俺の名前を呼んでは、泣き濡れた瞳が同じ碧色をしている、と気づいた時、酸っぱい嫌悪感が込み上げた。
やめろ
嫌悪感は瞬時に困惑に、怯えに、そして泡立つような怒りに変わった。
誰だ
俺の名前を呼ぶな
それ以上近づくな
あんたなんか知らない
俺の母親は、この世にひとりしかいない。たったひとりだけだ
野生の獣が背中を総毛立て威嚇するように、鋭く叫び捨ててその場を逃げ出し、それ以来、その人とは一度も会っていない。
会いたいとも思わなかった。むしろ、忘れたかった。脳内でしつこく再生を繰り返す、あの日の記憶を消してしまいたかった。
実の母親という存在が、喪ったいとおしい母さんのことまで汚してしまう気がして、天空城などという場所を訪れたことを、心の底から後悔した。
それからほどなくして、世界は平和になった。
俺はもう戦うことはなくなり、勇者と呼ばれることもなくなり、山奥の村でシンシアと静かに暮らし、月日が経った。
時折、空を見上げる。どんなに晴天の日でも、空を見るとすっきりしない気持ちになる。この青く澄んだ空の向こうには、忘れたいのに忘れられない人がいる。
あの日のような嫌悪感はもう消えた。だが憎しみに似た感情のしこりは、消化されない石ころのようにまだ、心にわだかまっている。
元気でいるんだろうか。どうして気にする必要がある?もう二度と会うことはない。いや、ないのか?会ったところでどうなる。話すことはとくにない。
……ほんとうに、ない?
「おとうさんっ」
突然、足元にやわらかいなにかが飛びついて来て、俺は驚き、その正体を知ってふっと唇を緩ませた。
小さな両脇に手を差し入れて、子犬のように軽々と抱きかかえてやると、男の子はひどく嬉しそうに俺の首にしがみついた。
「おとうさん、だぁいすき」
ああ、俺も、と囁いて、幼い子供の甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。目の中に入れても痛くない、はただの比喩じゃなかった。人生でもうひとつ増えた、俺の生きる意味。かけがえのない宝物。
そのとき、はっと気づく。雲間が切れてぱらぱらと、夕立の雨粒のように唐突に答えが落ちて来る。
そうだ、話すことはある。こんなにも、あるのだ。
俺、家族が出来たんだ
あなたと共に生きることは出来なかったけれど
それでもあなたの生み出した命は、こうしてちゃんと未来へとつながっている。
だから
だから、もう泣かないでください
突如降り出した天気雨は、青い空と雲と風の合間を、透明の光を放ちながら駆け抜けた。
小さな子供が濡れないように、頭を抱え込んでぎゅっと抱きしめる。雨は地上だけの財産だ。空の向こうには雲がないから、決して雨が降ることはないだろう。
俺は、ここから見上げる空のように不安定で心が変わりやすく、もう一度会うにはもう少し、いやもっと、時間がかかるかもしれない。
だけど濡れて輪郭の滲んだ天空は、なぜかさっきよりくっきりと鮮明で、そこには希望という名の真新しい色が、虹のように淡く輝いて見えた。
ーFINー