雪の思い出
その真っ白な雪を踏むと靴底がざくざく鳴って、まるで母さんがオーブンから取り出したばかりの、焼きたてのビスケットを食べている音みたいだった。
いや、違う、
焼きたてのは、まだ熱くてほろっと柔らかかったんだっけ。
噛みしめてざくざく言うのは、銅製の缶にビスケットを詰めて戸棚の中にしまっておいて、待ちに待ってようやく一日経った時だ。
だけど食べごろまでがまんできなくて、いつも焼けてから粗熱も取れないうちに、シンシアとふたりで先を争って食べてしまったから、一日経った硬いビスケットにはなかなかお目にかかれないんだった。
もろくて壊れやすい、焼きたての淡い褐色のビスケット。
唇に甘いかけらをいくつも乗せたまま、満たされて笑うシンシアのほほの桃色。
家中に立ち込めるバターの香り。
舌ったらずに何度も名前を呼んで来る声と、それに重なる母さんの陽気な胴間声。
なつかしい、思い出。
みぞおちにずきっとうずくような痛みが突き抜けて、勇者と呼ばれる若者は下唇の内側をきつく噛んだ。
追憶は苦しみの生傷と直結している。
頭の中で再生する映像が幸福であればあるほど、あの日からいっときも乾くことのない膿んだ傷口から、また新しい血が噴き出す。
痛みは、ある意味で欲求なのかもしれない。
だってわざわざ自分から、思い出そうとしている。こんな気持ちを味わうとわかっていて。握りしめている記憶の短剣で、自分の心臓を刺している。
そういう日は、宿屋のベッドの上で朝まで身をよじってほとんど眠れなかったり、突然涙があふれて嗚咽が止まらなくなったり、普通の精神状態じゃなくなることはわかっているのに。
思い出してはうっとりと甘さに酔いしれ、夢が覚めて全て失った現実に引き戻され、胸をかきむしるほど苦しむんだ。
馬鹿みたいに。ほんとうに、同じことを何度も繰り返す馬鹿みたいに。
地面を覆う雪が徐々に深くなり、あたりに佇む樹々は白いベールに包まれた。
粒の大きなぼたん雪がそよぐように降り落ち、北方サントハイム出身のアリーナ姫は、歓声を上げて空へ手のひらを差しのべた。
寒いのに、みんなはしゃいでいる。雪が好きなのだ。
仲間たちが楽しそうにしているのに、俺は笑えない。愛想笑いすら出来ない。
勇者と呼ばれる若者は、黙り込んだまま皆から離れた。クリフトが気がかりそうに呼びかけて来るのも聞こえていたが、無視して歩き続けた。
自分がどんなに子供じみた態度を取っているのか、よくわかっている。一歩、一歩あゆむたびに、ブーツの湿ったつま先が雪に深く沈み込む。
(雪はきらいよ)
冬が来ると、シンシアはいつも不服そうに繰り返した。
(わたしは大地の番人、エルフなのに。雪に大地を取られちゃう)
薫る土のぬくもりを覆い隠す、ぶあつい白い雪。こんなに降り積もっては、暖かくなるまで花畑で眠ることは出来ないのだ。
でも、でもさシンシア、
俺は雪が好きだったんだ。
だって花畑を雪に盗まれたお前は、春が来るまでのあいだだけ俺のベッドにもぐり込んで、手をつないで一緒に眠ってくれたから。
早く雪、降ればいいのに。俺がそんなふうに思ってたこと、お前はきっと知らないまま。だって恥ずかしくて絶対に言わなかった。
知らないままいなくなった。
背後からざく、ざくと言う音が迫って来て、勇者と呼ばれる若者は振り返った。
サントハイムの神官クリフトが、乾いた生成りの手拭い布を差し出して、寂しそうに笑っている。
「靴が濡れますよ。拭いてください」
「ああ」
「わたしたちは北方の生まれ育ちゆえ、雪を見ると祖国を思い出して、つい嬉しくなるのです。
貴方様は、雪は苦手ですか」
「ああ、嫌いだ」
平気な顔して嘘をつく。表情を変えさえしなければ、きっと気づかれないはずだ。
「大嫌いだ」
「早く春が来ればいいですね」
クリフトは目を細めて空を仰いだ。
「わたしも、本当は春のほうが好きなのですよ。
なのになぜでしょう。雪混じりの風が吹きすさび、髪の毛が凍りつくほど厳しい冬に、不思議なほど強い懐かしさを感じてしまうのです。
きっと、体が覚えているのでしょうね。この寒さをあといっとき耐えれば、春は必ず来ると」
ほとほと落ちて来る純白の雪に溶け混じるクリフトの目は、蒼すぎるほど蒼い。
「必ず来ます。誰のもとにも、待ち望む春が」
なにもかも見抜かれていることに気づいて、勇者の若者は小さく舌打ちした。
それから一瞬ののち、仕方なさそうに肩をすくめる。感じ悪く振る舞う罪悪感より、胸の苦しみを洗いざらい打ち明けたい衝動が勝った。
なぜだろう、このクリフトという青年には、そうしたくなる奇妙な磁力のようなものがあるのだ。それが神性だというのなら、彼はまさに生粋の聖職者なのだろう。
「神の子供」という、呼び名のとおりに。神がもしいるのならば。
「俺さ」
勇者と呼ばれる若者が口を開くと、クリフトは優しいまなざしを瞬かせた。
「はい」
「ほんとうは……」
喋り始めると、どれほどの言葉がこれまで押し込められていたのか、勇者の若者は止められなくなって、自分でも驚くほど早口で話し続ける。
伏せたまつげの先に、震える指に雪粒が降り落ちた。そうやってふたりは、肩先が白く覆い隠されてしまうほど長いこと、そこに立ち尽くしていた。
ようやく口をつぐんだ時、空は光り輝いていた。真っ白な息がふたつ、あたりに散らばって消える。
雪は止むのだ。そうか、忘れていた。誰にということもなく、勇者の若者は呟いた。降り出したものはいつか必ず止むんだ。
ふと甘い香りがして、周囲を見回すと、クリフトが懐から紙に包んだビスケットをそっと取り出した。
焼きたてではないですが、おいしいですよ。わたしは昔から、菓子を焼くのが得意なのです。アリーナ様も小さい頃からお好きでした。
勇者と呼ばれる若者は受け取ると、唇の端でかじった。香ばしいバターの味。なぜか鼻の奥につんと沁みて、ごまかすように急いでもう一口かじる。
甘くて堅い、遠い日の思い出。ざくっという小気味よい音がして、褐色の小麦粉のかけらが、雪のようにはらはら大地にこぼれ落ちた。
ーFINー