暖かい冬



こんなに暖かい冬があったのだ、と言った。

彼はその話をする時いつも、昔と今の記憶の境目を区別しようとするかのように、若い頃よりやや視力の落ちた瞳を凝らして何もない虚空を見つめるのだった。

暖かい冬なのか、寒い春なのか解らない。

数字が示す気温はただの統計学の導き出した結果でしかなく、従ってある日唐突に極寒の夏が来ようとも、灼熱の冬が来ようともなんら不思議はない。

この世界。神が作りし、人間と魔物と精霊の棲むこの世界。

「あの日、こんなに暖かい冬があったのかと驚いた。外気は暖炉の炎で包んだようにぬくもりをまとい、ほとほとと透明な湯気を立てていた。

そしてその日、たくさんの人が死んだ。二千年の長き歴史を持つ国家じゃ、一度たりとも戦が起こらぬわけはない。

領地が広大であればあるほど、様々な思想意思を持つ人間が生まれ、おのが矜持を確固たる形にせんと剣を取り、やがてそれは小競り合いから大地を揺るがす巨大な擾乱へと変じてゆく。

その頃、儂はまだほんの五歳だった。

姫の御父君である現王の曽祖父であられる、アル・アリアス二十一世の御世であられた頃じゃ。

哀れ、陛下は度重なる異国とのいくさにひどく心痛められ、食事も喉を通すことが出来ずに痩せさらばえ、それがもとで御崩御なさった。じつに在位六年、王としてはごく短い治世であられたよ。

ほう、たかがいくさごときでそれほど心を痛めるなど、弱い人間だと姫はおっしゃるか。

では、強いとは何かの?体が丈夫なことか。それとも恐怖を一切感じぬ心を持つことか。

戦場ではな、姫よ。恐れぬ者を愚者と呼ぶのだ。動物の本能が呼び醒ます怯えと恐怖にしかと耳を澄ませること、それこそが賢明かつ迅速な真の判断力を生む。

陛下は自分以外誰も立つことの出来ぬ玉座という戦場で、見えぬ血に手を染めてたった一人で戦っておられた。

いくさとは、剣戟を交わす者のみが戦うのではない。砲弾で心の臓を突き破られた者のみが屠られるのではない。目に見えぬ傷、血を流さない痛みの方が深甚なこともある。

武器を手に最前線でたたかう戦士の恐怖と、愛する者の帰還をただ待つしかなく、涙で頬を濡らしながら祈る者の恐怖のどちらが上であるかなどと、誰にも順位はつけられはせぬのじゃ。

暖かい冬の日であったよ。戦場で父が死んだという連絡が、破れかけた紙切れ一枚で届いたのは。

一応蜜ろうで封をしてあったが、配達人も内容のおおよその見当はつくのじゃろうな、妙に痛ましげな顔つきをして敬礼などしおって、それがまだ幼かった儂をおかしいほど苛立たせた。

幼少より魔法使いとしての資質を見初められ、ただひたすら魔導学に没頭していた儂は、戦場で剣を手にたたかって命を落とす、ということの意味がまだよく解らなかった。

父親がこの世からいなくなったという悲しみさえ、実感としてうまく受け止めることが出来なんだ。派遣兵として常に国境警備に赴き、年に数度しか家に帰って来ない人間を、父としていとし焦がれるのは子供にとっては難しいことじゃ。

儂はいつしか父親のことを忘れた。

城下の森で迷い子になり、帰り道を探すのに必死になって、大切な杖も魔方陣用の絵筆も全部茂みの中に置いて来てしまったあの日のように、父親が死んだという事実を暗い、出口のない記憶の茂みに封じ込めた。

そしていつか、自分も戦場に出ようと決めた。声変わりもしておらぬがんぜない子供がなぜあれほど強くそう誓ったのか、今持って儂にも解らぬ。

ただ、命が失われるということの意味を、どうしてもこの目で確かめたかったのかもしれぬ。

生まれてこのかた、ほとんど会うことのなかった父親を一粒の塵芥のようにたやすく飲み込んでしまった戦争という名前の魔物の腹を裂き、その腐った臓腑を掴みだして、なぜこうなってしまったのかと儂はこの手で問いただしたかったのかもしれぬ。

当時黒魔法学研究は飛躍的に発展し、いくさに於いて魔法兵というものが世界的に起用され始めた頃じゃった。

わしは王城に一兵卒として志願し、各地のいくさ場で遮二無二戦った。幼き頃より磨き抜いた氷の黒魔法の腕を存分にふるい、戦地を縦横無尽に駆け巡った。

儂の歩んだ後は、凍りついた屍が絶対零度の氷山のようにうず高く積み上がった。

王城直属魔道師として破格の昇進をし、サントハイムの氷竜の杖と呼ばれるようになったのもその頃じゃ。嫌な名前じゃと思うたよ。じゃが、すぐ慣れた。もう儂より若い家臣どもは、誰も由来を知りもしないのであろうな。

氷竜の杖とは、地獄の魔竜の報復のいかづち。父親を殺された復讐を復讐とも自覚せず、凍った指先でひたすら罪を犯し続けた儂の背中に突き刺さった、生涯決して抜けることのない血染めの杖なのじゃ。

むう、姫よ、なぜ泣く。もう話さなくてもいい?つらいことは、無理に思い出さなくてもいい?そうか、ならば昔話はこのあたりで止めておこうか。

姫よ、そなたはまだ幼い。玉石のように無垢なそのふたつの瞳で、まだ見ぬ絵物語をひも解くようにいつも戦うことを夢見ている。

じゃが、覚えておくがよい。戦う者とは必ずなにかを背中に背負わねばならぬ。

それは儂のように決して抜けない杖かもしれぬし、苦しみ悩みながら崩御された国王の背にのしかかって離れなかった、輝く黄金の玉座かもしれぬ。儂の父親が遠き国境で背負ったはずの、錆びついて使い古された剣もまた、そのひとつなのであろう。

姫の鍛えし拳は、いずれこのサントハイムのすべてを背負う拳。それゆえ、そなたもいつかあの暖かい冬を知る時が来るやもしれぬ。儂はそれが怖い。怖くてならぬ。

儂があの日、天に向けてそびえた黒き氷山の向こうに見たものを、破れかけた一枚の紙きれの向こうに見たものを、決してそなたにだけは見せたくないと思うのじゃ。

これも姫専属の世話係ゆえの愛情過多、つける薬もない過保護な取り越し苦労かの。

ああ、そうじゃな。そろそろ太陽が真南に昇る。

城下の教会に赴き、ようやっと見習い神官に任ぜられたクリフトの小僧と共に昼食でも取ろうか。あやつの作るレンズ豆のスープと来たら、なぜ料理人にならなかったのかと首をかしげるほどの逸品じゃからな。

暖かい冬は嫌いじゃ。暖かければ、おのが身のうちに潜ませた血の冷たさを嫌でも知ってしまう。

氷竜の杖はいまだ儂の背中で凍りつき、罪という傷を癒すことなくじくじくと膿ませ続けていることを思い知らされてしまう。

それでも、この世に儂をそう呼ばない人間がたった二人だけいる。

爺、爺とはしゃいで足元にじゃれついてくる、鳶色の髪と瞳を持つ太陽の護りを受けし姫。

年老いた儂から懸命に教えを乞おうと、ひたむきな蒼い目を向けてブライ様、ブライ様と後を追って来る小さな神の子供。

アリーナ姫、クリフト。

そなたたちふたりをこの胸に抱きとめる時、儂は自分の体がちゃんと温かく息づいていることをようやく知ることが出来るのじゃ。

そして思う。やはり冬は寒い方がいい。

人の子の命を温もりを血潮通う肌で確かめることの出来る、このサントハイムの冬は寒い方がいい、とな」




-FIN-

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