甘い痛みとふたりの秘密
心地よい春の日。
真昼の明るい陽光が射すロザリーヒルの円柱の塔の中庭に、マロニエの青葉の影が揺れ動いていた。
窓から注ぐ陽射しが、よく磨かれた床にプリズムの縞模様をつくる。木むらをそよがせる風は甘いかおりをはらみ、若草の煙る大地に柔らかく吹きつけている。
台所に立っていたロザリーは、センテッドゼラニウムの葉をちぎる手を止めてほほえんだ。
(暖かいわ)
春は、本当に暖かい。
重く長い冬が去り、頑丈な砦のようにロザリーヒルを覆っていた雪は溶けた。
木立には桃色の花々が我れ先にと咲き誇り、分厚いケープを羽織って寒さをしのぐ必要もなくなった。
春が来たのだ。
いとしいあのお方と、心やすらいで共に過ごすことの出来る春。
細かくちぎったゼラニウムの葉を銀容器の底の脂紙に敷きつめ、バターと砂糖、小麦粉と卵を混ぜてよく練った生地を流し入れる。
熱くしたかまどで30分ほどかけて焼き、きつね色になったら取り出して、脂紙とゼラニウムの葉だけを取り除く。
冷めたらナイフで真ん中をカットして、好みの具を挟むのだ。今日は泡立てたホイップクリームと、杏のジェリーがいい。
あのお方は冴え冴えと輝く真夜中の月のような容貌に似合わず、じつは甘いものが好きだ。ケーキやパイ、フルーツブレッド、スウィートライス。
テーブル一面に並べた手作りのデザートを、表情を変えず黙々と口にする。そして、わたしにだけわかるかすかさで、暁色のうつくしい瞳を静かにほころばせる。
愛する人と時を分かち合いながら摂る食事の、なんと甘美なことだろう。砂糖なんかいらないと思うほどだ。
これほど甘く、めくるめく幸せに、怖れも不安もなく身を任せていられるのなら。
(それにしても……、今日は、遅くていらっしゃる)
魔族の王として混迷の日々を送っていた頃、彼は夜毎の頭痛という呪縛に囚われ、一晩として満足な眠りに着くことが出来なかった。
そのくせ、遅くまで床に入っていることもなく、翌朝ロザリーが目を覚ますともう衣服を整え、いつもの凛々しい姿で両腕を組んで外の景色を見つめている。
こちらを振り返り、「起きたか。ロザリー」と囁くほほえみは、それが優しければ優しいぶんだけ、決して手の届かない月光に恋い焦がれるようで哀しかった。
(でも、もうそんなことはないわ)
あのお方はもう魔王ではない。
重すぎる運命の枷からようやく解放されて、こんなふうに朝寝坊までするようになって、そして、いつもわたしのそばにいて下さる。
ピサロ様。
ロザリーはゼラニウムの芳香をふりまくケーキの生地をかまどに入れ、手巾で手を拭って寝室へと向かった。
扉を開け、部屋の中に入る。天蓋付きの寝台の上で小山を作っている膨らみは、近付いても微動だにしない。
いとしいかの人の姿は見えず、枕まですっぽりと毛布が被せられていることに、ふと訝しさを感じ、
「ピサロ様。まだ、お休みですの……?」
毛布のはじをそっとめくり上げて、ロザリーは悲鳴を上げた。
「ピ、ピサロ様!どうなさったのですか?!」
銀髪紫眼のこの世で最も美しい恋人が、就寝用の薄衣をまとった身体を折り、嗚咽を洩らしている。
緋色の絹布を外した額には、珠の汗がびっしりと浮かんでいた。非の打ちどころない彫像のような美貌は、苦痛に歪められている。
「ピサロ様!ピサロ様!」
ピサロはうっすらと瞳を開いた。
「ロザリー……か」
「ピサロ様……!ご無事ですか。ああ、お苦しいのですか?一体どうなさってしまわれたのです。
なんてひどい汗……!お顔も真っ青ですわ。どうして……!」
「心配するな。大したことはない。少し、痛むのだ」
「ど、どこがですか?」
ピサロは一瞬黙った。
「……胸の下の、腰の上だ」
ロザリーは瞬きした。
その拍子に、瞳のはしから涙がひとすじつうとつたい落ち、虚空でルビーのかけらに変わって消えた。
胸の下の、腰の上?
「それは……もしかして、おなかのことですか」
「……」
「ピサロ様……。おなかが、痛いの?」
ロザリーが言うと、ピサロの汗に濡れた苦しげなおもてに、さっとあざやかな朱の色が散った。
「腹ではない。胸の下の、腰の上だ」
「で、でも……、それはおなかのことでしょう。
もしかしてピサロ様、夕べもお休み前に甘いものをたくさんお召し上がりになられたから、そのせいでおなかを」
「理由など知らぬ。この程度の痛み、どうということはない。騒ぐなど愚かなことだ」
ピサロは不本意そうに顔を赤くしたまま唇を噛むと、ぷい、とロザリーに背を向けて頭から毛布を被ってしまった。
「寝ていればじきに治る。わたしのことは放っておけ」
「そんな……。苦しんでいる貴方様を放っておくなんて、わたしに出来るはずがないじゃありませんか。
それに、食べ物が過ぎたせいで起こるおなかの痛みは、ただ寝ているだけでは治りません。
薬を煎じますわ。クリフトさんから頂いた薬草がたくさんあります。とてもよく効きます」
「魔族軍百万の精鋭を率いたこのわたしともあろう者が、腹の……、胸の下の痛みごときで、人間の作った薬など飲めるわけがなかろう」
「でも、飲まなければ治りません」
「人間の世話になるくらいなら、治らない方がましだ」
「ピサロ様……」
矢継ぎ早にまた襲って来た痛みに、ピサロが呻いて背中を丸めると、ロザリーの不安げな瞳から、ついにぽろぽろと大粒の涙がこぼれ始めた。
「お願いです。心配させないで下さいませ。
もしもあなたがこのままいなくなってしまったらと、わたしをもう不安にさせないで」
「……」
「貴方様がこんなにお苦しそうなのに、わたしにはなにもして差し上げることが出来ないのですか。
貴方の痛みを、わたしが少しでも代わってあげられることが出来たらいいのに。
ピサロ様、貴方はわたしのすべてなのです。貴方がいなければ、わたしは、わたしには生きている意味など……」
「……わかった」
ピサロは痛みに顔をしかめながら、仕方なさそうに緩慢な動作で起き上がった。
「わたしの負けだ。飲めばいいのだろう」
「ほ、本当ですか?」
「それでお前の気が済むというのなら、これきり、ただ一度だけだ。
その代わり、薬が減れば人間が補充にやって来る。あのサントハイムの長帽子の神官は、かなりの節介焼きだ。どこか具合が悪かったのか、あれやこれやと詮索して来るだろう。
その時、決して……」
「わかっていますわ」
ロザリーは涙をいっぱいためた目でピサロを見つめると、真剣な顔で頷いた。
「ご安心なさって下さい。これは、わたしと貴方様ふたりの秘密です。
わたし、ピサロ様がケーキやパイや、甘いものをたくさん食べ過ぎておなかが痛くなった、なんて絶対に誰にも言いません」
ピサロの尖った長い耳がかーっと赤くなった。
「だから、腹ではない」
「わかりました。ご安心なさって下さい。わたし、決して言いませんわ。
ピサロ様が甘いものの食べ過ぎで、おなかではなく、胸の上の、腰の下が痛くなったなんてことは……」
「それも間違っている、ロザリー」
「も、申し訳ありません。わたし、決して言いませんわ。
ピサロ様がおなかが痛くなってしまったことも、本当は甘いものが大好きなことも、苦いお薬がきらいなことも、クリフトさんにも誰にも、決して」
「………」
「だって、それは」
あなたとわたし、ふたりの秘密。
涙声とため息が小鳥のさえずりのようにさんざめき、またさんざめく寝室の隣、台所のかまどからなんとも言えぬ甘いかおりが立ち昇る。
ゼラニウムの芳香もかぐわしい手作りケーキは、このぶんではおいしく焼けてもふたりの口に入るのはしばらくお預けのようだ。
真昼の明るい陽光が射すロザリーヒルの円柱の塔の中庭に、マロニエの青葉の影が揺れ動く。
窓から注ぐ陽射しが、よく磨かれた床にプリズムの縞模様をつくる。木むらをそよがせる風は甘いかおりをはらんでいる。
心地良い春の日。
ロザリーヒルのふたりにようやく訪れた、幸せな春の日。
-FIN-