愛の記憶〜「雪花」The after〜
五感を弛緩させて眠りにつくことは、心地良いのだと初めて知った。
静けさはのちに音を立ててやって来る逃れられない不幸の予兆ではなく、心地良い水のせせらぎに身体を浸すような安息だと、ようやく知ることが出来た日。
同じ朝が、驚くほど違う色彩を持つ。そう、幾百年もの昔、たしかに今と同じ想いを抱いたことがあった。あれはいつ、どこでだったろう。
甘くてあたたかくて、涙が出そうなほど懐かしいあの香りと、ラヴェンダー色の靄に包まれたあの静けさ……。
「ピサロ様」
呼ばれて、はっと我に返る。
目覚めてすぐ、石の天井を見つめながらまたうとうとと夢に誘われていたことに気付いて、かすかに苦笑した。かつてあれほど苦しんだ頭痛から解放され、このところはまるで冬眠中の熊のように気を緩めたとたん、いつでもどこでも瞼を伏せてとろとろと眠りに落ちてしまう。
健やかな眠りは、心の平穏のあかしだ。今日一日で自分が一体どれだけの罪を犯すのかという恐怖にもう襲われなくてもいい安堵は、かつて魔族の王と呼ばれた彼のこれまでの生の中で初めてといっていいほどの豊かな眠りの休息をもたらしてくれた。
「またお眠りでしたのね」
寝台の端に腰かけた、ルビー色の瞳をしたエルフの娘がほほえんだ。
「ああ。済まない」
「お詫びなさることなんてありませんわ。どれほど長くお眠りになられようとも、今の貴方様はちゃんを目を醒まして、わたしの傍に変わらずいて下さるのですもの。
それに……」
くすっと、華奢な肩をすぼめて笑う。こでまりの花房がこぼれるようだった。
「ピサロ様の寝顔、とてもお可愛いんです。いつも引き結んでいる唇がほんの少し開いて、びっくりするほど睫毛が長くて。いつまでも見ていたくなるの」
「阿呆のように腑抜けた顔をしていなければいいが。自分で自分の寝顔は見えぬ」
「とても綺麗なお顔です。綺麗で、お可愛い。わたしは貴方の寝顔がとても好き。大好き」
(大好き)
その時不意に、辺りの風景が反転するような奇妙な眩暈に襲われた。
古い詩歌の一小節だけを思い出したような、音と体温をはらんだもどかしい一瞬の慨視感。おぼろな感覚は瞳の隙間から抜け出たとたんすぐに消えうせてしまいそうで、瞬きを必死で堪える。
……あれはいつ、どこでだったろう?
今この時と同じ、甘くてあたたかくて、涙が出そうなほど懐かしい記憶を確かにわたしは身体の奥底に持っている。
(また眠っていたのね、ピサロ)
(わたしはお前の寝顔が大好きよ。とても可愛いの。食べてしまいたいくらいに)
(大好き)
いとおしさが募るあまり、耳元でわざと舌ったらずに囁く声音が脳裏を浮遊したとたん、もう長いこと思い出すことのなかった古い、古い思い出が、粉雪のようにはらはらと舞い落ちて来た。
(ピサロ、大好きよ)
(いとしいピサロ。わたしの)
(さあ、一緒に眠りましょう。あたたかい寝床で全ての悲しみから解き放たれて、とこしえに幸福な夢を見られるように……)
……ああ、そうか
思い出した
どうしてこんなにも長いこと、忘れていることが出来たのだろう
あれはわたしの 懐かしい
母さ…………
「ピサロ様?」
傍らの娘の声が今度は戸惑いをたたえていたので、突然降り落ちて来た記憶を意識から振り払い、寝台から身軽な仕草で起き上がった。
「いくらよく眠れるとは言え、いい加減起きなくてはな。神話の茨に囲まれた千年城の住人のように、永遠の眠りの呪いにかけられるのは御免だ」
「朝食の支度が出来ています。すぐお召し上がりになられますか」
「ああ。だがその前に窓の外を、ロザリー」
「え?」
「見ろ」
言われるまま窓の向こうを見やったエルフの娘は、息を飲んだ。怪訝そうに向けた紅色の瞳がさらに見開かれる。
「あれは……!」
「雪花だ。既に雲間から太陽が顔を出している。恐らく、あと一時間もせぬうちに消えてしまうだろう」
人里離れた森深く、誰も知らない蒼き円柱の塔の半月型の窓辺に並んだふたりの眼前に、咲いている。
葉という葉を全て落とし、ありのままの姿で凛と立つ無数の木々が空へと伸ばす枝先に、咲いている。冬の終わりの、溶ける寸前の雪を乗せて燦然と白く輝く雪花が、あちらにも、こちらにも、枝を広げていくつもいくつも。
「……なんて綺麗なのでしょう」
エルフの娘の声が震えた。
「わたし……ずっと、ずっと、貴方と共にこれを見る日が来るのを待ち望んでいました。
雪花を。春の訪れを告げる、消えてなお咲く雪の花を」
「この許されざるべき生のうちに、死の業火の紅蓮ではなく、芽吹きの花の純白をわたしは生きて、この目で見つめている。
……知らなかった。冬に咲く花も、美しいのだな」
傍らのエルフの娘はそのままじっと動かず、遠くに広がる雪花を抱いた木々の群れを両手を組み合わせて見つめ続けている。
折り重なるように交互に響くふたりのかすかな息遣いもまた、静けさの中大気にその姿を溶け込ませ、やがて消えていった。
(ピサロ、大好きよ)
(わたしの愛しいピサロ)
風のように吹き過ぎた憎しみも怒りも悲しみも、今となっては全てが夢のようだったと言えば、それはあまりに綺麗事に過ぎるだろうか。
だがこのままもう少し時間が経てば、恐らく自分はまた眠りに落ちるだろう。
あの甘くてあたたかい香りを、涙が出るほど懐かしい静かな記憶を、傍に寄り添ういとしい娘を抱き寄せながら、まぼろしとうつつの間に間にもう一度求めるだろう。
そしてようやく知るだろう。
自分は愛されていたのだ、と。
その姿かたちはここにはもうなくとも、巡り重ねてゆく日々の彩りの中で思い出すことはもうなくとも、長い時を越えて少しも色あせることのない愛の記憶は今も、いつも、わたしという命と共にある。
-FIN-