冬の散歩
見上げると、薄灰色の虚空を泡のような雪がちらつく。
空気はしんと冷え、生きとし生ける者が立てる雑多な音すべてをくるみ込んで消し去ってしまうかのようだ。
この寒さに耐えきれない命は儚くも冬の藻屑と消え、自然淘汰される。神はそうやってこの星に生命が増えすぎないよう生みだしては屠り、微細な調整をくわえながら生態系のあやうい均衡を保つのだろう。
……なんて、少しだけ知的なことを考えてみる振りをする。
「お母さん」
つめたい風になぶられ、鼻の頭と両頬を見事に真っ赤にしたポポロが、分厚い羊毛のコートの中で窮屈そうに小さな体をよじった。
「たくさん着過ぎて苦しいよ。マフラーを外してもいい?」
「駄目よ。首を温かくしておかないと、風邪を引いちゃうわ」
「でも、これじゃ前が見えなくてうまく歩けないよ。ほんのすこし散歩するだけなのに、こんなに厚着しなくたっていいでしょ。毛糸のズボンだって二枚も重ね履きしてるのに」
「身体をしっかり温めないと、元気になれないのよ」
「ぼく、いつだって元気だよ。エンドールにお引っ越ししてから一度も風邪をひいてないし、とっても丈夫なんだ。
お母さんは心配症過ぎるんだよ。お父さんならきっと、ポポロ、男は薄着のほうが強くなるぞって言うはずだ」
「お父さんはあんなに大きくて、体の下にもう一枚服を着ているようなものだもの。男なんてあてにならないの。お母さんの言うことを聞きなさい」
「女の人って、いつだって自分が一番正しいと思ってるよね。そのくせ、間違いは絶対に認めようとしないんだから。
年を取っても中身はいつまでも素直じゃなくちゃ、大好きなお父さんに嫌われちゃうよ、お母さん」
子供らしからぬこましゃくれた発言に、わたしはぎょっとして傍らの息子ポポロを見下ろした。
ポポロは悪びれる様子もなくにこっと笑顔を浮かべると、次の瞬間、首に巻いていた赤いマフラーをさっと外して、わたしの懐に押しつけた。
「ポポロ!」
「ぼくの身体、あったかいんだ。マフラーなんか要らない。
それから……、年をとってもなんて言ってごめんなさい、お母さん。お母さんはいつだって誰よりもきれいで賢い、世界一の商人トルネコの自慢の奥さんだよ」
小さな首をおどけるように左右に傾け、ポポロはこのところの寒さですっかり乾ききった土の上で両手を広げると、独楽のようにくるくる回った。
「ね、お母さん。お父さん、今どこにいるのかなあ」
「さあ、どこかしら。こないだの手紙には、あともうすこしで家に帰れそうだって書いてあったけれど」
「お父さん、世界を救うために旅をしているんでしょう。帰れそうだってことは、もうすぐ世界は救われるの?
お父さんは一体、なにから世界を救うの?」
「うーん、そのへんの難しいことはお母さんにはわからないわね。
それよりそろそろうちへ帰りましょう、ポポロ。夕食の支度をしなくちゃ。
肉屋のソドムさんに、新しい挽肉を貰ったの。バターをたっぷり入れて、大きめに切った野菜と一緒に煮込むとおいしいわ」
「ちぇっ」
ポポロは不満げに唇を尖らせた。
「言いたくない話になるとすぐ、そうやって話題を逸らすんだから。本当は全部わかってるのに、ぼくがお父さんのことを心配するから隠そうとしてるんでしょ?
大人は内緒事が大好きだ。でも子供だって、いつまでもごまかされたりなんかしないよ。ちゃあんとわかってる。大事なことほど言葉の向こう側に、木の根元にこっそり埋めた宝箱みたいにじょうずに隠れてるって。
だからぼくは、お母さんが言いたくないことを無理には聞かない。ぼくが本当に知りたいことはそこにはないってことを、知っているもの」
「まるで哲学者のような口の利き方をするのね」
わたしは笑った。
「わたしの大切な坊やは、いつのまにこんなにお利口になったんでしょう。お母さんはとっても嬉しいわ。
あなたもいつかお父さんのように、わたしを置いて見果てぬ世界へと夢を叶えに旅立ってしまうんでしょうね」
「うん、たぶんね」
ポポロは目の前にはない未来を今ここに映しだそうとするかのように、潤んだ大きな瞳を空中に向けた。
「だって、ぼくは世界一の商人トルネコの息子だもの。
翼の生えた鳥の子供は、やっぱり鳥だ。うまれつき飛び立つように出来ているんだよ」
「じゃああなたが鳥なら、お母さんはその鳥をあたためるからたちの枝で出来た小さな巣だわ。
たくさん飛んで、どこまでも飛んで、でも時々はその翼を休めに戻って来てね。
あなたがいつか、あなたの愛する新しいすみかを見つけるその日まで。古い巣が朽ちて枯れ落ちるその日まで」
「……うん」
言葉の意味がわかったのかわからないのか、幼い息子はわたしをじいっと見つめると、先ほどとは打って変わって弱々しく頷いた。
とことこと駆け寄って来てわたしの手からマフラーを奪い返し、急いでぐるりと首に巻きつける。
「ほら、やっぱり寒くなったんでしょう。だから温かくしなくちゃ駄目だって言ったじゃないの」
「ねえ、お母さん。お父さんが帰って来たら、新しいマフラーを編んで」
ポポロはわたしを見上げて言った。
「お父さんとお母さんとぼく、三人でお揃いのマフラーが欲しいな。
雪みたいに真っ白で、雲みたいにふわふわの。みんなでそれを巻いて、お父さんの故郷のレイクナバの山に遊びに行くんだ」
「ええ、いいわ。丸太のように太いお父さんの首に巻くんだもの、うんと長くて大きなマフラーを編まなくちゃね。
……でも」
わたしはポポロの手を取り、杏の実のようにふくよかな手の甲を自分のほほにすりつけた。
「もうすぐ春よ、ポポロ。お父さんの帰ってくる頃にはきっと、エンドールにも春が来ているわ。
この寒い冬もあと少しで終わるのよ。冬は必ず終わるのよ」
冬は終わる。
この泡のような雪が溶けて消え、冬が終わり世界に春がやってくる頃には、たった一度きりの人生を、鳥のように駆けるあの人が帰ってくる。
今はまだここにいて、わたしを頼りに生きるだけのこのいとしい命も、いつか必ず翼を広げ、空へと飛び立つのだろう。
生み出しては屠る、この星の神の保つあやうい均衡のもと、出会いと別れをはらむ家族の絆が繰り返し今日もどこかで生まれ、また失われ、また生まれ続いて行くのだ。
……なんて、少しだけ知的なことを考えてみる振りをしたわたしに、
「お母さん、おなかすいちゃったよ。
もうおうちに帰ろう……うぅ、ふえ……」
腕を引っ張るポポロが、盛大なくしゃみをひとつしてずずーっと鼻を啜ったので、わたしはポケットから取り出したハンカチで鼻を拭ってやり、ややこしい考えは頭の中から追いやることにした。
どうやら今のわたしにはまだ、神がはぐくむ数奇な生命のことわりより、愛する息子が食べる温かい挽肉料理の出来のほうが大事みたいだ。
赤いマフラーを巻いて、窮屈そうにわたしの隣を歩くポポロのお腹がそれに賛同するようにぐう、と鳴り、わたしはぷっと吹き出した。
-FIN-