冒険のはじまり



夢を見ていた。

真っ暗な眠りの砂地を、煮つめた飴のようにねばりけのある波が覆いかぶさり、うねる。

こんなふうに表層意識が澱んでいる時の夢は、たいてい心地よいものではない。

だからさっさと目を醒ますに限る……と頭では解っているのだが、

悲しいかな、どんなに科学や魔法技術が発達しようとも、人は悪魔インキュバスのように夢を操ることは決して出来ないのだった。

だから覚醒を目指して、眠りの中を遮二無二もがく。


確か、その夜もそうだった。






(……ね。起きてよ)

(そろそろ起きてよ。ねえ)

眠る緑の目の少年の耳元で、誰かがしきりに叫んでいる。

(起きてったら。一体いつまで寝てるつもりなの?

あなた、まるで巣穴にこもって寝そべるアナグマみたいにのろまなのね。そういうところ、わたしに少しも似てないわ)

(うるせーな。誰がアナグマだ、誰が)

目を開けないまま機嫌悪く怒鳴ったつもりが、どうやら怒りは声帯まできちんと届かなかったらしい。

返事の代わりに「う、うーん」という寝ぼけ混じりのため息が唇から洩れ、少年は仕方なく目を開けた。

「……誰だ。お前」

「わたし?わたしは、あなたよ」

「なんだ、それは」

少年は猫のように伸びをして欠伸をひとつし、億劫そうに起き上がった。

目の前にいる人物を、訝しげに眺める。少年と同じエメラルド色の目をした見たことのない少女が、怒ったような表情でこちらを見つめている。

ひとことで言って、めったにいないほどの美少女だった。顔回りで華やかに波打った、満開の紫陽花のように豊かな髪。大きな双眸は人形のようにびっしりと睫毛に囲まれている。

両手足を惜しげもなくあらわにした短衣の腰には剣帯を佩き、背中には盾を担いでいた。若い女だてらにどうやら、剣術の心得があるらしい。

年の頃は少年と同じだろうか、勝気そうなくっきりとした目鼻立ちをしていて、艶やかな肌は石膏のように白かった。

少女は少年の手を取って自分の方へと引き寄せ、重大な秘密を告げるかのようにもう一度繰り返した。

「いい?よく聞いて。わたしはもうひとりのあなたなの。あなたとわたしは同じ存在なのよ」

だが少年は少女の手を振りほどき、そっけなく言った。

「だから、誰だ。さっきからなにを訳のわからないことを言ってるんだ?俺はお前なんか知らない。会ったこともない」

「知らなくて当然よ。わたしはもうひとりのあなただもの。そして、あなたはもうひとりのわたし。

つまりわたしが存在する時、あなたはそこに存在しない。今こうしてわたしたちが共にいることは、大いなるパラドックスなの。

でも仕方ないわ。わたしたち、これからどちらかひとりを選ばれるんだもの。それまではこうして一緒に待っていないといけない」

少年は眉をひそめた。

「選ばれるって、誰に」

「この世界の運命を担う、勇敢なる冒険者に。

彼、もしくは彼女がひもとく冒険の書の主人公の勇者は、たったひとり。つまり主役はわたしかあなたのどちらかひとりだけなの。

わたし、ぜひ選ばれたいわ。だからあなたにはそのまま寝ててもらって一向に構わなかったんだけど、ずるをするのはフェアじゃないものね。

だから起こしたのよ。さあ、間もなくやって来る宣告の時を一緒に待ちましょう」

緑の目をした少年は、一体なにを言ってるんだこいつは、という顔で目の前の少女を見つめた。

(こいつが、もうひとりの俺……?俺と同じ存在?)

意味がさっぱりわからないが、そう言われてみれば確かに、性別は違うもののどことなく顔立ちが似かよっているような気がしないでもない。

山奥の村には他にだれひとりとしていない、珍しい色の髪や瞳も同じだし、雪のようにきめ細かい肌質も似ているといえば似ている。

もしも自分が女に生まれていたら、こういう雰囲気だったのかもしれない。

だが、俺って二卵性双生児だったっけ、と考えても答えが出るはずもなく、そもそも自分の詳しい出生自体、緑の目の少年にはあまりよくわからないのだった。

これって一体何なんだ?と、頬をつねる。痛くない、ような気がする。夢だと言い聞かせてみる。

そうだ、これは夢だ。目が醒めればいつものように隣にシンシアがいて、母さんがいて、父さんがいる。突然現れて訳のわからないことを言う得体のしれないこの女も、消えているはず。

だが少女がその場にぺたんと座り込み、ため息をついて続けた言葉に、緑の目の少年は驚いて絶句した。

「あーあ、どうしてわたしたち、勇者なのに男女ひとりずつ存在してるのかしら。選ばれるのはどちらかだけなんて、そんなのひどいわ。

わたし、主人公になりたい。シンシアにどうしても会いたい。一緒に遊んで、並んで花畑で眠りたいの。

あの子だってきっと、わたしのほうに会いたいって思ってるはずよ。なんたってわたしたち、女同士だもの」

「お前、なに言ってるんだ?」

少年は怒りを覚え、思わず少女に食ってかかった。

「お前、一体何者だ。シンシアのことをどうして知ってる。あいつは……あいつは、俺のだ。

あいつと花畑で眠るのは俺だけだ。思い付きの口から出まかせを言うな」

緑の目をした少女は冷ややかな目で少年を見返し、やれやれ、と肩をすくめた。

「あなたも解らない人ね。だから、わたしとあなたは同じ存在だって言ってるじゃない。

シンシアがあなたのものなら、それはわたしのものでもあるの。あなたが花畑であの子と眠るなら、わたしもそう出来るの。

……あ、でも」

少女は悔しそうに唇を噛んだ。

「でもわたしは女だから、あなたのように恋人同士にはなれないわ。

だからあなたがいつも悶々と妄想してるとんでもなくイヤラシイことを、残念ながらシンシアとすることは出来ないけど」

「だっ、誰がとんでもなくイヤラシイことを妄想してんだよ!!」

「でもそのぶん、大きくなっても毎日一緒にお風呂に入ることが出来るわ。

どんな男の子が好きか、内緒話をすることが出来るわ。髪に同じリボンを結んで、洋服の取りかえっこをすることが出来るわ。

女同士でしか出来ないこと、話せないことを分かち合える。わたしたちは一緒に育ってきた姉妹で、誰よりも仲の良い親友なの。

シンシアはわたしの命そのもの。この世でたったひとりの、かけがえのない半身よ。

わたし、早くシンシアに会いたい。あの子がいなければ、わたしは決してわたしではいられない。

決して生きては……いけない」

まるで、既にシンシアの存在を失くしてしまったかのように、少女が哀しげに両手で顔を覆う。

緑の目の少年は、肩を震わせて嗚咽する少女を黙ってじっと見つめ、たった今彼女が発した言葉の意味を思った。

(シンシアがいなければ、わたしは決してわたしではいられない。決して生きていけない)

同じだ。

男と女という違いこそあれ、自分と彼女の抱える想いは同じなのだ。

言葉で表すことが出来ないほどのシンシアへの愛情も、ふたりの間に結ばれた、命の意義のような深く強い絆も。

それではこの少女は、もしかすると本当に同じ存在、もう一人の自分なのかもしれない。

「なあ、よくわかんねえけどさ」

少年はいくぶん口調を和らげて言った。

「なんだか知らないが、これからなにかの冒険が始まる。俺とお前のどちらかひとりが、その物語の主人公に選ばれる。

そして、選ばれた方しかシンシアに会うことは出来ない。そういうことか」

少女は涙に濡れた目を上げた。

「……そうよ」

「だったら、ここで悩んでもしょうがないだろ。選択権は俺たちにはないんだ。

俺はどっちでもいい。シンシアには会いたいけど、お前を蹴落としてまで自分が主役になりたいとは思わない」

「え……」

少年はふいと顔を逸らしてその場に横たわると、頭の後ろで両腕を組んで目を閉じた。

「お前はもうひとりの俺なんだろ。だったらどっちが選ばれたって、結局同じことだ。

お前がシンシアの傍にいれば、それは俺が傍にいるのと同じってことになる。もしも俺が選ばれなかったら、俺のぶんもお前があいつを守ってやってくれ。頼んだぜ」

「あなた……」

緑の目の少女はぴたりと泣くのを止め、まばたきして少年を見つめた。

「無愛想で人見知りでいじけてて、同じ勇者なのに男はなんて情けないんだろうと思ってたけど、意外といい奴なのね」

「意外とは余計だ。それに俺は、べつにいじけてない」

「ううん、いじけてるわ。すぐ自己憐憫に浸って、子供みたいにうじうじべそをかいて。

わたしは女だもの。男よりずっと心が強く出来てる。あなたみたいにすぐ悲劇の殻に閉じこもったりしないわ。

大好きなシンシアに恥ずかしくないように、どんなことがあっても前を向いて生きるつもりよ」

「俺だって前を向いて生きてるだろ」

緑の目の少年はむっとして言い返した。

「俺がいつ、悲劇の殻に閉じこもったんだ。なんにも知らないくせに適当なことを言うな。大体俺は、うじうじなんかしてない」

「いいえ、してるわ。見てて苛々するのよ。羽根帽子に頬ずりしてはめそめそ泣いて、毎日毎日うじうじうじうじ」

「し、してねーよ、そんなこと!」

「いいえ、してる」

「してない!」

「してる!」

「してない!」

同じ色の髪と目をした少年と少女が眉を吊り上げ、真正面からぎりりと睨みあった、その時。

ピコピコピコピローン、という不思議な金属音のようなメロディが、彼方から流れて来た。



ぼうけんのしょ を つくる



「来たわ!」

少女が期待に瞳を輝かせた。

「ついに来たのよ!さあ、あなたもわたしの横に並んで。いよいよプロローグが始まるの。

運命の天空の勇者と導かれし者たちの、果てしなく壮大な冒険の物語が幕を開ける。今こそ、その主人公が選ばれる時だわ」

少女がいきいきとした表情で見上げると、靄のような闇につつまれていた上空が、たちまち光の粒子に覆われた。

光の粉が、雨に変わる。輝きのしずくがあちこちから舞い落ちて来る。

それは夢ではないなにかの始まりを明確に告げる、未来への冒険の舞台のこけら落としだった。

まばゆいほどの煌めきが、頭上から降る。立ち上がって大粒の光の雨を身体じゅうに浴びながら、少年はふと恐怖にも似た不安を覚えた。

(……怖い。どうしてだ?急にすごく怖くなってきた。

かっこつけてあんなことを言ったくせに、やっぱりどこかで自分が選ばれたいと思ってるんだろうか。

もしも、俺が主人公の勇者になれなかったら。もしもシンシアに会えなかったら……)

その時、掌にあたたかいものが触れた。

ぬくもりを感じた方を見降ろすと、傍らの緑の目の少女がすべて解っていると言うようにほほえみ、力強く少年の手を握っていた。

「大丈夫よ。怖がらないで。

わたしとあなたは同じ存在。同じ物語の主人公。どちらもわたしであり、あなたなの。

だから、わたしたちは共に冒険出来る。どちらも前を向いて生きる、たったひとりの天空の勇者なのよ」

「……ああ。そうだな」

少年は頷いた。

言葉が心に届くと、その向こうにあるもうひとつの心に安堵があふれる。

そのとたん、並んで立つ少年と少女の脳裏に、まだ見たことのない記憶が絵巻物のように広がった。

険しい岩山。牙をむく恐ろしい魔物。

財宝が眠る洞窟。嵐の中を進む船。

雷を呼ぶ呪文。空に浮かぶ城。

天を駆ける巨大な翼竜。馬車から飛び出して戦う仲間たち。

そして、あどけない笑顔でこちらに大きく手を振る、命より大切ないとしいエルフの少女。


神すらその筋書きを知らぬ、見果てぬ探索の物語。

わたしたちはきっと、共に冒険出来る。


少年と少女は視線を交わして小さく頷き、手をつないだまま、天空に広がる光の波紋に向けてもう片方の手を大きく差し伸べた。

先ほどと同じ不思議なメロディが、ふたりをいざなうように再び鳴り始める。

それを聞くと、勇者と呼ばれる少年は唇の片方を持ち上げて不敵にほほえみ、勇者と呼ばれる少女は小首を傾げ、白い歯を見せて顔一杯で笑った。


「さあ、行こう」



メロディは問いかける。

冒険者よ。どちらを選ぶ?

物語はもう始まった。




しゅじんこうの せいべつを えらんでください。




…………男?




…………女?




-FIN-

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