約束の夜〜続・ゆびきりげんまん〜
「おい」
肩を乱暴に揺すぶられて、はっと目を開ける。
酒のこぼれたテーブルの湿っぽい感触が頬をこすり、宿の食堂の光景が視界に広がった。
顔を上げると、翡翠色のふたつの瞳が無感動にこちらを見下ろしている。天空の勇者の呼ばれる少年だ。
「な、なによ。やーだ、あたしいつのまにか寝ちゃったのね」
急いで瞼をこすると、くまどった色彩が涙で濡れて手の甲に移り、マーニャは気まずさを噛みしめた。
よりによって、一番見られたくない奴に見られてしまった。
「宿のあるじが、続きは部屋で飲めだとさ。ここはもう終いだそうだ」
緑色の目をした少年はそっけなく言って、くるりと背を向けた。
「待ってよ!今の……」
「俺はなにも見てない」
無機質な背中が答える。
「それに誰が何を考えて泣こうが、興味もない」
「少しも知りたいと思わないの?仲間の涙の理由を」
「知ってどうなる。涙なんて欠伸ひとつで出るもんだ。それともお前、喋りたいのか」
「もし」
咄嗟に、考えてもみなかった言葉が口をついた。
「もしあたしが……あんたに聞いて欲しいって言ったら?」
勇者の少年は振り返り、黙ってマーニャを見つめた。
ただ美しいだけの、硝子玉みたいながらんどうの緑の目がこちらを射抜く。
(ああ、やっぱり嫌い。こいつ。どうしても好きになれない)
ざわざわと背中の産毛が逆立つような苛立ちが突きあげて、マーニャは唇を噛んだ。
この少年の何がむかつくかといえば、全身をハリネズミのように拒絶の棘で覆うことで、中に包まれた弱すぎる心を苦もなく守っていることだ。
(どんなに辛くても、能天気に振る舞うしか出来ない人間の苦しみなんか、あんたみたいな人間嫌いにはきっと解りもしないんでしょうよ)
それでも刺さった矢の痛みはきっと同じで、痛みの磁石が差す方向も同じだから、二人は決して相容れないけれど、いつも同じ色の血を流している。
「俺は今から夜風に当たりに行く」
勇者の少年は眉ひとすじ動かさずに言った。
「裏庭を出て、西の井戸の袂で少し休む。木彫りを彫りたいんだ。
宿の窓は全部東向きだから、そこでの話し声は中に聞こえることはない」
「……なにが言いたいの」
「井戸は丸いから、反対側に誰か座って独りごとを言っても、俺はきっと野良猫の声程度にしか気付かないだろうってことだ」
少年は視線を外して、もう一度マーニャを見た。
「同情はしない。言っておくが俺は、お前のことが嫌いだ」
「あたしもよ。あんたが嫌い」
「無理して明るい人間を演じて、嘘を塗り固める偽善者だ」
「自己憐憫に憑りつかれて、不幸をまき散らす軟弱者だわ」
「……けど」
「……でも」
痛みと傷をくぐった真実を映すラーの鏡の向こうには、多分互いの顔がある。
「ねえ、約束してよ。勇者様。あたしとあんたは嫌い同士だけど、それでもあたしの復讐に、あんたは必ず最後まで付き合うって」
マーニャが小指を突き出すと、勇者の少年は不快そうな顔をした。
「俺は約束は嫌いだ。約束は口当たりのいい嘘でしかない」
「じゃあ、あたしも約束する。あんたの復讐に最後まで付き合う」
「破らばもろともってやつか」
「どうとでも」
勇者の少年は小さく笑うと、マーニャの小指に小指を絡め、すぐに離した。
「針千本、用意しとけ」
「あんたがね」
暗闇を乗せた背中が片手を振り上げ、扉を開けて出て行く。
マーニャは立てた小指を長い間見つめてから、静かに立ち上がって扉を開け、その後を追った。
-FIN-