ゆびきりげんまん
「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます」
小さな頃は、それ自体がひとつの呪文だと思っていた言葉に、意味と言う色付けを知ったのはもうだいぶ大きくなってからのこと。
「あらマーニャ、あんた知らないの?」
悪戯な笑顔と一緒に教えてくれたのは、どこの誰だったろう?
鏡台に転がった練り紅の甘ったるい香りと、化粧直しに余念がない女達の嬌声。
杯が割れる音、余汰話と痴話喧嘩、下手くそな歌と怒号の飛び交う酒場の乱痴気騒ぎに、
指先でくゆらす細長い煙草の紫煙、無理して飲み干した葡萄酒の酸っぱい苦さ。
モンバーバラ、麗しきこの世界の歓楽のるつぼ、眠りを忘れた頽廃の街。
「だったら教えてあげる」
火酒の強烈な香りが混じった熱い息が、ピアスを刺したばかりの耳朶に吹きかかった。
「昔、遠い東の国の女達はね、愛する男との約束のあかしに自分の小指を切り落として渡したの。
そして相手には、もしその約束を破れば「げんまん」……拳を万、一万の拳の殴打と千本の針を飲ませるとの、命懸けの誓いを交わしたのよ」
「怖ぁーい!」
マーニャは甲高い悲鳴を上げて震え上がった。
「ゆびきりげんまんって、そんな恐ろしい意味があったの?
昔から伝わる、ただのわらべ歌だと思ってた」
「歌いながら、互いの小指と小指を曲げて絡めるでしょう?」
隅々まで塗った、菱形の真っ赤な唇がほほえむ。
「あれはこの約束を必ず遂げるために、今からわたしは大切な小指を失います。
そしてもし約束が守られなければ、貴方は小指以上のものを失います、という誓約のしるしなのよ」
「あたし、もう絶対に指切りなんかしないわ」
マーニャは身震いして言った。
「小指を切り落とすのも嫌だし、好きな人を殴ったり、針を飲ませるのもごめんだもの」
「約束は裏切りと表裏一体。交わす相手に、心の全てを委ねるということ。
マーニャ、いつか解るわ。それがどんなに恐ろしくて、そしてどんなに甘美なことか。
人は守られることなどないと解っていても、愛する者と約束を交わす歓びに何度でも没我してしまう。
身体を切り落とされる痛みと引き換えにしても、なお」
にっこり笑ったその人が、いつも素手を見せないように綺麗な手袋を嵌めていたことを、マーニャはふと思い出した。
(……まさか、ね)
約束はそんなに怖いものじゃない。
まだ来ない明日に向けて、誰かとあらかじめ気持ちを相似形に重ねておくことは、指なんか切り落とさなくたってちゃんと解る、幸せな未来への調印だ。
(さあ、休暇休暇。家に帰ろっと)
いつもとろりと紫色の麝香が立ち込めているような、この街の空気も好きだけど、時々は全部洗い流して、中身を綺麗に入れ替えたい。
農夫の鼻歌と乾いた土の匂い、藁くずに寝ころんで食べるパンの香しい匂いに。
それに故郷には可愛い妹と、地下室にこもっては日々実験に明け暮れる、陰気でこの上なく優しい父親がいる。
(今度の難しい錬金術、絶対に成功させると約束したって言ってたっけ。
弟子のバルザックと、オーリンと)
父に従う熊のような大男ふたりの片割れの、暗く醜悪な赤い目が、どうしてもマーニャは好きになれなかった。
(でも、父さんが約束したんなら仕方ないわ)
あんなに真摯に、ひとつの道に全てを賭けて生きる人が交わした約束は、必ず守られなくてはならない。
それ以外に果たされるべきどんな誠実な誓いが、この世に存在するというのだろう?
(マーニャ、教えてあげる。約束と裏切りは表裏一体)
囁きが耳朶に吊るしたピアスを揺らす。
マーニャは首を振ると、久しぶりの我が家への土産として、たくさんの菓子や珍しい果物を袋に詰め込んだ。
(みんなで食べよっと。ミネアが小食なのは昔からだけど、
父さんたちも実験に没頭するあまり、すぐ食事を抜いちゃうからね)
家に着いた頃には、彼らが交わした約束がみごと果たされて、武骨な笑顔が達成の喜びに包まれていますように。
(今帰るからね。父さん、研究の結果聞かせてね。
ミネア、長いこと一人ぼっちにしちゃったぶん、いっぱいいっぱい話そうね)
街を出ると、北の空が一瞬赤黒く光ったような気がした。
マーニャは小さく首をかしげたが、気を取り直してほほえむと、故郷へ向けて力強く歩き出した。
(ねえマーニャ、いつか解るわ)
(約束は守られることなどない)
(それでも人は約束を交わすの。たとえ身体を切り落とされても)
(痛みと引き換えてもなお……何度でも、何度でも)
長い髪をかき上げて、旅に不似合いな尖ったヒールで草を踏み越える。
珊瑚色に塗ったマーニャの三日月型の唇から、再会の期待に弾むおどけた囁きがこぼれた。
指切ーり、拳ー万、
嘘は許さない。
嘘着いたら、そいつにあたしが針千本、飲ーます。
-FIN-