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紅茶の日のお茶会

さわさわと雨が降り続いていた。
昨夜から明け方の今までずっとだ。

天気予報によれば、一日中雨らしい。


明け方ということだけでなく、降り続いた雨のせいで尚更気温も低く肌寒い。
空気にラムネを溶いたような明け方のあおい世界に、傘をさして佇む者が独り。


青い紫陽花が咲き並ぶ街路樹の歩道。
フェンス越しの車道は左手に。
まだぼんやりと光る街灯が、濡れた傘を僅かにきらめかせた。





黒地の傘は、天辺と縁にぐるりと白い薔薇がモチーフの飾り模様が入っている。
いかにも女性らしい細身の傘で、持ち主も女性のようだった。
柄を両手で支え、まるで初めからそこに存在していたかのように微動だにしない。


無表情で見据える先には、雨と街灯と生け垣に霞むような誰かの姿。
街路樹沿いに備え付けられたベンチに座る何者かを見ていた。

昨夜から続く雨にも関わらず、穏やかな雨なら頭上に広がる枝葉によりあまり濡れることがない場所だった。
今そこを見つめる彼女も、時々利用するからこそ知っている。


だのに、そこに何者かが座っているのが酷く不思議な様子で立ち尽くしていた。
ベンチに座る者は、まもなく彼女に気付いた。

お互い、細かい表情は読み取れなかったはずだが、ベンチに座る者は立ち尽くす者を見て間違いなく微笑んだのが伝わってしまう。


余計に足が縫いついた心地になるのだったが、引き返すのも癪だったので立ち尽くすのをやめた。


距離が近づくにつれ、座る者の見慣れた微笑が幻ではないことを確信する。
逆に、歩き始めた彼女の表情が実に冷たい者であることも判明した。
無表情というよりも血の気が引いているような、顔色がよくないように見えたのは枝葉の陰のせいではないだろう。

ベンチの手前で立ち止まり、座る者は満足そうに笑った。
とても中性的な美男子で、灰色に近い長く細い銀髪を後ろで束ねていた。
声色もまた中性的である。


「おはようございます。フォーマルハウト嬢」


「おはようございます。ズーカーマン様」


よく通る声でズーカーマンと呼ばれた者が、ゆっくり語るような口調でフォーマルハウトと呼ばれた者が、それぞれ挨拶を交わした。


「座ったままで失礼、傘を持っていないのでなるべく濡れたくないのです」


「座ったままで結構、雨に濡れるか否かが私達の境界です」


友好的なズーカーマンに対して、フォーマルハウトは冷たく語る。

ズーカーマンは一切調子を崩さず、不敵な笑みを浮かべたままだった。
フォーマルハウトは先程よりも血の気の引いたような顔色に、気怠い双眸を揺らしている。

「おや、おや、てっきり相合い傘というものをさせてもらえるのではないかと、期待に胸が踊りましたが。
そんなに都合がよいわけもありませんね」


ほんの少し、雨足が強くなる。
地面で跳ねる水滴も辛うじてズーカーマンの足元に届かないのだ。
フォーマルハウトは僅かに傘を持ち直す。


「しかし、こんな早朝にお散歩ですか。4時過ぎ。明るくなる頃です。



でも気を付けなければ。
悪意ある者はこの時間にも現れますよ」


「例えば、ズーカーマン様のような?」

「おや、手厳しい。好意こそあれど、悪意があるように見えますか?」

「………私に用があるのでしょう?」


ちっとも変わらぬ様子のやり取りに、フォーマルハウトは目線を逸らして言う。

遠く、道の先だ。

誰も歩いていない。
車も走っていない。

雨と緑陰に霞む道の先はまだまだ暗かった。


「勿論!さあ、今年もみっつめのカップをお持ちの特別なフォーマルハウト嬢に、主催自らあの日の招待状を届けに参りました。


受け取っていただけますね?」

有無を言わさぬようすで、ズーカーマンは言葉を突き刺した。
訊ねておきながら、拒否などできないことを解っている。

だからせめてもの抵抗に、フォーマルハウトは遠くを見たのだ。


「もちろん」

ぬるりと、口の端しから密がこぼれるのではないかと疑う調子でフォーマルハウトは返事をした。


満足そうに笑ったズーカーマンが、手品のように華麗な動作で懐からコースターを取り出した。
それを指に挟みフォーマルハウトに差し出す。


雨滴に濡れぬ際で、それは待っていた。


フォーマルハウトは傘を傾け、躊躇うように一拍置いてから受け取る。
レース編みの透かしが入った白丸の、なんの変鉄もない紙のコースター。
喫茶店では珍しくもない。


「招待状、今年もお渡し致しました。また前夜に迎えを寄越しましょう」

「そうしていただけると、とても助かります」


大切そうに、フォーマルハウトはコースターを仕舞い込んだ。
その動作も手品のように鮮やかだった。

「そうですか」

「例年のように、フォーマルハウト嬢には今年の顔を順番にお教えしましょうね。
タダラコズエ。
シャールカ・ヨハンナ・コルディーク。
アイネ・フォーマルハウト。

クツカケヨモギ
カササギウジョウ。
そして主催のわたくしズーカーマン」

名前を聴いたフォーマルハウトの表情が、僅かに蠢いた。
物言いたげにゆっくりまたたく。

「今年は一人、カップとご縁が切れたようで。弥生の頃からよっつめが空席のままです」

見透かしたようにズーカーマンが続けると、

「そうですか」

気のない返事をフォーマルハウトが返す。


「でもご安心ください。当日までに席は必ず埋まりますから」

「そうしてください」


不敵な笑みをフォーマルハウトに向け、フォーマルハウトはやはり生気の薄い顔でズーカーマンを見る。
雨音だけがさわさわとこだましていた。


フォーマルハウトはまた動けずにいたのだが、不意に傘をズーカーマンに差し出す。
当然、雨の滴がフォーマルハウトを濡らし始める。

「用が済んだようですから、私はこれで。どうぞ傘をお使いください。今日は一日雨ですから」

「おや、いいのですよ?いくら傘がないとはいえだから帰れないわけではないのですから」


笑って断るが、瞬く間に意地の悪い顔になったズーカーマンは、フォーマルハウトの揺れる瞳を捕捉して続けた。

「それに、わたくしと違ってフォーマルハウト嬢は濡れては困るでしょう?」


対抗するかのように瞬間、フォーマルハウトの瞳にドス黒い感情が垣間見えた。
相変わらず血の気は感じないが、ふつふつとしたものだけは確かに感じ取れた。


「言ったでしょう。雨に濡れるか否かが私達の境界なのですよ、ズーカーマン様」


にたり。
そう表現するのが似つかわしい笑みを浮かべたフォーマルハウトは、自ら濡れない場所へと踏み込みズーカーマンの手を取ると、傘を手渡した。
しっかりと柄を握らせてから後退し、踵を返す。

完全に雨に濡れる場所へ出てしまってから振り返る頃には、相変わらずの調子に戻ってしまった。
ズーカーマンは苦笑し、おとなしく傘を構えた。


「それでは、また紅茶の日に。それまでさよならズーカーマン様」

「それでは、また紅茶の日に。優しく縛って差し上げますよフォーマルハウト嬢」


西洋式のお辞儀でフォーマルハウトが別れを告げれば、その場で胸に手を当て僅かに傾いだズーカーマンが別れを告げる。


そしてもう振り返らずに、フォーマルハウトは来た道を戻っていった。
その顔は激しい怒りを抑えようとするかのようで、ただ相変わらず青ざめたような色であった。


対するズーカーマンは彼女の姿が見えなくなるまでベンチに留まり、水溜まりの波紋に微笑み掛けてから悠々と立ち上がった。
くるりと傘を回すと、フォーマルハウトとは真逆の道を歩いていった。


ベンチの脇に咲く紫陽花の葉に、蝸牛がゆるりと這っていた。
予報通り雨はやみそうにない。
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