あの人のこと
後にも先にも、私がそれを見たのは彼が見せてくれるときだけでした。
行方をくらませてしまったあの人は、植物に囲まれた生活を営み、たまに遊びに行けば如雨露でお茶をいれてくださるようなお方です。
勿論、如雨露はお茶の時間専用でしたから、初めは驚きましたけれど、いつも安心して頂いていました。
私と彼はきっと誰よりも仲がよく、でも彼の方が私にとても好意を寄せていました。
ですが愛しあうだとか、男女のお付き合いだとか、そんなこととは無縁のように感じていて、それでもこれはこれで特別な関係を築いていたと自負しています。
いつものように彼を訪ね、お茶の時間を一緒に楽しもうとしていた時の事です。
本当は、もうあの時から(もしかするとあの時以前の長い間)彼は私をどうしたいのか決めていたのだと、こうして顧みているとふと気付くのです。
「今日は、ベリィに見せたいものがあるんだ」
そう言った彼は、囁くように続けました。
「ベリィは、妖精の琥珀を知っている?」
ヨウセイノコハク。
思い当たる節のないその言葉に、鸚鵡返しで訊ねると彼は少しだけ笑って、何かを隠すように丸めたその両手をそっと差し出すのです。
「ベリィは特別だから、見せてあげるよ」
もう微かなほどの囁き声で言いながら、でもその両手をなかなか開こうとはしません。
私は彼が何を見せたいのかわからず、もしもこれがいたずらの過ぎる子供であれば女性が声をあげて逃げるような虫が出てくるのだと、幼い頃の記憶から照合していたのです。
ただ彼はそんな人ではないため(今回は違うのかもしれない、そうも思いましたが)そっと私の手を彼の手に乗せると顔色をうかがいます。
別段変わった様子もない表情を確認してから、抵抗を微塵もしない彼の手をゆっくりと開かせるのでした。
彼の手の内を暴いた私は、息をのみました。
楕円形で、空豆よりひとまわり程の大きさのそれは、べっこう飴のような色で中心に何か入っていました。
ヨウセイノコハク。
妖精の、琥珀。
幾秒かのタイムラグが生じたあとで、彼が見せてくれたものが何であるのか理解するのです。
琥珀なら私も何度か見たことがあります。
こんな風に、中に何かが入った琥珀も見たことがあります。
でも、私は、中に妖精が入った琥珀は見たことがありませんでしたし、妖精その物を見たことすらなかったのです。
何故か背徳感のようなものが沸き上がるのを感じながら、もしかするとそういうアクセサリーなのかもしれないと思いました。
硝子の中に妖精を模した部品を入れて固めれば簡単に作れそうでしたから。
「あの…」
私が話そうとすると、彼は私の手にそれを乗せました。
そして彼は立ち上がり、少しの間私の側から離れたのです。
どうしたらいいのかしら、と、手に乗ったそれを観察します。
重さにさほど不自然な点はありませんでしたし、硝子細工ではないことは手に乗った瞬間から解ってしまいました。
中に入っているモノを改めて見ると、その時は有名な妖精写真を思い出しもしたものですが、それは紙切れのように平面ではなく立体的なものであることもよく解ります。
それから、観察するにつれ焦燥と背徳感が高まっていくのが不思議で仕方がありませんでした。
その中に入っていたのは小指よりも小さな人間だった、というだけでなぜこんな気持ちになるのか。
この手のアクセサリーや模造品なんて、いくらでも作れるというのに。
御伽噺の妖精が葉の上にちょんと足を乗せ、両腕は身体に添えて真っ直ぐ後ろに伸ばし、身体は緩い『く』の字型。
虫のように小さなまぶたはとじ、口は微笑んでいるようにも見えました。
私にはそれが華の薫りを嗅ごうとしている妖精にしか見えなくて、背中からはえているようにも見える羽蟻のような形と透き通った色の羽のせいで生きたまま閉じ込められてしまったとしか思えず、でもまだ平常なら、どうしたって偽物にしか見えないのに、私だって普段ならもっと懐疑的になるのにそんな風に考えるほどどうしようもない気持ちが私を支配して
「凄く綺麗だろう?」
いつの間にか戻ってきた彼が私の背後にいて肩を掴んでいたことすら、耳元で囁かれるまで気が付かなかったというのは、非常に異常な事態だったのです。
私は何故か動けないでいましたから、抱き寄せるように手を回した彼が私の手の中から琥珀を奪うのを黙ってやり過ごしました。
「どうかした?」
まだ、耳元で囁く彼は、わざとらしく私に訊ねました。
不安で埋め尽くされる心を鎮めながら、私はいつも通りを意識して振る舞いました。
それから特に変化もなく、彼が琥珀を片付けるとまたいつも通りの時間に戻りました。
その後、彼が居なくなるまで何度も通いましたが時折見せてくれた妖精の琥珀も今はなくなってしまっていて、ただ、その妖精の琥珀がどうして無くなってしまったのかを私は知っています。
それはまた、別の機会にお話しすることにしましょう。
私が何故この組織に身を置くのか、その理由に等しいお話になりますから、長話がお嫌いな方には苦痛でしょうから。
行方をくらませてしまったあの人は、植物に囲まれた生活を営み、たまに遊びに行けば如雨露でお茶をいれてくださるようなお方です。
勿論、如雨露はお茶の時間専用でしたから、初めは驚きましたけれど、いつも安心して頂いていました。
私と彼はきっと誰よりも仲がよく、でも彼の方が私にとても好意を寄せていました。
ですが愛しあうだとか、男女のお付き合いだとか、そんなこととは無縁のように感じていて、それでもこれはこれで特別な関係を築いていたと自負しています。
いつものように彼を訪ね、お茶の時間を一緒に楽しもうとしていた時の事です。
本当は、もうあの時から(もしかするとあの時以前の長い間)彼は私をどうしたいのか決めていたのだと、こうして顧みているとふと気付くのです。
「今日は、ベリィに見せたいものがあるんだ」
そう言った彼は、囁くように続けました。
「ベリィは、妖精の琥珀を知っている?」
ヨウセイノコハク。
思い当たる節のないその言葉に、鸚鵡返しで訊ねると彼は少しだけ笑って、何かを隠すように丸めたその両手をそっと差し出すのです。
「ベリィは特別だから、見せてあげるよ」
もう微かなほどの囁き声で言いながら、でもその両手をなかなか開こうとはしません。
私は彼が何を見せたいのかわからず、もしもこれがいたずらの過ぎる子供であれば女性が声をあげて逃げるような虫が出てくるのだと、幼い頃の記憶から照合していたのです。
ただ彼はそんな人ではないため(今回は違うのかもしれない、そうも思いましたが)そっと私の手を彼の手に乗せると顔色をうかがいます。
別段変わった様子もない表情を確認してから、抵抗を微塵もしない彼の手をゆっくりと開かせるのでした。
彼の手の内を暴いた私は、息をのみました。
楕円形で、空豆よりひとまわり程の大きさのそれは、べっこう飴のような色で中心に何か入っていました。
ヨウセイノコハク。
妖精の、琥珀。
幾秒かのタイムラグが生じたあとで、彼が見せてくれたものが何であるのか理解するのです。
琥珀なら私も何度か見たことがあります。
こんな風に、中に何かが入った琥珀も見たことがあります。
でも、私は、中に妖精が入った琥珀は見たことがありませんでしたし、妖精その物を見たことすらなかったのです。
何故か背徳感のようなものが沸き上がるのを感じながら、もしかするとそういうアクセサリーなのかもしれないと思いました。
硝子の中に妖精を模した部品を入れて固めれば簡単に作れそうでしたから。
「あの…」
私が話そうとすると、彼は私の手にそれを乗せました。
そして彼は立ち上がり、少しの間私の側から離れたのです。
どうしたらいいのかしら、と、手に乗ったそれを観察します。
重さにさほど不自然な点はありませんでしたし、硝子細工ではないことは手に乗った瞬間から解ってしまいました。
中に入っているモノを改めて見ると、その時は有名な妖精写真を思い出しもしたものですが、それは紙切れのように平面ではなく立体的なものであることもよく解ります。
それから、観察するにつれ焦燥と背徳感が高まっていくのが不思議で仕方がありませんでした。
その中に入っていたのは小指よりも小さな人間だった、というだけでなぜこんな気持ちになるのか。
この手のアクセサリーや模造品なんて、いくらでも作れるというのに。
御伽噺の妖精が葉の上にちょんと足を乗せ、両腕は身体に添えて真っ直ぐ後ろに伸ばし、身体は緩い『く』の字型。
虫のように小さなまぶたはとじ、口は微笑んでいるようにも見えました。
私にはそれが華の薫りを嗅ごうとしている妖精にしか見えなくて、背中からはえているようにも見える羽蟻のような形と透き通った色の羽のせいで生きたまま閉じ込められてしまったとしか思えず、でもまだ平常なら、どうしたって偽物にしか見えないのに、私だって普段ならもっと懐疑的になるのにそんな風に考えるほどどうしようもない気持ちが私を支配して
「凄く綺麗だろう?」
いつの間にか戻ってきた彼が私の背後にいて肩を掴んでいたことすら、耳元で囁かれるまで気が付かなかったというのは、非常に異常な事態だったのです。
私は何故か動けないでいましたから、抱き寄せるように手を回した彼が私の手の中から琥珀を奪うのを黙ってやり過ごしました。
「どうかした?」
まだ、耳元で囁く彼は、わざとらしく私に訊ねました。
不安で埋め尽くされる心を鎮めながら、私はいつも通りを意識して振る舞いました。
それから特に変化もなく、彼が琥珀を片付けるとまたいつも通りの時間に戻りました。
その後、彼が居なくなるまで何度も通いましたが時折見せてくれた妖精の琥珀も今はなくなってしまっていて、ただ、その妖精の琥珀がどうして無くなってしまったのかを私は知っています。
それはまた、別の機会にお話しすることにしましょう。
私が何故この組織に身を置くのか、その理由に等しいお話になりますから、長話がお嫌いな方には苦痛でしょうから。
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