花(オムニバス)
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※死ネタ注意
『あなたは、こちらに来ない方がいい』
クロムは未だに、その時のことを夢に見る。
決してあの時、彼はクロムを責めるような口調ではなかった、と思う。けれど夢では必ず、彼は叱るようにきつい口調で詰る。
けれどその後に、優しい言葉で夢はこう語るのだ。
『あなたが居てくれるお陰で、僕は光を信じられる』
それは現実に彼が言った言葉なのか、クロムは思い出せない。
思い出せないから、寝返りを打つ。
まだ聖王エメリナがイーリス聖王国を治めていた頃のこと。
エメリナの治世は素晴らしいものだったが、それでもイーリス王都にもスラム街がある時代があった。
そんな状況を憂い、弟のクロムは、まずスラム街の実態を探ることから始めた。
「まずは、直接乗り込んでみるか」
スラム街に関して、王子に語ろうとする者は少なかった、いや殆どいなかった。
しかし半ば無法地帯と化しており、警察でさえなかなか手出しできないのだという。
危険な所だという認識はあったが、乗り込むしかなかった。
クロムは広場を突っ切り、暗鬱としたスラム街へ、一歩踏み出す。
その瞬間だった。
「!」
まだ昼間なのに、視界が何段階も暗くなる。思わず空を見上げれば、高い建物や汚れた布によって日射しが遮られているのだった。
また、痛い程の視線を感じながら二歩目を踏み出した、その時。
「ねえ、お兄さん。これ以上踏み込まない方がいいと思うけど」
凛とした声がクロムを静止する。
「君は?」
「名前は聞かない方がいいと思うよ。あなたはスラムの人間じゃないでしょ?」
「そうだが。ここに住んでいない者は、名前を尋ねることもできないのか」
振り返ると、そこには比較的綺麗な身なりの青年がいた。
彼はカゴを背負っている。その背のカゴからは、色々な色が見えた。
「おいレイシ」
「なにヴェイク」
「そいつに関わらない方がいいぜ」
「なんで」
「そいつは王子だ。クロムとかいったっけな」
ヴェイク、と呼ばれた男がレイシという青年の隣に立ち、忠告とも思える言葉を発する。
しかしクロムは嫌な気持ちにはならなかった。今まで自分たちはイーリス王都くらいは完全に把握できているだろうと思っていたが、それが間違いだったことが明らかになったのだ。
全く別世界らしいここでは、"表"と全く違う感情を抱かれてもおかしくないだろう、と思った。
「そうだ。俺はクロム。君はレイシで、君はヴェイクだな」
「ヴェイク、僕が関わる人間は僕が決める。忠告してくれたところ悪いけど」
「……ちっ」
レイシにそう言われ、ヴェイクはスラムの闇へ消えていく。
彼自身はヴェイクの背中を目で追うこともなく、じっとクロムを見ていた。
「クロム王子。あなたはこんな所に来る必要はない筈。なんでこんな所に?」
「俺と姉さん――聖王エメリナは、イーリスを平等な国にしたいと考えている。そのためにはまず、このスラム街を知ることが大切だろうと考えたんだ」
「ふうん」
「外で、スラム街について語る者はいなかった。だからこそ、俺自身がここに足を踏み入れることで、何か分かることがあるんじゃないかと思ったんだ」
我ながらすごい理屈だ、とクロムは思う。けれど自分は昔からこうだ、とも思い直した。
クロムは王子だが責任感が強く、何でも自分でやってしまうところがある。それは決して悪いことではないのだが、時に周囲の反発を招いた。
「――ふふ」
が、どうやらレイシには気に入られたようだった。
「あなた、面白い人だね。そんな理由でここに来た人なんていなかったよ? ……いいよ、僕が案内してあげる」
「本当か?」
「うん、本当。ただ1つだけ約束して」
レイシはそう言い、真剣な顔で人差し指を立てる。
「たった1人でスラム街に立ち入らないこと。いいね?」
クロムは逡巡した。だとしたら、この試みは思うように進まないではないか。レイシしか知り合いがいない今は、レイシに案内を頼むしかない。
つまり今は、何であれ彼に従わなければならない。
「……わかった」
「よろしい」
レイシはにっこり笑って、ついてきて、と行って陰鬱な街の先を歩いた。
スラム街の中でも比較的安全な場所、と言われ案内された場所は、確かに想像しているよりは幾分ショックの少ないものだった。
それでもそこら中に飢えた子供は座っているし、動けない年寄りが倒れている。
なぜ弱った人ばかりなのか問うと、少しでも動ける者は"表"で働いているか、スラム街のもっと奥で危険なことをしているのだとレイシは答えた。
その「もっと奥」で一体何をしているのか、詳しくは教えてくれない。が、恐らくそれだけ危険なことなのだろう。
何度か来訪を重ねていれば、いずれ教えてもらえるだろう。
そんな風に考え、クロムは今回の調査を早々に終えることにした。
「悪い、助かった。ありがとうレイシ」
「いいえ、どういたしまして。知らない者が歩けば本当に恐ろしい所だ。僕のような良心的な者に捕まってよかったね」
そう言って彼は快活に笑うが、確かに、とクロムは考える。
もし善人の振りをした者であれば、わざと危険な所に連れていかれ身ぐるみを全て剥がされていたかもしれない。いや、それだけでは済まないかもしれなかったのだ。
そう考えるとぞっとした。剣には自信があるが、何せ未知の場所である。
「ところでレイシ、頼みがあるんだが」
「次の約束? やだよ」
ふふっと彼は意地悪く笑う。
「もし僕にこれ以上頼みごとをしたいのなら、明日以降。王都で花を売っている僕を見つけて、花を買って」
「花屋なのか」
「そう。これ、売り物だから」
背中のカゴを指す。
「そういうわけだから。それじゃあね、クロム王子」
「あ、レイシ、」
クロムは呼び止めるが、レイシは笑いながらスラム街へ帰っていく。
――まあ当たり前か。彼は商売人だし、この案内は何の利益も得られない行為だ。そりゃあ見返りが欲しくもなるだろう。
納得しながら、その日は諦めて大人しく城に帰ることにした。
翌日、クロムは朝から王都内の花屋を片っ端から当たっていたが、目当ての人物を見つけたのは、昼過ぎだった。
「レイシ、こんな所にいたのか!」
「ああ、お早う、クロム王子」
「捜したぞ」
「そんなこと言われたって……開店したの、ついさっきなんだけど」
そう言われ、クロムは一気に疲労を感じた。
そうか、成る程。花屋は朝早いものと勝手に思っていたが、スラム街の朝は遅いのか。確かにそんな印象だ。
気を取り直して花を吟味する。どれも綺麗な花だった。
「綺麗な花だな。どこで摘んできてるんだ?」
「ふふ、内緒ー。でも実は、イーリスの花じゃない花もあるよ」
「何? フェリアとかから輸入してるってことか? 勿論貿易証は持っているな」
「も、もちろん」
レイシの目が泳ぐ。クロムは溜息をついた。
「はあ……俺は警察じゃないからあんまり言えないが。そういうのはこっそりやってくれ」
「うう、ごめんなさい」
イーリスは基本的に、"貿易証"を持っている者にしか貿易を許可していない。それは輸入も輸出も含む。北の軍事国家フェリア国とそういう取り決めがあるのだ。
(西のペレジア帝国とは貿易自体を行っていない。闇の取引があると噂には聞いているのだが……)
「じゃあ……見逃してもらったお礼に、無料でスラム街を案内するよ」
「いや、丁度花が気になっていたところだから、何か買う」
「いいって。ほら行こう」
レイシは広げていた花を手早くたたみ、昨日背負っていたカゴに入れた。
「ねえ、知ってる? 知らないと思うけど。スラム街って本当はどこからでも行けるから、本当に危ない所なんだよ」
近くに住む人は皆知っているから大丈夫だけれどね、と言って、レイシは昨日と全く違う道を通っていく。
というより、クロムでさえあまり知らない道だった。脇道の更に脇道を選び取るような。
そうして行くと、先程まで明るかった空が、いつの間にか薄暗くなっていた。
「まさか……ここはもう、スラム街なのか?」
「そう」
本当だ。生まれてからずっとイーリスに住んでいるクロムでさえ、こんな道は知らなかった。
観光に来た者が何も知らずに迷い込んでしまうこともあるだろう。そうなった時彼ら彼女らは無事で済まない。無事であったとしても、二度とイーリスに観光など来てくれなくなるだろう。
また周りに住む者は知っているから大丈夫だと言うが、少し離れた者ならば分からないかもしれない。ましてや王都に住まない者なら分かる筈もないだろう。
スラム街は貧困対策の為に何らかの措置を講じる必要があると考えていたが、どうやらそれだけでもないようだ。
「レイシはスラム街に住んでいるのか?」
「そうだよ。生まれてきた時からずっとここに」
「家族は?」
レイシは無表情で振り返る。
その表情は本当に恐ろしいもので、クロムの背筋は凍った。
「その質問、ここではしちゃいけないよ」
まだ怒りの表情を見せてくれた方がマシだ。殴られた方が。
彼の無表情は本当に表情がなく、まるで能面のようだった。
感情を押し殺したというより、削ぎ落としたような。そういう恐ろしさだった。
「……悪かった」
「わかればよろしい」
そう言って前を向いたレイシが再び振り返った時は、いつもの笑顔が張り付いていた。
「一応参考までに言っておくと、僕の両親は、僕が産まれた時から行方不明さ。もしかしたらどこかで生きているのかもしれないけど、僕は知らない」
そういう人たちが大半だね、とも付け加える。それでクロムは納得した。
「他に何か質問はある?」
「そうだな……そうだ。今はどこに向かっているんだ?」
「もう少し危ない所」
レイシの答えにクロムは思わず剣の柄に手をかける。
この剣を抜くつもりは決してなかったが、存在が安心を与えてくれる。
「大丈夫。いい人ばかりだから」
スラム街は決して広くない筈だったが、曲がりくねった道を抜けていくと、自分がどこに居るのか全く分からなくなる。レイシを見失えば二度と同じ道からは出られない確信があった。
そうしてたどり着いた場所は、昨日見たよりも若い男性や女性が壁にもたれたり地面に転がっていたりするような所だった。
「ようレイシ、元気か?」
「やあ元気?」
地面に転がっている男が虚ろな目でレイシを見上げ、強張った笑顔を見せながら、変に明るい声を出す。
「おいそこの奴はなんだ? 食っていいのか?」
「まさか。人間なんてまずいんだからやめてよ」
男はクロムと目を合わせ――といってもあまりに虚ろなので、本当に目が合っているかは分からない、そんな気がしているだけだ――下卑た笑い声を上げた。
これがクスリってやつか? と思う。警察によって取り締まりはされているが、やはり限界はあるのだろう。もっと強化せねば、と心の中にメモする。
「それよりも、これ。確か好きだったよね」
「おお! よく俺の好み覚えてたな!」
「いい、それ食べ終わったら働いて、花の代金返してね」
「任せろって。……これはやっぱ、うめえなあ……」
そう言って男はレイシから受け取った花を貪る。花びらだけでなく茎まで。
男を見ながら何とも言えない顔をしているクロムに気づいたのか、レイシは冷静に答えた。
「あの花はスイートアリッサムだよ。大丈夫、単に食用ってだけで害はないから。甘い香りがするから、それがヤク中患者には丁度いいみたい」
そう話していると、レイシの周りに1人、2人と人が集まり始める。
どうやら先程スイートアリッサムを渡したのを見ていたらしかった。我も我もと主張し始める。
「おい、俺にもあの花をくれ。最近辛いんだ」
「あたしが先。あたしは最近、何もやる気が起きないのよお……」
「いい、この花が欲しいんなら、代金と交換だ。働いて金を稼いでこないとやれない」
そう一蹴するとレイシはさっさと歩き出す。
周りの人々は口々に不満を言うが、足早なレイシを追いかけていくことはできないようだった。
クロムも捕まらない内にと素早く立ち去る。
「……顔が広いんだな、レイシは」
「ご覧の通り、狭い世界だから。道は入り組んでるけど」
そうこう話している内に、再びスラム街の出口に着いていた。
「世話になったな」
「こちらこそ、最近顔を出していない所の様子が見れてよかった。僕1人じゃなかなか行く気になれないからさ――そうだ」
レイシは言い、背中のカゴを下ろして、中からある花束を取り出してクロムの方に差し出す。
「これは?」
「出会いの記念に」
1本の茎に、青い花びらを付けた花がいくつか固まって咲いている。
初めて見る花のように思えたが、可憐で可愛い花だと感じた。
「わすれな草って言うんだけどね。スラム街にこうして興味を持ってくれる人って、本当に珍しいんだよ」
クロムはこの2日間を通して、レイシに関して気づいたことがいくつかあった。
まず、彼はスラム街に生まれスラム街で育ったようだが、その状況を良しとしていないようだった。現に積極的に"表"に出てきて商売をしているし、先程も「働いて代金を払え」と言っているが要は労働意欲を出させようとしている。そういう風に思えた。
また「花」という商売道具を選んでいる点だ。販売物としては生活必需品を選んだ方が食いっぱぐれはないはずだ。
しかしこれはクロムの予想だが、「花」を選ぶことによって、生活に関する関心の高さが伺えるではないか。
「……レイシ、レイシもこのスラム街を変えていきたいと思っているのか?」
「それは聞かないでほしいかな」
あくまでスラム街の人間なのでそれは言えない、というスタンスを保つ。
「でもね、クロム王子。あなたがまた来てくれるなら、僕はちゃんと案内するよ。対価なしでね」
「本当か?」
「勿論」
どうやら気が変わったようだった。彼も少なからずクロムと同じ思いを抱いているようだ。
ああでも、とレイシは言葉を付け足す。
「あなたは、こちらに来ない方がいい」
一見拒絶とも取れるその言葉。しかし声音は優しく、突き放すような台詞ではないことがクロムには容易に理解できる。
「なぜ?」
「あなたはこちらに来るべき人間じゃないから。……もしこのスラム街を変えたいというのだったら、あなたはこの内側に入らず、外側から作用してほしい」
それは多分にレイシ自身の願望も含まれていた――が、クロムにとっては願ってもない申し出だ。
たった一部の、たった1人の言葉ではあるけれども、スラム街の内側の人間が、スラムが変わることに賛成した。
それはとても大きなことだった。
「……分かった。そういう話が聞けて嬉しい」
「そう。じゃあ、また明日」
「ああ、また」
クロムはわすれな草を握りしめ、帰路を辿る。たった2日間でも多くのことを学ぶことができた。明日もう一度訪ねれば、更に何かを得ることができるに違いない。
そう期待を膨らませ、王宮での執務に励んだ。
しかし、クロムがレイシと会話をしたのは、それが最後になった。
翌日、執務を終え昼過ぎに街に出る。
さてレイシを捜すか、と考えていたところで、クロムに近づいてくる人影があった。
「おい、テメェ!」
男は近づいてくるなり、クロムの胸ぐらを掴む。
しかしクロムはクロムで冷静に問う。
「確か……ヴェイクといったか。レイシを捜してるんだが、知らないか」
「死んだよ」
「えっ?」
あまりに非日常的な言葉を聞き、クロムは耳を疑った。
「死んだ? 誰が?」
「レイシが。お前に殺されたようなもんだ」
ヴェイクはそう吐き捨てるとクロムを突き飛ばす。
「どうして……」
「どうして? 分かるだろ、そんなの。お前のせいだ」
「俺の? 何故」
「スラム街にはスラム街のボスがいる。そいつが、王族と仲良くするのを好まなかった。王族が介入してくるのを好まなかった。そういうことだ」
その言葉を聞き、クロムの心臓はドクンと大きく鳴って胸が締め付けられた。
――それに、目を付けられたのか、レイシは。俺のせいで。
頭に血が昇りそうなのをどうにか収める。
「……それでも、俺は」
「あ?」
「俺は、スラム街を無くそうとすることに変わりはない。たった1人でも」
「おい、待てよ!」
案内人がいなくなったのなら仕方ない、とスラム街に立ち入ろうとするクロムを、ヴェイクが呼び止める。
「何だ」
「さっきの話、聞いてたか? お前のせいでレイシは死んだんだ。それでもまだスラム街に入ろうってのか?」
「当たり前だ。ここでやめてしまうことこそ、レイシに申し開きできない」
「スラム街でお前を恨んでいる奴は多い。レイシは色んな奴と仲が良かったからな……ボスを恨むこともできない弱い奴が、お前を憎んでいる」
「だったらお前も同じか」
クロムの言葉はヴェイクの思考を詰まらせた。
ああそうだその通りだ、と怒りに任せて言いたいところだったが、レイシの笑顔が脳裏をよぎり、そんなんじゃねえよ、と唇を噛む。
「……お前」
「何だ」
「お前は本当に、このスラム街を潰した上で、ここに住んでる奴が"表"で生きられるようにしてくれんのか?」
「その覚悟だ」
ヴェイクの問いにクロムはまっすぐ目を見て答える。
「――そうか」
「満足か」
「なら、俺も行く」
クロムはその言葉を信じることができない。先程まで恨みのオーラを向けられていたのに。
けれどヴェイクのその目は既に先程の怒りに満ちた目とは違っていた。
「それがレイシの望みなんなら」
「多分な」
クロムは答えて頷く。
出会って2日だけの彼の思いはクロムには分からない。まだ付き合いの長いヴェイクの方が分かることも多いだろう。
けれど、彼が何故協力してくれたのか、花を売っていたのか? そう考えれば、答えは1つのように思える。
「行くか」
「ああ」
2人でスラム街に入っていく。彼らがいつか、日の目を見るために。
王宮のクロムの部屋の窓辺には、花が飾られている。
一度、それは何なのかと聞いたことがある。他の花を見たこともなく、クロムがそういう趣味だとも思えないからだ。
するとクロムは、
「大事な人、だ」
と照れることもなく答えた。
「ふうん……そうなんだ」
分かったように答えるものの、クロムに「大事な人」と言わせるのはどんな人なんだろう、会ってみたいな、と思ってしまった。
わすれな草///真実の愛・私を忘れないで
『あなたは、こちらに来ない方がいい』
クロムは未だに、その時のことを夢に見る。
決してあの時、彼はクロムを責めるような口調ではなかった、と思う。けれど夢では必ず、彼は叱るようにきつい口調で詰る。
けれどその後に、優しい言葉で夢はこう語るのだ。
『あなたが居てくれるお陰で、僕は光を信じられる』
それは現実に彼が言った言葉なのか、クロムは思い出せない。
思い出せないから、寝返りを打つ。
まだ聖王エメリナがイーリス聖王国を治めていた頃のこと。
エメリナの治世は素晴らしいものだったが、それでもイーリス王都にもスラム街がある時代があった。
そんな状況を憂い、弟のクロムは、まずスラム街の実態を探ることから始めた。
「まずは、直接乗り込んでみるか」
スラム街に関して、王子に語ろうとする者は少なかった、いや殆どいなかった。
しかし半ば無法地帯と化しており、警察でさえなかなか手出しできないのだという。
危険な所だという認識はあったが、乗り込むしかなかった。
クロムは広場を突っ切り、暗鬱としたスラム街へ、一歩踏み出す。
その瞬間だった。
「!」
まだ昼間なのに、視界が何段階も暗くなる。思わず空を見上げれば、高い建物や汚れた布によって日射しが遮られているのだった。
また、痛い程の視線を感じながら二歩目を踏み出した、その時。
「ねえ、お兄さん。これ以上踏み込まない方がいいと思うけど」
凛とした声がクロムを静止する。
「君は?」
「名前は聞かない方がいいと思うよ。あなたはスラムの人間じゃないでしょ?」
「そうだが。ここに住んでいない者は、名前を尋ねることもできないのか」
振り返ると、そこには比較的綺麗な身なりの青年がいた。
彼はカゴを背負っている。その背のカゴからは、色々な色が見えた。
「おいレイシ」
「なにヴェイク」
「そいつに関わらない方がいいぜ」
「なんで」
「そいつは王子だ。クロムとかいったっけな」
ヴェイク、と呼ばれた男がレイシという青年の隣に立ち、忠告とも思える言葉を発する。
しかしクロムは嫌な気持ちにはならなかった。今まで自分たちはイーリス王都くらいは完全に把握できているだろうと思っていたが、それが間違いだったことが明らかになったのだ。
全く別世界らしいここでは、"表"と全く違う感情を抱かれてもおかしくないだろう、と思った。
「そうだ。俺はクロム。君はレイシで、君はヴェイクだな」
「ヴェイク、僕が関わる人間は僕が決める。忠告してくれたところ悪いけど」
「……ちっ」
レイシにそう言われ、ヴェイクはスラムの闇へ消えていく。
彼自身はヴェイクの背中を目で追うこともなく、じっとクロムを見ていた。
「クロム王子。あなたはこんな所に来る必要はない筈。なんでこんな所に?」
「俺と姉さん――聖王エメリナは、イーリスを平等な国にしたいと考えている。そのためにはまず、このスラム街を知ることが大切だろうと考えたんだ」
「ふうん」
「外で、スラム街について語る者はいなかった。だからこそ、俺自身がここに足を踏み入れることで、何か分かることがあるんじゃないかと思ったんだ」
我ながらすごい理屈だ、とクロムは思う。けれど自分は昔からこうだ、とも思い直した。
クロムは王子だが責任感が強く、何でも自分でやってしまうところがある。それは決して悪いことではないのだが、時に周囲の反発を招いた。
「――ふふ」
が、どうやらレイシには気に入られたようだった。
「あなた、面白い人だね。そんな理由でここに来た人なんていなかったよ? ……いいよ、僕が案内してあげる」
「本当か?」
「うん、本当。ただ1つだけ約束して」
レイシはそう言い、真剣な顔で人差し指を立てる。
「たった1人でスラム街に立ち入らないこと。いいね?」
クロムは逡巡した。だとしたら、この試みは思うように進まないではないか。レイシしか知り合いがいない今は、レイシに案内を頼むしかない。
つまり今は、何であれ彼に従わなければならない。
「……わかった」
「よろしい」
レイシはにっこり笑って、ついてきて、と行って陰鬱な街の先を歩いた。
スラム街の中でも比較的安全な場所、と言われ案内された場所は、確かに想像しているよりは幾分ショックの少ないものだった。
それでもそこら中に飢えた子供は座っているし、動けない年寄りが倒れている。
なぜ弱った人ばかりなのか問うと、少しでも動ける者は"表"で働いているか、スラム街のもっと奥で危険なことをしているのだとレイシは答えた。
その「もっと奥」で一体何をしているのか、詳しくは教えてくれない。が、恐らくそれだけ危険なことなのだろう。
何度か来訪を重ねていれば、いずれ教えてもらえるだろう。
そんな風に考え、クロムは今回の調査を早々に終えることにした。
「悪い、助かった。ありがとうレイシ」
「いいえ、どういたしまして。知らない者が歩けば本当に恐ろしい所だ。僕のような良心的な者に捕まってよかったね」
そう言って彼は快活に笑うが、確かに、とクロムは考える。
もし善人の振りをした者であれば、わざと危険な所に連れていかれ身ぐるみを全て剥がされていたかもしれない。いや、それだけでは済まないかもしれなかったのだ。
そう考えるとぞっとした。剣には自信があるが、何せ未知の場所である。
「ところでレイシ、頼みがあるんだが」
「次の約束? やだよ」
ふふっと彼は意地悪く笑う。
「もし僕にこれ以上頼みごとをしたいのなら、明日以降。王都で花を売っている僕を見つけて、花を買って」
「花屋なのか」
「そう。これ、売り物だから」
背中のカゴを指す。
「そういうわけだから。それじゃあね、クロム王子」
「あ、レイシ、」
クロムは呼び止めるが、レイシは笑いながらスラム街へ帰っていく。
――まあ当たり前か。彼は商売人だし、この案内は何の利益も得られない行為だ。そりゃあ見返りが欲しくもなるだろう。
納得しながら、その日は諦めて大人しく城に帰ることにした。
翌日、クロムは朝から王都内の花屋を片っ端から当たっていたが、目当ての人物を見つけたのは、昼過ぎだった。
「レイシ、こんな所にいたのか!」
「ああ、お早う、クロム王子」
「捜したぞ」
「そんなこと言われたって……開店したの、ついさっきなんだけど」
そう言われ、クロムは一気に疲労を感じた。
そうか、成る程。花屋は朝早いものと勝手に思っていたが、スラム街の朝は遅いのか。確かにそんな印象だ。
気を取り直して花を吟味する。どれも綺麗な花だった。
「綺麗な花だな。どこで摘んできてるんだ?」
「ふふ、内緒ー。でも実は、イーリスの花じゃない花もあるよ」
「何? フェリアとかから輸入してるってことか? 勿論貿易証は持っているな」
「も、もちろん」
レイシの目が泳ぐ。クロムは溜息をついた。
「はあ……俺は警察じゃないからあんまり言えないが。そういうのはこっそりやってくれ」
「うう、ごめんなさい」
イーリスは基本的に、"貿易証"を持っている者にしか貿易を許可していない。それは輸入も輸出も含む。北の軍事国家フェリア国とそういう取り決めがあるのだ。
(西のペレジア帝国とは貿易自体を行っていない。闇の取引があると噂には聞いているのだが……)
「じゃあ……見逃してもらったお礼に、無料でスラム街を案内するよ」
「いや、丁度花が気になっていたところだから、何か買う」
「いいって。ほら行こう」
レイシは広げていた花を手早くたたみ、昨日背負っていたカゴに入れた。
「ねえ、知ってる? 知らないと思うけど。スラム街って本当はどこからでも行けるから、本当に危ない所なんだよ」
近くに住む人は皆知っているから大丈夫だけれどね、と言って、レイシは昨日と全く違う道を通っていく。
というより、クロムでさえあまり知らない道だった。脇道の更に脇道を選び取るような。
そうして行くと、先程まで明るかった空が、いつの間にか薄暗くなっていた。
「まさか……ここはもう、スラム街なのか?」
「そう」
本当だ。生まれてからずっとイーリスに住んでいるクロムでさえ、こんな道は知らなかった。
観光に来た者が何も知らずに迷い込んでしまうこともあるだろう。そうなった時彼ら彼女らは無事で済まない。無事であったとしても、二度とイーリスに観光など来てくれなくなるだろう。
また周りに住む者は知っているから大丈夫だと言うが、少し離れた者ならば分からないかもしれない。ましてや王都に住まない者なら分かる筈もないだろう。
スラム街は貧困対策の為に何らかの措置を講じる必要があると考えていたが、どうやらそれだけでもないようだ。
「レイシはスラム街に住んでいるのか?」
「そうだよ。生まれてきた時からずっとここに」
「家族は?」
レイシは無表情で振り返る。
その表情は本当に恐ろしいもので、クロムの背筋は凍った。
「その質問、ここではしちゃいけないよ」
まだ怒りの表情を見せてくれた方がマシだ。殴られた方が。
彼の無表情は本当に表情がなく、まるで能面のようだった。
感情を押し殺したというより、削ぎ落としたような。そういう恐ろしさだった。
「……悪かった」
「わかればよろしい」
そう言って前を向いたレイシが再び振り返った時は、いつもの笑顔が張り付いていた。
「一応参考までに言っておくと、僕の両親は、僕が産まれた時から行方不明さ。もしかしたらどこかで生きているのかもしれないけど、僕は知らない」
そういう人たちが大半だね、とも付け加える。それでクロムは納得した。
「他に何か質問はある?」
「そうだな……そうだ。今はどこに向かっているんだ?」
「もう少し危ない所」
レイシの答えにクロムは思わず剣の柄に手をかける。
この剣を抜くつもりは決してなかったが、存在が安心を与えてくれる。
「大丈夫。いい人ばかりだから」
スラム街は決して広くない筈だったが、曲がりくねった道を抜けていくと、自分がどこに居るのか全く分からなくなる。レイシを見失えば二度と同じ道からは出られない確信があった。
そうしてたどり着いた場所は、昨日見たよりも若い男性や女性が壁にもたれたり地面に転がっていたりするような所だった。
「ようレイシ、元気か?」
「やあ元気?」
地面に転がっている男が虚ろな目でレイシを見上げ、強張った笑顔を見せながら、変に明るい声を出す。
「おいそこの奴はなんだ? 食っていいのか?」
「まさか。人間なんてまずいんだからやめてよ」
男はクロムと目を合わせ――といってもあまりに虚ろなので、本当に目が合っているかは分からない、そんな気がしているだけだ――下卑た笑い声を上げた。
これがクスリってやつか? と思う。警察によって取り締まりはされているが、やはり限界はあるのだろう。もっと強化せねば、と心の中にメモする。
「それよりも、これ。確か好きだったよね」
「おお! よく俺の好み覚えてたな!」
「いい、それ食べ終わったら働いて、花の代金返してね」
「任せろって。……これはやっぱ、うめえなあ……」
そう言って男はレイシから受け取った花を貪る。花びらだけでなく茎まで。
男を見ながら何とも言えない顔をしているクロムに気づいたのか、レイシは冷静に答えた。
「あの花はスイートアリッサムだよ。大丈夫、単に食用ってだけで害はないから。甘い香りがするから、それがヤク中患者には丁度いいみたい」
そう話していると、レイシの周りに1人、2人と人が集まり始める。
どうやら先程スイートアリッサムを渡したのを見ていたらしかった。我も我もと主張し始める。
「おい、俺にもあの花をくれ。最近辛いんだ」
「あたしが先。あたしは最近、何もやる気が起きないのよお……」
「いい、この花が欲しいんなら、代金と交換だ。働いて金を稼いでこないとやれない」
そう一蹴するとレイシはさっさと歩き出す。
周りの人々は口々に不満を言うが、足早なレイシを追いかけていくことはできないようだった。
クロムも捕まらない内にと素早く立ち去る。
「……顔が広いんだな、レイシは」
「ご覧の通り、狭い世界だから。道は入り組んでるけど」
そうこう話している内に、再びスラム街の出口に着いていた。
「世話になったな」
「こちらこそ、最近顔を出していない所の様子が見れてよかった。僕1人じゃなかなか行く気になれないからさ――そうだ」
レイシは言い、背中のカゴを下ろして、中からある花束を取り出してクロムの方に差し出す。
「これは?」
「出会いの記念に」
1本の茎に、青い花びらを付けた花がいくつか固まって咲いている。
初めて見る花のように思えたが、可憐で可愛い花だと感じた。
「わすれな草って言うんだけどね。スラム街にこうして興味を持ってくれる人って、本当に珍しいんだよ」
クロムはこの2日間を通して、レイシに関して気づいたことがいくつかあった。
まず、彼はスラム街に生まれスラム街で育ったようだが、その状況を良しとしていないようだった。現に積極的に"表"に出てきて商売をしているし、先程も「働いて代金を払え」と言っているが要は労働意欲を出させようとしている。そういう風に思えた。
また「花」という商売道具を選んでいる点だ。販売物としては生活必需品を選んだ方が食いっぱぐれはないはずだ。
しかしこれはクロムの予想だが、「花」を選ぶことによって、生活に関する関心の高さが伺えるではないか。
「……レイシ、レイシもこのスラム街を変えていきたいと思っているのか?」
「それは聞かないでほしいかな」
あくまでスラム街の人間なのでそれは言えない、というスタンスを保つ。
「でもね、クロム王子。あなたがまた来てくれるなら、僕はちゃんと案内するよ。対価なしでね」
「本当か?」
「勿論」
どうやら気が変わったようだった。彼も少なからずクロムと同じ思いを抱いているようだ。
ああでも、とレイシは言葉を付け足す。
「あなたは、こちらに来ない方がいい」
一見拒絶とも取れるその言葉。しかし声音は優しく、突き放すような台詞ではないことがクロムには容易に理解できる。
「なぜ?」
「あなたはこちらに来るべき人間じゃないから。……もしこのスラム街を変えたいというのだったら、あなたはこの内側に入らず、外側から作用してほしい」
それは多分にレイシ自身の願望も含まれていた――が、クロムにとっては願ってもない申し出だ。
たった一部の、たった1人の言葉ではあるけれども、スラム街の内側の人間が、スラムが変わることに賛成した。
それはとても大きなことだった。
「……分かった。そういう話が聞けて嬉しい」
「そう。じゃあ、また明日」
「ああ、また」
クロムはわすれな草を握りしめ、帰路を辿る。たった2日間でも多くのことを学ぶことができた。明日もう一度訪ねれば、更に何かを得ることができるに違いない。
そう期待を膨らませ、王宮での執務に励んだ。
しかし、クロムがレイシと会話をしたのは、それが最後になった。
翌日、執務を終え昼過ぎに街に出る。
さてレイシを捜すか、と考えていたところで、クロムに近づいてくる人影があった。
「おい、テメェ!」
男は近づいてくるなり、クロムの胸ぐらを掴む。
しかしクロムはクロムで冷静に問う。
「確か……ヴェイクといったか。レイシを捜してるんだが、知らないか」
「死んだよ」
「えっ?」
あまりに非日常的な言葉を聞き、クロムは耳を疑った。
「死んだ? 誰が?」
「レイシが。お前に殺されたようなもんだ」
ヴェイクはそう吐き捨てるとクロムを突き飛ばす。
「どうして……」
「どうして? 分かるだろ、そんなの。お前のせいだ」
「俺の? 何故」
「スラム街にはスラム街のボスがいる。そいつが、王族と仲良くするのを好まなかった。王族が介入してくるのを好まなかった。そういうことだ」
その言葉を聞き、クロムの心臓はドクンと大きく鳴って胸が締め付けられた。
――それに、目を付けられたのか、レイシは。俺のせいで。
頭に血が昇りそうなのをどうにか収める。
「……それでも、俺は」
「あ?」
「俺は、スラム街を無くそうとすることに変わりはない。たった1人でも」
「おい、待てよ!」
案内人がいなくなったのなら仕方ない、とスラム街に立ち入ろうとするクロムを、ヴェイクが呼び止める。
「何だ」
「さっきの話、聞いてたか? お前のせいでレイシは死んだんだ。それでもまだスラム街に入ろうってのか?」
「当たり前だ。ここでやめてしまうことこそ、レイシに申し開きできない」
「スラム街でお前を恨んでいる奴は多い。レイシは色んな奴と仲が良かったからな……ボスを恨むこともできない弱い奴が、お前を憎んでいる」
「だったらお前も同じか」
クロムの言葉はヴェイクの思考を詰まらせた。
ああそうだその通りだ、と怒りに任せて言いたいところだったが、レイシの笑顔が脳裏をよぎり、そんなんじゃねえよ、と唇を噛む。
「……お前」
「何だ」
「お前は本当に、このスラム街を潰した上で、ここに住んでる奴が"表"で生きられるようにしてくれんのか?」
「その覚悟だ」
ヴェイクの問いにクロムはまっすぐ目を見て答える。
「――そうか」
「満足か」
「なら、俺も行く」
クロムはその言葉を信じることができない。先程まで恨みのオーラを向けられていたのに。
けれどヴェイクのその目は既に先程の怒りに満ちた目とは違っていた。
「それがレイシの望みなんなら」
「多分な」
クロムは答えて頷く。
出会って2日だけの彼の思いはクロムには分からない。まだ付き合いの長いヴェイクの方が分かることも多いだろう。
けれど、彼が何故協力してくれたのか、花を売っていたのか? そう考えれば、答えは1つのように思える。
「行くか」
「ああ」
2人でスラム街に入っていく。彼らがいつか、日の目を見るために。
王宮のクロムの部屋の窓辺には、花が飾られている。
一度、それは何なのかと聞いたことがある。他の花を見たこともなく、クロムがそういう趣味だとも思えないからだ。
するとクロムは、
「大事な人、だ」
と照れることもなく答えた。
「ふうん……そうなんだ」
分かったように答えるものの、クロムに「大事な人」と言わせるのはどんな人なんだろう、会ってみたいな、と思ってしまった。
わすれな草///真実の愛・私を忘れないで