御伽噺と微笑む(オムニバス)
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※女装子
料理屋で独り、呑んでいた男とかちりと目が合った。
その男は珍しいのかこちらをじっと眺めてきたが、俺は別の席に座っていたのでそっと目を外す。
そしてまた同席の男たちと声を上げて話し始めると、暫くして馴染みの店員が耳打ちしてきた。
「ねェ、あそこのお客さんが呼んでるんだ。行ってあげてくれない、レイシ」
「失礼な。あたしのことは「おりん」と呼んでよ」
店員をにらみ返すが、ごめんごめんと言って笑うばかりだ。俺は溜息を吐いた。
耳打ちしながら指したのは、先程目が合った独りの男の所。面倒そうな客だが、仕事だから仕方ない。
それじゃ、と言いながら立ち上がる。同じ席の男たちが恨みがましい表情でこちらを見た。
「おりんちゃん、どこへ行くのさ?」
「ごめんねぇ、あたしを呼んでる人がいるの。また戻ってくるからそれまで待っていて」
「そんなら仕方ないね。早く戻ってきてな」
「うん」
崩れ始めた着物の胸元を直しながら、俺は独りで静かに飲み続ける男の隣に座る。
男はこちらを見た、その目はまだ酔ってはいなさそうだった。もう長いことこの料理屋に留まっていて、酒も大分呑んでいる筈だが。
店員がすぐに俺の分の酒を持ってきた。俺はその酒に口を付けながら目を見返す。
「……おりん、と言ったか?」
「ええ、そうだけど」
「何で男でこんな仕事をしてる?」
俺は酒を置き左手の薬指で自身の唇をなぞった。
「そんなことを話すために、あたしをここに呼んだの? 下らないね」
「ああ、ちょいとばかしお前さんに興味があってな。本名は何て言う?」
「本名とかはないわ。あたしはおりん」
「分かった分かった。俺のことを先に話せばいいんだろ?」
「そんなんじゃ……」
男は店員に酒のお替りを注文する。果たしてそれ程銭を持っているようにも見えないが払えるのだろうか。
それ程待たずに運ばれてきた酒を一口呑むと、男はこちらに向き直った。
「俺は風来人をやってんだ。センセーって呼ばれてる」
「風来人? へぇ」
「今まで色んな所に行ってきたんだ。例えば――」
それから男――センセーの話を聞いていると、時間があっという間に経って、閉店だ、と店員に告げられる。
「おりんちゃん、結局来てくんなかったな。ずっと待ってたのによ」
「ああ、ごめんね、また来て。今度はずっとお話しましょ?」
「ちぇ、絶対だぞ」
ずっと待たせていた常連の客は俺に向かって言い、先に店を出て行く。
さて、と言ってセンセーも立ち上がった。
それを見て俺は思わず彼の左手を掴む。
「ん? どうした?」
「え、あ、いや……」
ぱっと手を放す。が、手を掴んでいたという事実は消えない。
俺は自分の右手を左手でぎゅっと掴み、一体何をしたんだ、と悔いてみてももう遅い。センセーは笑った。
「一緒に来るか?」
「え……?」
「話の続き、聞きてェんだろ?」
そう言うと今度はセンセーが俺の右手を掴む。
思わず振り払いそうになった。顔から火が出そうな程恥ずかしい。
「主人、代金だ」
「それ、大分多いんじゃ……」
「釣りはいらねぇ。おりんをずっと借りちまった代金だ」
俺は手を掴まれたまま店を出る。
もう月が昇るような時間だから見られてもどうということはないだろう。きっと暗くて見えない、それに今は女装だし。
大人しく隣を歩き、月を見上げた。
「そろそろ名を言ってもいいんじゃあねえのか?」
一歩先を行くセンセーが不意に言う。
こちらを振り向くわけではない。俺は観念して溜息を吐いた。
「……レイシ」
「レイシ? いい名だ」
「茶化さないで」
「本気だ」
決して振り向きはしないのだけれど、その低い声音に脳髄が痺れるような感覚が走る。
俺が本当に女だったら今ここでどうにかなってしまうんだろうか、そんな気さえするけど。
「へんなひと」
「それでレイシを口説けんならいいさ」
こんなことを言われてもつい許してしまうのは、多分これが、一夜限りの関係だからだろう。
もし明日も会うのなら名なんて明かさない。
「ねえ、まだ色々な話をしてくれるんでしょう」
「ああ、色々、な」
漸く振り向いたセンセーの表情は、暗くてあまり見えない。
それでも繋いだ俺の右手を撫でる親指に、思わず胸をぎゅっと押さえた。
料理屋で独り、呑んでいた男とかちりと目が合った。
その男は珍しいのかこちらをじっと眺めてきたが、俺は別の席に座っていたのでそっと目を外す。
そしてまた同席の男たちと声を上げて話し始めると、暫くして馴染みの店員が耳打ちしてきた。
「ねェ、あそこのお客さんが呼んでるんだ。行ってあげてくれない、レイシ」
「失礼な。あたしのことは「おりん」と呼んでよ」
店員をにらみ返すが、ごめんごめんと言って笑うばかりだ。俺は溜息を吐いた。
耳打ちしながら指したのは、先程目が合った独りの男の所。面倒そうな客だが、仕事だから仕方ない。
それじゃ、と言いながら立ち上がる。同じ席の男たちが恨みがましい表情でこちらを見た。
「おりんちゃん、どこへ行くのさ?」
「ごめんねぇ、あたしを呼んでる人がいるの。また戻ってくるからそれまで待っていて」
「そんなら仕方ないね。早く戻ってきてな」
「うん」
崩れ始めた着物の胸元を直しながら、俺は独りで静かに飲み続ける男の隣に座る。
男はこちらを見た、その目はまだ酔ってはいなさそうだった。もう長いことこの料理屋に留まっていて、酒も大分呑んでいる筈だが。
店員がすぐに俺の分の酒を持ってきた。俺はその酒に口を付けながら目を見返す。
「……おりん、と言ったか?」
「ええ、そうだけど」
「何で男でこんな仕事をしてる?」
俺は酒を置き左手の薬指で自身の唇をなぞった。
「そんなことを話すために、あたしをここに呼んだの? 下らないね」
「ああ、ちょいとばかしお前さんに興味があってな。本名は何て言う?」
「本名とかはないわ。あたしはおりん」
「分かった分かった。俺のことを先に話せばいいんだろ?」
「そんなんじゃ……」
男は店員に酒のお替りを注文する。果たしてそれ程銭を持っているようにも見えないが払えるのだろうか。
それ程待たずに運ばれてきた酒を一口呑むと、男はこちらに向き直った。
「俺は風来人をやってんだ。センセーって呼ばれてる」
「風来人? へぇ」
「今まで色んな所に行ってきたんだ。例えば――」
それから男――センセーの話を聞いていると、時間があっという間に経って、閉店だ、と店員に告げられる。
「おりんちゃん、結局来てくんなかったな。ずっと待ってたのによ」
「ああ、ごめんね、また来て。今度はずっとお話しましょ?」
「ちぇ、絶対だぞ」
ずっと待たせていた常連の客は俺に向かって言い、先に店を出て行く。
さて、と言ってセンセーも立ち上がった。
それを見て俺は思わず彼の左手を掴む。
「ん? どうした?」
「え、あ、いや……」
ぱっと手を放す。が、手を掴んでいたという事実は消えない。
俺は自分の右手を左手でぎゅっと掴み、一体何をしたんだ、と悔いてみてももう遅い。センセーは笑った。
「一緒に来るか?」
「え……?」
「話の続き、聞きてェんだろ?」
そう言うと今度はセンセーが俺の右手を掴む。
思わず振り払いそうになった。顔から火が出そうな程恥ずかしい。
「主人、代金だ」
「それ、大分多いんじゃ……」
「釣りはいらねぇ。おりんをずっと借りちまった代金だ」
俺は手を掴まれたまま店を出る。
もう月が昇るような時間だから見られてもどうということはないだろう。きっと暗くて見えない、それに今は女装だし。
大人しく隣を歩き、月を見上げた。
「そろそろ名を言ってもいいんじゃあねえのか?」
一歩先を行くセンセーが不意に言う。
こちらを振り向くわけではない。俺は観念して溜息を吐いた。
「……レイシ」
「レイシ? いい名だ」
「茶化さないで」
「本気だ」
決して振り向きはしないのだけれど、その低い声音に脳髄が痺れるような感覚が走る。
俺が本当に女だったら今ここでどうにかなってしまうんだろうか、そんな気さえするけど。
「へんなひと」
「それでレイシを口説けんならいいさ」
こんなことを言われてもつい許してしまうのは、多分これが、一夜限りの関係だからだろう。
もし明日も会うのなら名なんて明かさない。
「ねえ、まだ色々な話をしてくれるんでしょう」
「ああ、色々、な」
漸く振り向いたセンセーの表情は、暗くてあまり見えない。
それでも繋いだ俺の右手を撫でる親指に、思わず胸をぎゅっと押さえた。
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