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「キミが来てくれて、本当によかったと思ってるんだよ。」
ある日マスターは、俺を抱きしめながらそう言った。触れる冷たい雫は涙か。
「マスター、」
「ボクの世界は、救われた。」
マスターとの出会いは何てことはない、ネット通販。
人間とボーカロイドの出会いとして、最もありふれた手段。俺も変わらず、その道を歩む。
「はじめまして、マスター。」
「どうもこんにちは、鏡音レンくん。」
ボクは澪士。とマスターは言う。
白い壁、白い家具。窓から差し込む日射しですら白く感じるような家。
「ボクは歌を作るのは上手くないんだけど、それでもいいかな?」
「はい。勿論です。」
「ふふ、ありがとう。」
ボーカロイドは、歌を歌うために作られた。自身は歌えないけれど、それでも歌いたい人間のために。
けれど近年、歌わせるためだけでなく、自身の娯楽のために購入する者も増えているようだ。つまり話し相手とかペットとか。
寂しい人にはきっと受け入れられ易いのだろう。
「それと、敬語はやめてよ。ボクは、キミと友達になりたいんだ。」
「……うん。わかったよ、マスター。」
ありがとう、と彼は笑う。
線の細い人だなあ、と思った。
マスターの1日は大体決まっている。
朝8時に起きて、カフェオレを淹れる。俺は食事は必須ではないけれど、俺にもそれを淹れてくれる。
その後は4枚切りの贅沢なパンを、2枚だけ焼く。絶妙な焼き具合でそれはトースターから飛び出て、バターを載せなくてもそれだけで美味しいと思えるくらい。
1枚は自分の皿へ、もう1枚は俺の皿へ。小皿には半分に切ったオレンジが載っている。
食の細いマスターはゆっくりゆっくり時間を掛けて、朝食を咀嚼する。
「レン、キミはご飯を食べなくてもいいのか。」
「うん、まあね。」
でもマスターが1人でご飯を食べるのは寂しいって言ってたから、一緒に居るよ。
そう言うと、くすりと笑われた。
「ありがとう。」
マスター澪士はよく感謝の言葉を口にする。それはもう、軽々しく、という表現が似合うくらいに。
まるで、何かの儚さを知っていて、それを憂うために言っているかのような。
掌に残らない時の残り香を掴むような。
「この後は、少し散歩に付き合ってほしいんだ。」
「うん、いいよ。」
これもいつものことだ。
「マスター、マスターはいつも、何かに合わせて行動しているみたいだよね。俺が来てから、1回も乱れたことがない。まるでロボットかなにかみたいに。」
「レンにロボットみたい、って言われると、何だか本当にロボットになったみたいだな。」
そう言いながら笑う彼を見ると、あながち間違いでもないのかもしれない、と思えてくる。
彼は人間じゃないみたいだ。少なくとも、俺の想像していた人間像とは全然違う。
「?」
「ほら、来て。」
マスターは手招きする。俺はパンを皿に戻し、マスターの隣へ行く。
優しい目をしたマスターは同じように立ち上がり、俺の耳をそっと自身の胸に当てさせた。
「……?」
「心臓の音。聞こえるでしょう?」
トク、トク、と鳴る音。ああ、これが心臓の音か。俺にはないものだ。
でもそれすら規則的な音で、これは俺たちの体内に内蔵されている体内時計とそう変わらないのではないか、と思った。
「聞こえる。」
「すごく、弱いんだよ、心臓って。これが止まっちゃったら終わりなんだ。」
俺はマスターの胸から離れ、向かい合って目を見る。
でもそう言われた時、心臓の音から離れたことを少し後悔した。
雲と青空が交互に見える空の下、俺たちは付かず離れずの距離を保ちながら歩く。
「レンはさ、ボクと一緒に居るの、どうかな?」
少し先を歩くマスターが言う。
彼はいつも白いシャツと白いズボンを身に着けている。部屋の中にいたら、黒髪で漸く判別できるくらいだ。
まるで天使のようだ、と思ったことがある。
「どう、って?」
「まだ、歌わせてあげられてないからさ。」
もう1ヶ月になるだろうか? 彼の日常は、少しも揺るぐことがなく。
基本的なリズムの中から、その日の体調や気分によって、少しアレンジが加えられるだけだ。
「……別にもう、歌わなくても、いいかなあ。」
俺はぽつりとそう答えた。
「でも、レンはボーカロイドだよね。話し相手みたいな感じでもいいって言われたから、それならって思って、レンを迎えたんだけど、やっぱり本当は、歌うものでしょ。だから、ずっと何もさせてあげられないのは、可哀想な気がして。」
「うん。でも俺は、マスターと一緒に居るのが楽しいから、それでいいよ。」
マスターは振り返る。優しく微笑んでいた。
「そう? ……ありがとう。」
まるで、その答えを待っていたかのように。
マスターはいつだかの夜に、その返答をするかのように、俺に言った。
「ボクにとって、レンは、まあ……天使みたいなものかな。」
俺は変な顔をしただろう。
「そんな顔をしないで。本当だよ。……キミが来てくれて、本当によかったと、思ってるんだよ。」
この皮膚は作り物でも、抱きしめられた皮膚から伝わる熱は分かる。
そしてぽつりと落ちたのは、きっと、涙だと。
「マスター、」
「ボクの世界は、救われた。」
マスターの家族はもう、居ないそうだ。家が火事になって、なぜかマスターだけが助かって。
自暴自棄になっていて、全てに絶望していて、なぜ生きているんだろうと思って。
そんな時に、俺たちボーカロイドの存在を知ったらしい。
「……俺は、そんなに簡単には壊れないよ。」
ずっと前に聞いた、心臓の話。人は簡単にいなくなってしまう。
けれど、俺は人間じゃないから。
「だから、大丈夫。マスターを置いていかないよ。」
「……本当に?」
「うん。歌わなくても、マスターの側にいるのは、楽しいんだ。幸せだよ。」
いつだかも言っただろう、その言葉を再び繰り返す。でも気持ちは全然変わっていない。
そっと俺から身体を離したマスターは、泣いてはいなかった。頬に一筋、水滴が残っているだけで。
「ありがとう。」
その笑顔に、ああ、この人みたいな人を天使って言うんだろうな、と思った。
2016.05.02
ある日マスターは、俺を抱きしめながらそう言った。触れる冷たい雫は涙か。
「マスター、」
「ボクの世界は、救われた。」
マスターとの出会いは何てことはない、ネット通販。
人間とボーカロイドの出会いとして、最もありふれた手段。俺も変わらず、その道を歩む。
「はじめまして、マスター。」
「どうもこんにちは、鏡音レンくん。」
ボクは澪士。とマスターは言う。
白い壁、白い家具。窓から差し込む日射しですら白く感じるような家。
「ボクは歌を作るのは上手くないんだけど、それでもいいかな?」
「はい。勿論です。」
「ふふ、ありがとう。」
ボーカロイドは、歌を歌うために作られた。自身は歌えないけれど、それでも歌いたい人間のために。
けれど近年、歌わせるためだけでなく、自身の娯楽のために購入する者も増えているようだ。つまり話し相手とかペットとか。
寂しい人にはきっと受け入れられ易いのだろう。
「それと、敬語はやめてよ。ボクは、キミと友達になりたいんだ。」
「……うん。わかったよ、マスター。」
ありがとう、と彼は笑う。
線の細い人だなあ、と思った。
マスターの1日は大体決まっている。
朝8時に起きて、カフェオレを淹れる。俺は食事は必須ではないけれど、俺にもそれを淹れてくれる。
その後は4枚切りの贅沢なパンを、2枚だけ焼く。絶妙な焼き具合でそれはトースターから飛び出て、バターを載せなくてもそれだけで美味しいと思えるくらい。
1枚は自分の皿へ、もう1枚は俺の皿へ。小皿には半分に切ったオレンジが載っている。
食の細いマスターはゆっくりゆっくり時間を掛けて、朝食を咀嚼する。
「レン、キミはご飯を食べなくてもいいのか。」
「うん、まあね。」
でもマスターが1人でご飯を食べるのは寂しいって言ってたから、一緒に居るよ。
そう言うと、くすりと笑われた。
「ありがとう。」
マスター澪士はよく感謝の言葉を口にする。それはもう、軽々しく、という表現が似合うくらいに。
まるで、何かの儚さを知っていて、それを憂うために言っているかのような。
掌に残らない時の残り香を掴むような。
「この後は、少し散歩に付き合ってほしいんだ。」
「うん、いいよ。」
これもいつものことだ。
「マスター、マスターはいつも、何かに合わせて行動しているみたいだよね。俺が来てから、1回も乱れたことがない。まるでロボットかなにかみたいに。」
「レンにロボットみたい、って言われると、何だか本当にロボットになったみたいだな。」
そう言いながら笑う彼を見ると、あながち間違いでもないのかもしれない、と思えてくる。
彼は人間じゃないみたいだ。少なくとも、俺の想像していた人間像とは全然違う。
「?」
「ほら、来て。」
マスターは手招きする。俺はパンを皿に戻し、マスターの隣へ行く。
優しい目をしたマスターは同じように立ち上がり、俺の耳をそっと自身の胸に当てさせた。
「……?」
「心臓の音。聞こえるでしょう?」
トク、トク、と鳴る音。ああ、これが心臓の音か。俺にはないものだ。
でもそれすら規則的な音で、これは俺たちの体内に内蔵されている体内時計とそう変わらないのではないか、と思った。
「聞こえる。」
「すごく、弱いんだよ、心臓って。これが止まっちゃったら終わりなんだ。」
俺はマスターの胸から離れ、向かい合って目を見る。
でもそう言われた時、心臓の音から離れたことを少し後悔した。
雲と青空が交互に見える空の下、俺たちは付かず離れずの距離を保ちながら歩く。
「レンはさ、ボクと一緒に居るの、どうかな?」
少し先を歩くマスターが言う。
彼はいつも白いシャツと白いズボンを身に着けている。部屋の中にいたら、黒髪で漸く判別できるくらいだ。
まるで天使のようだ、と思ったことがある。
「どう、って?」
「まだ、歌わせてあげられてないからさ。」
もう1ヶ月になるだろうか? 彼の日常は、少しも揺るぐことがなく。
基本的なリズムの中から、その日の体調や気分によって、少しアレンジが加えられるだけだ。
「……別にもう、歌わなくても、いいかなあ。」
俺はぽつりとそう答えた。
「でも、レンはボーカロイドだよね。話し相手みたいな感じでもいいって言われたから、それならって思って、レンを迎えたんだけど、やっぱり本当は、歌うものでしょ。だから、ずっと何もさせてあげられないのは、可哀想な気がして。」
「うん。でも俺は、マスターと一緒に居るのが楽しいから、それでいいよ。」
マスターは振り返る。優しく微笑んでいた。
「そう? ……ありがとう。」
まるで、その答えを待っていたかのように。
マスターはいつだかの夜に、その返答をするかのように、俺に言った。
「ボクにとって、レンは、まあ……天使みたいなものかな。」
俺は変な顔をしただろう。
「そんな顔をしないで。本当だよ。……キミが来てくれて、本当によかったと、思ってるんだよ。」
この皮膚は作り物でも、抱きしめられた皮膚から伝わる熱は分かる。
そしてぽつりと落ちたのは、きっと、涙だと。
「マスター、」
「ボクの世界は、救われた。」
マスターの家族はもう、居ないそうだ。家が火事になって、なぜかマスターだけが助かって。
自暴自棄になっていて、全てに絶望していて、なぜ生きているんだろうと思って。
そんな時に、俺たちボーカロイドの存在を知ったらしい。
「……俺は、そんなに簡単には壊れないよ。」
ずっと前に聞いた、心臓の話。人は簡単にいなくなってしまう。
けれど、俺は人間じゃないから。
「だから、大丈夫。マスターを置いていかないよ。」
「……本当に?」
「うん。歌わなくても、マスターの側にいるのは、楽しいんだ。幸せだよ。」
いつだかも言っただろう、その言葉を再び繰り返す。でも気持ちは全然変わっていない。
そっと俺から身体を離したマスターは、泣いてはいなかった。頬に一筋、水滴が残っているだけで。
「ありがとう。」
その笑顔に、ああ、この人みたいな人を天使って言うんだろうな、と思った。
2016.05.02