過去の話
俺が、高嶺さんにスカウトされてから二週間ほど経った。
あの後、正式に事務所の適性検査というかオーディションみたいなものを受けて、ひとまず俺はOffice Cutoyの所属アイドルになった。
とはいえ、まだ何も知らないひよっこだから、研修生という扱いで放課後に基礎のダンスレッスンやボーカルレッスンを受けることになったのだ。
「それじゃあ、今年度の研修生はここにいる10人です。これから一緒にレッスンを受けていくので、みんな仲良くしてくださいねー」
事務所の専属トレーナーである先生が、ダンスレッスン室でそう言った。
研修生は、俺を含めて10人。
集まっている人達の年齢は……俺と然程変わらないくらいだろう。
その中で、女の子と見間違えるくらい飛び抜けて綺麗な顔をしている子がいた。
色白の肌で、透明感のある薄茶色の髪、長い睫毛で縁取られた瞳は、赤みのある茶色。
まるで、ビスクドールのような見た目だった。
直感だけど、あの子はきっと売れるアイドルになるんだろうな、と思った。
簡単な説明が終わると、準備運動やストレッチを行い、ダンスの基礎レッスンが始まった。
オーディションを合格したとはいえ、それぞれの経験値はバラバラなのだろう。
先生の合図に合わせて動ける人、遅れる人様々なダンスレッスンだった。
小一時間ほど経つと、先生が休憩にします と言って一旦部屋の外に出て行った。
「あー、疲れたー」
「初日からきっついなー」
周りの人たちはそんなことを話しながら床に座り込んでいる。
俺は、ペットボトルの水を飲みながら、ふと、ビスクドールの子の方を見ると、彼も部屋の隅の方で黙々と水分補給をしていた。
「ねぇ、女優の子供って誰のこと?」
「あ? あぁ、あの隅っこにいる奴。元歌劇団女優の子供で、大企業の坊ちゃん」
ちょっと離れた場所からそんな会話が聞こえた。どうやら、あのビスクドールの子のことらしい。
「なんでわざわざ研修生で入ってくるんだろうな? 家のコネでいくらでもできそうなのに」
「どうせ、あいつはアイドルなんて遊びなんだよ。生まれからして、将来安泰じゃん」
本人には聞こえない距離だとは思うが、あまりにも露骨な言い方に気分が悪くなる。
こういうことを言う人とはあまり深く関わらない方が良いんだろうなと思いながら、もう一度ビスクドールの彼を見ると、周りとは距離を取って休んでいるようだった。
あの後で高嶺さんに教えてもらったら、やはりビスクドールの彼、 飛鳥井 瑞貴 は、大企業の飛鳥井グループの御曹司で、元歌劇団女優の朝風 雫 の子供だった。
確かに、他の研修生があんな風に言う経歴ではあるのだろう……。
それから、俺は週に2回の研修生のレッスンに通った。
バックダンサーとして出られるようにということなのか、ダンスレッスンが多く入っていた。
先生のレッスンが終わった後も、毎回、飛鳥井くんは皆が片付けている間に少し休憩して、その後も一人で自主的に練習しているようだった。
レッスンだって結構ハードなのに、その後にたった一人で練習している彼が『遊び』で事務所に所属したとは思えない。それくらい彼は真剣に練習している。
彼のことが気になっていた俺は、少しだけ寄り道してからレッスン室に戻った。
「お疲れ様。少し休憩しない?」
突然、声を掛けてしまったせいか、飛鳥井くんはびっくりして振り向いた。
「……くれるの?」
俺が差し出した水のペットボトルと、俺の顔を交互に見ながら彼はそう言った。
「うん。どうぞ。さっき買ってきたのだから冷たいよ」
戸惑っているのか、おずおずと受け取った彼に、座ろうかと促して、レッスン室の床に並んで座った。
「君、いつも終わった後に一人で練習してるよね。レッスン、結構ハードなのにすごいね」
「……早く、デビューしたいから」
「すごーい。頑張り屋さんだねぇ」
そう言って、自分のペットボトルの水に口をつけると、
「……僕に何か用なの?」
警戒されているのか、刺々しい声音でそう言われた。
「え? 特に用ってほどじゃないけど……」
「そう。お前も他の奴らと同じなら、邪魔だから帰ってよ」
冷たく放たれた言葉に驚いてしまったけれど、彼の胸の内にすぐに気が付いた。
「あぁ、そっか。君が飛鳥井の御曹司だとか、女優の子供だから、何か業界にコネクション作りたいなーってこと? そんなの要らないよ」
「え……?」
彼の予想外の答えだったのだろう。
俺がそう言うと、目を丸くしたけれどすぐに怒った表情になる。
「う、嘘つき! みんなそうやって近寄ってきて、最終的には手のひら返すんだから!」
「そんなしょうもない嘘つかないよー。俺は、そんな理由で君に声を掛けたんじゃないよ。逆に、それだけの権力やコネがあるのに、君は一人で一生懸命やってるじゃん。なのに誰とも関わろうとしないから……」
一人で練習してる背中が 寂しそうに見えたから
本音はそれだったけれど、俺はその言葉を飲み込んだ。
彼は暫く驚いたような表情をして黙っていたけれど、ゆっくりと口を開く。
「……そんなこと言ってきたの、お前が初めてだ……」
「あっ、お前とか言っちゃダメ。俺、倉光 安慈!」
「……安慈ね。覚えておく……」
「よろしくね」
そう言ったら、飛鳥井くんもちょっと笑ってくれた。そして、パッと床から立ち上がった。
「ねぇ……ここにいるなら、ちょっと見てくれる?このステップがうまく踏めないの。動きにくいというか…」
「いいよ。一緒にやろうか」
その日から、事務所で顔を合わせれば少しだけれど彼と喋るようになった。
夏が終わる頃には隣同士でレッスンを受けることも多くなった。
「飛鳥井くん。おはよう」
「おはよう。あの……さ。瑞貴でいいよ。苗字、あまり好きじゃないから、名前で呼んで」
「え? うん……じゃあそうするね」
苗字が好きじゃない なんて、今まで言われたことがないから戸惑ってしまったけれど、その時はそう答えておいた。
理由を聞いてみたかったけれど、先生がレッスン室に入ってきたし、他の研修生もいたから聞くタイミングを逃してしまった。
その後は、いつも通りにレッスンを受けて、それが終わった後も、瑞貴はいつも通りにレッスンの復習をしていた。
「ねぇ、聞いてもいい?」
「何?」
瑞貴が一通り踊ったところで声をかけると、
首にかけたタオルの端で額の汗を拭きながら彼が振り向いた。
「なんで、苗字嫌いなの?」
そう聞いたら、瑞貴の目線が下に落ちる。
彼は暫く黙ったままで、俺も話していいのか戸惑っていると、瑞貴がため息をついた。
「……家が、嫌い。父さんの家系が嫌いだから」
「そうなんだ……変なこと聞いてごめんね」
「別に……。僕がさっきそう言ったから気になったんでしょ? けど、さっきは他の奴らもいたから聞きづらかったんだろうし」
「あはは……そこまで見抜かれてたの」
瑞貴の洞察力に思わず苦笑いした。
瑞貴は、ちょっと考えたような素振りを見せると、ぽつぽつと話し始める。
「僕の母さんは、飛鳥井の家から見たら後妻なんだ。それで、僕には腹違いの歳の離れた兄さんが二人いる」
瑞貴はそのまま話しながら荷物の所まで歩いて行く。
「父さんは考え方が古いのか、会長であるお爺ちゃんに逆らえないのか知らないけれど、家業は兄さん達に継がせるつもりだし、僕はどんなに頑張っても全然可愛がってもらえなかった。メイドの噂だと、産まれてくるのは女の子が良かったとか言ってたみたいなんだよね」
瑞貴は大きなため息を吐きながら、荷物のそばに腰を下ろしたので、俺も彼の隣に座った。
「存在すら否定されたんだなって。だから、僕は父さんが嫌い。兄さんも嫌い。あの家で味方なのは母さんと執事だけ。とりあえずあの家にいれば生活には困らないし、父さんと顔を合わせることも殆どないから、僕は僕の足で立って、僕が切り拓いた道を歩くだけ。なのに、周りの人間はそうはならないでしょう?どうしたって、飛鳥井の名前はついてくる。だから、コネじゃなくて、ちゃんと自分の力でデビューしたいの」
瑞貴は、そう言って柔らかいけれどどこか諦めも混じったような表情でため息をついた。
誰も寄せ付けないようなあの態度は、そういうことだったんだ。
「ごめんね。なんか嫌な話させちゃったね……」
「ううん。安慈なら話してもいいと思ったから」
「え?」
「僕のバックグラウンドではなくて、僕を見て話しかけてくれたのは安慈が初めてだったから」
そう言って、柔らかい笑顔を見せる瑞貴。
彼のこんなに穏やかな顔を見たのは初めてだった。
「……そうやって笑ってる方が可愛いのに」
「えっ? 急に何?」
「瑞貴は笑ってる方が可愛いよって言ったの」
「何?いつもの僕は可愛くないっていうの?」
瑞貴がちょっとムッとしてそう言ったタイミングで、彼のスマホが震えた。
「あ、ちょっとごめん。はい……うん、丁度終わったところ。すぐに出る」
電話に出ると瑞貴は手短にそう話してすぐに切った。
「お迎え?」
「うん。安慈ももう出るでしょ」
「あ、うん」
「じゃあ、帰ろう」
瑞貴が荷物をまとめ出したので、俺も荷物をまとめて二人でレッスン室を出た。
事務所の外に出ると、高級車が停まっていて、傍にスラリとしたスーツ姿の初老の男性が立っていた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめてって。ねぇ、じいや。彼が安慈だよ」
じいや、と呼んだ人に向かって、瑞貴が俺を紹介した。
「そうでしたか。いつも坊ちゃんがお世話になっております。執事の水嶋でございます」
彼はそう言うと、丁寧に頭を下げたので俺も慌てて頭を下げた。
「えっ、あ、こちらこそお世話になってます! 倉光 安慈です!」
「坊ちゃんが、事務所でお友達ができた と喜んでおられたのですよ。坊ちゃんは、御家柄のせいかなかなか心を許せるお友達がおらず……。倉光様にお会いできて光栄でございます」
「友達……」
執事さんの言葉を聞いて瑞貴の方を見ると、照れているのか、そっぽを向いていた。
暗がりだから確証はないけれど、耳まで真っ赤になっているようだった。
「ほら、じいや。お喋りはいいから早く帰るよ!」
「かしこまりました」
瑞貴は、早口でそう言うと車に向かって行った。
その後ろを執事さんがついていく。
「瑞貴! また来週ね!」
瑞貴の背中にそう言うと、彼が振り向いて微笑んだ。
「うん、またね。安慈」
そうして、二人は車に乗っていった。
……瑞貴は、俺のこと、ただの同期じゃなくて、
友達だと思ってくれていたんだな。
そう、思ったらなんだかくすぐったかった。
「あら、安慈くんじゃない」
後ろから声を掛けられて振り向くと、高嶺さんがいた。
「あ、お疲れ様です。高嶺さんも帰るんですか?」
「えぇ。こんな遅くまで残ってたの?」
「はい。もう帰りますよ」
「そう。男の子とは言え、さすがに心配だから駅まで一緒に行くわ」
高嶺さんが付いてきてくれるというので、俺は、ちょっとした相談を持ち掛けることにした。
「高嶺さん。ちょっと相談しても良いですか?」
「あら、何かしら?」
「俺、ちょっと気になる子がいるんです」
「あら! もう昭和じゃないからアイドルは恋愛禁止なんて私は言わないけれど……」
「え? あ! 違います! そっちの意味じゃなくて!」
危うく違う方向に話が進みそうだったので、慌てて修正する。
「もし、俺が『この子とユニット組みたい』って言ったら、それは聞いてもらえるんですか?」
俺がそう言うと、高嶺さんは一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐにニコリと笑った。
***
それから暫く経って、冬を迎える頃……
「ねぇ、瑞貴。俺と一緒にユニット組んでくれない?」
そう言うと、瑞貴の目が丸くなって、すぐにムッとした顔になる。
「……やっと言った」
「えぇ?」
「……安慈とじゃなきゃユニットは組みたくないって思ってたの!今まで色んなヤツから声掛けられたけど、僕、全部断ってたんだから!」
瑞貴は顔を赤くして、早口でそう捲し立てると、ぷいっと顔を背けてしまった。
「え?ホントに?良かったぁ。フラれると思ってたから」
瑞貴の言葉に安心して思わず笑ってしまった。
「そんなわけないじゃん。けど……何で……選んでくれたの…?」
さっきの態度から一転して急に自信をなくしたように瑞貴はそう聞いてきた。
俺はここ暫く考えていたことを、どう言おうか頭の中で考える。
「……瑞貴がステージに立ってる姿を観客で見たいと思うよりも、ステージに立つ瑞貴と同じ景色を見たいと思ったから」
そう言うと、また瑞貴の顔が少しだけ赤くなったような気がした。
「それに、せっかく俺が瑞貴の殻を壊したのに、別の人と組んだらまた殻に閉じ籠っちゃいそうだったから」
「……余計なお世話だよ」
そうかもしれない。
でも、余計なお世話だと悪態をついた彼の顔は、どちらかと言えば嬉しそうな様子だった。
「ねぇ、ユニットは二人だけ?」
「実は、もう1人誘ってる。高嶺さんには話してあるんだけど……」
「聞いてない。誰それ。場合によってはそいつと組むの嫌だからね」
少し苛立った様子の瑞貴を宥めながら、今後どうしたいかを話していた。
瑞貴は黙って話を聞いてくれていたけれど、もう一人の存在が気になって仕方がない様子だった。
瑞貴と、もう一人と俺でユニットを組んで、『アイドル』として歩き始めるのはもう少し先の話……。
あの後、正式に事務所の適性検査というかオーディションみたいなものを受けて、ひとまず俺はOffice Cutoyの所属アイドルになった。
とはいえ、まだ何も知らないひよっこだから、研修生という扱いで放課後に基礎のダンスレッスンやボーカルレッスンを受けることになったのだ。
「それじゃあ、今年度の研修生はここにいる10人です。これから一緒にレッスンを受けていくので、みんな仲良くしてくださいねー」
事務所の専属トレーナーである先生が、ダンスレッスン室でそう言った。
研修生は、俺を含めて10人。
集まっている人達の年齢は……俺と然程変わらないくらいだろう。
その中で、女の子と見間違えるくらい飛び抜けて綺麗な顔をしている子がいた。
色白の肌で、透明感のある薄茶色の髪、長い睫毛で縁取られた瞳は、赤みのある茶色。
まるで、ビスクドールのような見た目だった。
直感だけど、あの子はきっと売れるアイドルになるんだろうな、と思った。
簡単な説明が終わると、準備運動やストレッチを行い、ダンスの基礎レッスンが始まった。
オーディションを合格したとはいえ、それぞれの経験値はバラバラなのだろう。
先生の合図に合わせて動ける人、遅れる人様々なダンスレッスンだった。
小一時間ほど経つと、先生が休憩にします と言って一旦部屋の外に出て行った。
「あー、疲れたー」
「初日からきっついなー」
周りの人たちはそんなことを話しながら床に座り込んでいる。
俺は、ペットボトルの水を飲みながら、ふと、ビスクドールの子の方を見ると、彼も部屋の隅の方で黙々と水分補給をしていた。
「ねぇ、女優の子供って誰のこと?」
「あ? あぁ、あの隅っこにいる奴。元歌劇団女優の子供で、大企業の坊ちゃん」
ちょっと離れた場所からそんな会話が聞こえた。どうやら、あのビスクドールの子のことらしい。
「なんでわざわざ研修生で入ってくるんだろうな? 家のコネでいくらでもできそうなのに」
「どうせ、あいつはアイドルなんて遊びなんだよ。生まれからして、将来安泰じゃん」
本人には聞こえない距離だとは思うが、あまりにも露骨な言い方に気分が悪くなる。
こういうことを言う人とはあまり深く関わらない方が良いんだろうなと思いながら、もう一度ビスクドールの彼を見ると、周りとは距離を取って休んでいるようだった。
あの後で高嶺さんに教えてもらったら、やはりビスクドールの彼、
確かに、他の研修生があんな風に言う経歴ではあるのだろう……。
それから、俺は週に2回の研修生のレッスンに通った。
バックダンサーとして出られるようにということなのか、ダンスレッスンが多く入っていた。
先生のレッスンが終わった後も、毎回、飛鳥井くんは皆が片付けている間に少し休憩して、その後も一人で自主的に練習しているようだった。
レッスンだって結構ハードなのに、その後にたった一人で練習している彼が『遊び』で事務所に所属したとは思えない。それくらい彼は真剣に練習している。
彼のことが気になっていた俺は、少しだけ寄り道してからレッスン室に戻った。
「お疲れ様。少し休憩しない?」
突然、声を掛けてしまったせいか、飛鳥井くんはびっくりして振り向いた。
「……くれるの?」
俺が差し出した水のペットボトルと、俺の顔を交互に見ながら彼はそう言った。
「うん。どうぞ。さっき買ってきたのだから冷たいよ」
戸惑っているのか、おずおずと受け取った彼に、座ろうかと促して、レッスン室の床に並んで座った。
「君、いつも終わった後に一人で練習してるよね。レッスン、結構ハードなのにすごいね」
「……早く、デビューしたいから」
「すごーい。頑張り屋さんだねぇ」
そう言って、自分のペットボトルの水に口をつけると、
「……僕に何か用なの?」
警戒されているのか、刺々しい声音でそう言われた。
「え? 特に用ってほどじゃないけど……」
「そう。お前も他の奴らと同じなら、邪魔だから帰ってよ」
冷たく放たれた言葉に驚いてしまったけれど、彼の胸の内にすぐに気が付いた。
「あぁ、そっか。君が飛鳥井の御曹司だとか、女優の子供だから、何か業界にコネクション作りたいなーってこと? そんなの要らないよ」
「え……?」
彼の予想外の答えだったのだろう。
俺がそう言うと、目を丸くしたけれどすぐに怒った表情になる。
「う、嘘つき! みんなそうやって近寄ってきて、最終的には手のひら返すんだから!」
「そんなしょうもない嘘つかないよー。俺は、そんな理由で君に声を掛けたんじゃないよ。逆に、それだけの権力やコネがあるのに、君は一人で一生懸命やってるじゃん。なのに誰とも関わろうとしないから……」
一人で練習してる背中が 寂しそうに見えたから
本音はそれだったけれど、俺はその言葉を飲み込んだ。
彼は暫く驚いたような表情をして黙っていたけれど、ゆっくりと口を開く。
「……そんなこと言ってきたの、お前が初めてだ……」
「あっ、お前とか言っちゃダメ。俺、倉光 安慈!」
「……安慈ね。覚えておく……」
「よろしくね」
そう言ったら、飛鳥井くんもちょっと笑ってくれた。そして、パッと床から立ち上がった。
「ねぇ……ここにいるなら、ちょっと見てくれる?このステップがうまく踏めないの。動きにくいというか…」
「いいよ。一緒にやろうか」
その日から、事務所で顔を合わせれば少しだけれど彼と喋るようになった。
夏が終わる頃には隣同士でレッスンを受けることも多くなった。
「飛鳥井くん。おはよう」
「おはよう。あの……さ。瑞貴でいいよ。苗字、あまり好きじゃないから、名前で呼んで」
「え? うん……じゃあそうするね」
苗字が好きじゃない なんて、今まで言われたことがないから戸惑ってしまったけれど、その時はそう答えておいた。
理由を聞いてみたかったけれど、先生がレッスン室に入ってきたし、他の研修生もいたから聞くタイミングを逃してしまった。
その後は、いつも通りにレッスンを受けて、それが終わった後も、瑞貴はいつも通りにレッスンの復習をしていた。
「ねぇ、聞いてもいい?」
「何?」
瑞貴が一通り踊ったところで声をかけると、
首にかけたタオルの端で額の汗を拭きながら彼が振り向いた。
「なんで、苗字嫌いなの?」
そう聞いたら、瑞貴の目線が下に落ちる。
彼は暫く黙ったままで、俺も話していいのか戸惑っていると、瑞貴がため息をついた。
「……家が、嫌い。父さんの家系が嫌いだから」
「そうなんだ……変なこと聞いてごめんね」
「別に……。僕がさっきそう言ったから気になったんでしょ? けど、さっきは他の奴らもいたから聞きづらかったんだろうし」
「あはは……そこまで見抜かれてたの」
瑞貴の洞察力に思わず苦笑いした。
瑞貴は、ちょっと考えたような素振りを見せると、ぽつぽつと話し始める。
「僕の母さんは、飛鳥井の家から見たら後妻なんだ。それで、僕には腹違いの歳の離れた兄さんが二人いる」
瑞貴はそのまま話しながら荷物の所まで歩いて行く。
「父さんは考え方が古いのか、会長であるお爺ちゃんに逆らえないのか知らないけれど、家業は兄さん達に継がせるつもりだし、僕はどんなに頑張っても全然可愛がってもらえなかった。メイドの噂だと、産まれてくるのは女の子が良かったとか言ってたみたいなんだよね」
瑞貴は大きなため息を吐きながら、荷物のそばに腰を下ろしたので、俺も彼の隣に座った。
「存在すら否定されたんだなって。だから、僕は父さんが嫌い。兄さんも嫌い。あの家で味方なのは母さんと執事だけ。とりあえずあの家にいれば生活には困らないし、父さんと顔を合わせることも殆どないから、僕は僕の足で立って、僕が切り拓いた道を歩くだけ。なのに、周りの人間はそうはならないでしょう?どうしたって、飛鳥井の名前はついてくる。だから、コネじゃなくて、ちゃんと自分の力でデビューしたいの」
瑞貴は、そう言って柔らかいけれどどこか諦めも混じったような表情でため息をついた。
誰も寄せ付けないようなあの態度は、そういうことだったんだ。
「ごめんね。なんか嫌な話させちゃったね……」
「ううん。安慈なら話してもいいと思ったから」
「え?」
「僕のバックグラウンドではなくて、僕を見て話しかけてくれたのは安慈が初めてだったから」
そう言って、柔らかい笑顔を見せる瑞貴。
彼のこんなに穏やかな顔を見たのは初めてだった。
「……そうやって笑ってる方が可愛いのに」
「えっ? 急に何?」
「瑞貴は笑ってる方が可愛いよって言ったの」
「何?いつもの僕は可愛くないっていうの?」
瑞貴がちょっとムッとしてそう言ったタイミングで、彼のスマホが震えた。
「あ、ちょっとごめん。はい……うん、丁度終わったところ。すぐに出る」
電話に出ると瑞貴は手短にそう話してすぐに切った。
「お迎え?」
「うん。安慈ももう出るでしょ」
「あ、うん」
「じゃあ、帰ろう」
瑞貴が荷物をまとめ出したので、俺も荷物をまとめて二人でレッスン室を出た。
事務所の外に出ると、高級車が停まっていて、傍にスラリとしたスーツ姿の初老の男性が立っていた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめてって。ねぇ、じいや。彼が安慈だよ」
じいや、と呼んだ人に向かって、瑞貴が俺を紹介した。
「そうでしたか。いつも坊ちゃんがお世話になっております。執事の水嶋でございます」
彼はそう言うと、丁寧に頭を下げたので俺も慌てて頭を下げた。
「えっ、あ、こちらこそお世話になってます! 倉光 安慈です!」
「坊ちゃんが、事務所でお友達ができた と喜んでおられたのですよ。坊ちゃんは、御家柄のせいかなかなか心を許せるお友達がおらず……。倉光様にお会いできて光栄でございます」
「友達……」
執事さんの言葉を聞いて瑞貴の方を見ると、照れているのか、そっぽを向いていた。
暗がりだから確証はないけれど、耳まで真っ赤になっているようだった。
「ほら、じいや。お喋りはいいから早く帰るよ!」
「かしこまりました」
瑞貴は、早口でそう言うと車に向かって行った。
その後ろを執事さんがついていく。
「瑞貴! また来週ね!」
瑞貴の背中にそう言うと、彼が振り向いて微笑んだ。
「うん、またね。安慈」
そうして、二人は車に乗っていった。
……瑞貴は、俺のこと、ただの同期じゃなくて、
友達だと思ってくれていたんだな。
そう、思ったらなんだかくすぐったかった。
「あら、安慈くんじゃない」
後ろから声を掛けられて振り向くと、高嶺さんがいた。
「あ、お疲れ様です。高嶺さんも帰るんですか?」
「えぇ。こんな遅くまで残ってたの?」
「はい。もう帰りますよ」
「そう。男の子とは言え、さすがに心配だから駅まで一緒に行くわ」
高嶺さんが付いてきてくれるというので、俺は、ちょっとした相談を持ち掛けることにした。
「高嶺さん。ちょっと相談しても良いですか?」
「あら、何かしら?」
「俺、ちょっと気になる子がいるんです」
「あら! もう昭和じゃないからアイドルは恋愛禁止なんて私は言わないけれど……」
「え? あ! 違います! そっちの意味じゃなくて!」
危うく違う方向に話が進みそうだったので、慌てて修正する。
「もし、俺が『この子とユニット組みたい』って言ったら、それは聞いてもらえるんですか?」
俺がそう言うと、高嶺さんは一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐにニコリと笑った。
***
それから暫く経って、冬を迎える頃……
「ねぇ、瑞貴。俺と一緒にユニット組んでくれない?」
そう言うと、瑞貴の目が丸くなって、すぐにムッとした顔になる。
「……やっと言った」
「えぇ?」
「……安慈とじゃなきゃユニットは組みたくないって思ってたの!今まで色んなヤツから声掛けられたけど、僕、全部断ってたんだから!」
瑞貴は顔を赤くして、早口でそう捲し立てると、ぷいっと顔を背けてしまった。
「え?ホントに?良かったぁ。フラれると思ってたから」
瑞貴の言葉に安心して思わず笑ってしまった。
「そんなわけないじゃん。けど……何で……選んでくれたの…?」
さっきの態度から一転して急に自信をなくしたように瑞貴はそう聞いてきた。
俺はここ暫く考えていたことを、どう言おうか頭の中で考える。
「……瑞貴がステージに立ってる姿を観客で見たいと思うよりも、ステージに立つ瑞貴と同じ景色を見たいと思ったから」
そう言うと、また瑞貴の顔が少しだけ赤くなったような気がした。
「それに、せっかく俺が瑞貴の殻を壊したのに、別の人と組んだらまた殻に閉じ籠っちゃいそうだったから」
「……余計なお世話だよ」
そうかもしれない。
でも、余計なお世話だと悪態をついた彼の顔は、どちらかと言えば嬉しそうな様子だった。
「ねぇ、ユニットは二人だけ?」
「実は、もう1人誘ってる。高嶺さんには話してあるんだけど……」
「聞いてない。誰それ。場合によってはそいつと組むの嫌だからね」
少し苛立った様子の瑞貴を宥めながら、今後どうしたいかを話していた。
瑞貴は黙って話を聞いてくれていたけれど、もう一人の存在が気になって仕方がない様子だった。
瑞貴と、もう一人と俺でユニットを組んで、『アイドル』として歩き始めるのはもう少し先の話……。