過去の話
初めは、なんだか毎日怠いなぁ……とか、やたら歯磨きの時に血が出るなぁとか、駅の階段ってこんなにキツかったっけ? とか思っていただけだった。
「白血病……」
それが数ヶ月前に下された診断だった。
あまり状態も良くなかったため、すぐに入院になった。
だから、短大を卒業して就職した俳優の事務所は、急遽休職することになってしまった。
幸い、私は事務の仕事だったからマネージャー職じゃなくて良かった なんて不謹慎なことを思ってしまったけれど、会社には迷惑かけてるなぁ……と、少しだけ罪悪感を抱いた。
「まぁ、仕方ないよね! 治るまでは色々我慢だ」
ガラスで仕切られた殺風景な病室のベッドに横になって私はそうつぶやいた。
私はごく普通の人だったのにな。
大好きなアイドル追っかけて、ライブ行ったり、握手会行ったりが楽しみで、学校も、仕事も頑張ってたのに、何でこんな病気になってしまったのか……。
そんなに日頃の行いは悪くなかったと思うけどな?
「弟の使い方が荒いんだと思うよ?」
いつの間にか病室に来ていた弟の
「やだ。翔いつからそこにいたの? 姉ちゃんの心読んだの?」
「ううん。心の声がダダ漏れだったよ」
「やだー! 早く言ってよ!」
「なんだ、全然元気そうじゃん。ほら、これ。えーっと、zodiacのアルバム全部と、プレイヤーとイヤホンね。また急に古いの持ってこいって言うから探すのに時間かかったんだけど。今日はこれしか持って来れなかったからね」
ガラスを隔てたところにあるテーブルに、翔がリュックからCD数枚とCDプレイヤーとイヤホンを置いていく。
このクリーンルームなる部屋に入院してから、毎日毎日退屈で仕方ないので、私の部屋からコレクションであるCDやDVDを少しずつ持ってきてもらっているのだ。
「ふふふ、ありがとう。だってzodiacはレジェンドだもん。定期的に聴きたくなるのよ」
「なんでもいいけど、毎回、頼む量が多いんだよ。リュック重くなるからもう少し減らしてよ……」
「えぇぇぇ……姉ちゃん、一日中ここに缶詰なのよ。つまらないったらありゃしないわ。治ったら、翔の好きなパフェ食べ放題連れて行くから許してよ」
「……しょーがないなぁ。ちゃんと連れて行ってよ?」
「もちろん♡」
私の返事にニコニコと笑う翔。
8個も歳下だから、昔から可愛くてしょうがなかったのだけど、中学生になってもまだ素直で可愛いところがあるのだから、きっとこの子はレアなタイプなのだろう。
翔は小さい頃から歌がすごく上手で、教えれば何でもすぐ覚えて歌うから面白がって色々吹き込んだりもした。
本人には言っていないけれど、私にとっては自慢の弟。
「後でお母さん来ると思うから、オレ帰るね」
「あ、そう?お母さん来るまでいて一緒に帰ればいいのに」
「いいよ、別に。一緒に帰ったって色々勉強だとか進路とかうるさいだけだし。一人で曲聴きながら帰った方が楽」
「そっか……」
「じゃあね。姉ちゃんも早く元気になってパフェ奢ってね」
難しいお年頃のせいか、そっけなく会話を切られることも多いけれど、なんだかんだ言いながら私の頼み事はきいてくれる。
私がこんな状態だから、もしかしたら家では人一倍心配性なお母さんがピリピリしてるのかもしれない。
そしたら翔も居心地悪いよね……。
なおのこと、早く治して、もとの生活に戻らなきゃだし、何より「推し事」ができない!! つらい!!
「はぁ……早く家に帰りたいな……」
せめて、このガラス張りの部屋から出られる程度には回復したい
そう思いながら、私は目を閉じた。
***
あれから季節が変わって、もう夏の終わり。入院生活もだいぶ慣れてきてしまった。
この病気は、なかなか厄介なヤツで、下手したら治療の方が辛いんじゃないかなと思っていた。
基本的には薬での治療なのだけれど、とにかく副作用が辛くて、綺麗にしていた自慢の髪はびっくりするくらい無くなっていったし、吐き気も酷いし、起きていられるのがせいぜい数十分。
治療の方がしんどいなら、いっそのこと何もしなくていいんじゃないかな とすら思ってしまった。
せめて身につけているものくらいは と思って、家から沢山グッズのTシャツとか、残念な頭を隠すためのニット帽とか持ってきてもらっていた。
「あー、
スマホをいじりながら最近のお気に入りユニットのリリース情報を口にした。
「誰?めっせ って」
ガラス越しなのに、小さな呟きも拾う翔。
今日も律儀に頼んだものを持ってきてくれたのだけど、今日はすぐには帰らないみたい。
「MesseRよ。みんな顔が良い。エッジの効いた曲を歌うからホントかっこいいのよー」
「ふぅん……よく分かんないなぁ」
そう言って笑う翔。あまりアイドルユニットには興味はないらしいのだけど「これ歌ってよ」と曲をリクエストすると歌ってくれるので、曲は傍で聞いてはいるのだと思う。
「姉ちゃん、あのね、この前、合唱コンクールあったんだけど」
「あ! どうだったの⁉︎」
思わず起き上がってそう聞いてしまった。
先週、お見舞いに来てくれた時に『校内の合唱祭でクラスが優勝したから、そのまま市内のコンクールに出ることが決まった』という話を聞いていた。
出場する曲にソロパートがあり、それを翔が担当すると聞いていたから結果が気になっていたのだった。
「金賞、取ったよ。けど、県大会はもう一個の金賞の学校が出るから、オレのクラスは二番目だった。合唱って意味ではもう一個の学校の方が上手だったんだよねぇ。あ、でも、オレ個人で特別賞もらったの」
ニコニコしながら翔はそう言った。
「そっかー。県大会は残念だったけど、個人で賞もらうなんてすごいじゃん。じゃあソロはしっかり歌えたのね?」
「うん。ちょっと緊張したけどね、体育館で歌うよりずっと広いし、ホールだと音は気持ち良く響くし、ずっと歌っていたかった」
翔が、歌うことが心の底から楽しいって顔をしながら話すから、この子は、歌う為に生まれてきたんだなって勝手にそう思ってしまった。
「ねぇ、ソロのとこだけで良いから歌ってよ」
「えぇ? うるさいから怒られるよ?」
「姉ちゃんが謝るからいいよ。本番は聞けなかったから、聞かせて!」
顔の前で手を合わせてそう言うと、翔は少し困ったように笑って、椅子から立ち上がった。
すぅ……と、息を吸うと、真っ直ぐな芯の通った声で歌い出す。
有名なミュージカルのあの曲。
きっと、元気だったら本番を見に行けていたのだろうから、こんな気持ちにはならなかっただろう。
気がついたら、涙が止まらなくて、歌い終わった翔がめちゃくちゃ慌てていた。
びっくりさせてごめんね。
すごく良い声で、上手だったから、感動したの。
と伝えたら翔ははにかんでいた。
「後で怒られたらごめんねー。姉ちゃんに聞かせられたからオレ帰ろうかな」
「うん。ありがとう。これで県大会行けなかったのは残念だなぁ。きっと、翔はもっと別のところで評価されるよ」
「へへっ……そうだといいけどね」
照れたように笑って、翔は帰っていった。
なんだか、心が温かくなった気がして、今夜はゆっくり眠れそうだな なんて思っていた。
*
あの日から、少しだけ状態が良くなったから、クリーンルームではなく個室の病室に移っていた。それでもちょっとマシになった程度なので、相変わらずの副作用やらの辛さはあった。
少しでも油断したらきっとダメなのだろう……。
実際、すぐに容態が悪くなればクリーンルーム行き。なかなか安定はしてくれなかった。
「姉ちゃん、ホントにデカいのな! これ! DVD以外の物が多すぎるでしょ!」
病室に入るなり横幅60センチくらいの箱を抱えながら翔がそう言った。うん。想定内の大きさと反応。
「だからぁ、翔に頼んだのよー。お母さんには着替えとか持ってきてもらうから、それは一緒に頼めなくて……」
「まぁ、良いけどさ……。それで元気になるなら」
翔は、テーブルに箱を置くと、溜息を吐きながらベッドのそばの椅子に掛けていた。
「ありがとうね」
持ってきて貰った箱を開けると、黒地にホログラム仕様のDVDボックスが入っていた。
丁寧に外装のビニールを開けてから、そっとボックスを開くと、特典の写真集が一番上に鎮座していた。
「きゃー! 最高! いきなりいい写真だわ!」
写真集を手に取り、パラパラとめくる。
あぁ、どのページ見ても最高。カッコいい。今ならきっと免疫細胞が活性化してるはず。
やっぱり顔が良い人を見ると元気になるわ。
ふと、翔の方を見ると、スマホを弄っていた。
この子、身内フィルター抜きにしても、可愛い顔してるのよね。歌唱力は申し分ないし、あとは……ダンス要素か。あれだけ歌えればリズム感も問題ないだろうから……。
「ねぇ、翔もアイドルになったらいいんじゃない?」
そう言ったら、翔が驚いた顔をしてこっちを向いた。
「は? 何言ってんの? オレがなれると思う?」
「顔はまぁ、悪くないと思うけど。翔は歌がとても上手だから、きっと人気出ると思うなぁ。
あ、お姉ちゃん、事務所に書類送ってあげるよ。どこの事務所がいいかな?シュメルヘンプロダクションとかパレットプロデュースとかどうかな?」
「えぇ……そんなこと言われてもアイドルの事務所なんか分からないし、オレ、来年受験だよ……もう受験勉強もやってる子沢山いるし」
ちょっと怒ったように溜息をついた翔。
そっか、もう秋も終わりだもんね。翔は二年生だから本格的に進路考えないといけない時期かぁ。
「そっかぁ。翔の歌声を一般人のままにしておくのはもったいないと思うのになー……」
「歌だけじゃアイドルはできないでしょ。オレ、ダンスとかやったことないし」
「大丈夫よ! 練習すれば皆できる! 弟がアイドルとか最高じゃない。お姉ちゃん全力で推すわ。なんなら、うちの翔をお願いしますって布教する」
そう、勿体ないと思ったの。
みんな、翔の歌聞いてよ。ホントに上手だし、心にスッと入ってきて、響いてくるんだよ。
気持ちが明るくなるの。
だから、布教できるならそうしたいくらいだった。
「もう、分かったよ。ほら、姉ちゃんもそろそろ横になったら? また無理すると悪化するでしょ? DVD見られなくなるよ」
翔にものすごい正論を言われて黙るしかなかった。
「せっかく発売日にゲットしたんだから、少し休んでからそれ見なよ。元気になるでしょ」
翔が、こうして色々持ってきてくれるのは、私が『元気になるから』って言っていた。
「うん、そうだね。翔がそう言うなら、ちゃんと見られるように少し寝るわ」
「じゃあ、オレ、帰るね。またなんか必要なのあったら連絡して」
「うん、ありがと。またね」
翔は病室を出てドアを閉める間際にもう一度手を振って帰っていった。
そうだね、ちょっとでも元気にならなきゃね……。
ちょっとでも……。
夜、サイドテーブルのライトだけ点けてもらって、横になりながらDVDプレイヤーでMesseRのライブを観た。
そうそう。
これ、体調崩す前に行った最後のライブだった。
ミクリくん、映りも最高だけど、会場で見た時もめちゃくちゃかっこよかったなぁ……。
纏う空気感が全然違うんだよね……。肌綺麗だったなぁ。あの距離で見られたの奇跡だったなぁ……。
あぁ、シキくんのこの正面のカットヤバい。
目が綺麗よねぇ……ジーッと見られたら溶けちゃいそうだわ……。
ヒナくんもめちゃくちゃ可愛い。
パフォーマンスはカッコいいんだけど、もう小悪魔的な可愛いさなのよね。
そうそう、ファンサしてくれたなぁ。ホント可愛いかったなぁ……。
映像を観ながら、自分がライブに行った時のことを思い出していたら、だんだんと画面が滲んできてしまった。拭っても拭っても、すぐに滲んでしまって、なかなか画面が見えない。
私、ずっと気づかないふりしていたけど、
もう、限界だ……。
もう、この足で、会場の地面は踏めない。
もう、この肌で、会場の空気に触れられない。
もう、私の声を、会場にいるアイドルに届けられない。
気付きたくなかったけれど、
ずっと好きだったことができなくなるって、
こんなにも、心を、身体を、蝕んでいくんだなって……。
家族の前では……特に翔の前では、絶対元気になるって、元の生活に戻るって笑ってたけど……
ゴールが見えないし、退院したところで、今まで通りにできるのかすら分からなくて……。
……疲れちゃったな…………。
…………それから、あっという間にクリーンルームに逆戻り。
薬も放射線治療も辛いだけで、何が良くなったのか自分でもよく分からなかった。
***
「……翔」
ガラス張りの向こうにいる翔に声を掛けてみたけれど、聞こえてないようだった。
仕方がないので、スマホでチャットアプリを出して文字を打ちこむ。
『歌って』
すぐに既読が付いて、翔が立ち上がってこちらを向く。
「何を?」
そう言うので、私はまた文字を打ち込む。
『ぞでぃあっく』
翔は画面を見て小さく笑うと、そのまま音楽アプリを立ち上げた様子だった。
翔のスマホから流れる音は殆ど聞こえなかったけれど、歌い出しで私が一番好きな曲なのは分かった。
さすが翔。翔が小さい頃から曲を仕込んだだけのことはある。
あのね、私、小さい頃から、ずっと好きだったんだよね……。
初めてzodiac知った時、すごい衝撃的だったの。
あの時に感じた、気持ちが晴れていくような……キラキラした気持ちっていうのかな……?
それからだよね、アイドルにハマりだしたの。
みんな、違った形のキラキラをくれるんだよ……。
だから、中学の時にzodiac解散したのホント泣いたなぁ……。
解散したからレジェンドなのかもしれないけどさ……。
今はみんな、事務所立ち上げてるんだよね……
また、レジェンドみたいなユニット……産まれるのかなぁ……。
いつか
そんなユニットで
翔が歌ってたら
いいなぁ……。
…………。
「姉ちゃん?おーい……姉ちゃんってば、歌い終わりましたよー? おーい……」
翔の声がうんと遠くで聞こえる……
好きな歌聴きながら 気持ちよく眠れるって
最高だね…………
***
「みんなー!お待たせーー!!」
寒空の下、襟元や袖にファーのついた黄色のロングコートを纏った3人組がステージに上がってきた。
「ごめんね、ちょっと押しちゃったね!今日は短い時間ですが、オレたちStella Pelucheのステージ楽しんで行ってください!一曲目、Beside You!」
爽やかなダンスナンバーが流れるステージの様子を、私は会場後方の『高いところ』から座って見ていた。
「ふふふ、安慈くんはめちゃくちゃ顔が良いねぇ。手足も長いからダンスが映えるねぇ……。
うきゃー!可愛い!ほんと可愛いよね瑞貴ちゃん!!ずっと見てられる、愛でてられる!」
ステージでパフォーマンスをする3人を見てはついはしゃいでしまう。
「翔ーー!!」
ステージ上で、楽しそうに歌う翔の姿を見て、そう叫んだ。
私の声は届いていないかもしれない。
けれど、それで良いの。
あの時、アイドルなんて無理って言ってた翔が、今ステージに立ってる。
それが見られて良かったから。
……翔、ありがとうね。
姉ちゃん、遠くからだけど、ペンラ振って全力で応援してるからね。
ファンの皆に、翔たちの『キラキラ』届けてあげてね。
きっと、皆、元気になるから。