過去の話
俺が中2のある日、親父がいなくなった。
母さんは悲しむでもなく、怒るでもなく、妙にスッキリした顔をしていたのは覚えてる。
でも、俺は、母さんのその顔に違和感はなかった。
俺、知ってたから。
6年前に、一番下の
母さんは、茉里と沙里が1歳になったらさっさと仕事に復帰していた。母さんは医者だから、時々夜勤もあったけれど、その時は婆ちゃんが家に来てくれていたから、俺は親父がいなくても特に困ってなかったし、不便だなと感じることはなかった。
双子の世話で大変な母さんを置いて、子供4人もいるのに、遊び歩いていた親父のことが俺は大嫌いだった。
たまに帰ってくれば、何もしていないのに父親面をする。少なくとも、茉里と沙里には父親らしいことをしているのは見たことがない。
昔はあんなのじゃなかったのに。
母さんと同じ医者で、しっかりしていたのに。
なんであんなクズに成り下がったんだろう……。
だから、俺は、あんな大人にはならない と思って沢山勉強した。
母さんは「知識は誰にも奪われない財産だから」と言って、所謂勉学だけでなく、色んなことに興味を持って何でもやりなさいというタイプだった。だから、夏休みは少し遠出程度の距離でも旅行に連れて行ってくれたし、映画も舞台もクラシックのコンサートも機会があれば連れて行ってくれた。
そうして、いつもと変わらない日々を送り、中3の春。そろそろ進路を決めなければいけない時期だ。
3つ下の弟、
「あ、兄ちゃん見て」
「何?」
街頭ビジョンに映る映像を幸慈が指す。最近デビューしたばかりの男性アイドルらしい。
『
パフォーマンスのクオリティが高く、国内外問わずものすごい人気らしい。
確かに、俺の知っているアイドルのイメージを覆すような圧倒されるような映像だった。
「なんか……アイドルのイメージ変わるな……」
「すごいんだよ!クラスの女子みんな話してる。霹靂神のファンのことを避雷針って言うんだって」
「へぇ……。避雷針って斬新だな……。国内外問わず人気なんて、あのステージから見る世界はどんなんだろうな……」
沢山の人が自分を見るために集まっている なんて、全く想像がつかない世界だ。
ああいった芸能人は、さぞかし稼げるんだろうなぁ……なんて、とてもアイドルを見た感想とは思えないことを考えながら、幸慈と家路についた。
あれから暫くして、そろそろ本格的に進路を決めなければいけない時期になる。
先生からは、成績が良いからと進学校を薦められる。けれど……。
あれからずっと『あの世界』が気になっていた。
あの場所から見る世界を、見てみたい。
それは単なる好奇心なのかもしれない。
こんなことを言い出したら、母さんは悲しむだろうか……?
少なくとも、担任の先生はがっかりするのだろう。
夏休み前には、三者面談もあるからきちんと決めないとな……。
進路調査表を書けないまま、提出日が迫る。幸慈も茉里と沙里もとっくに寝ている時間だ。
自分の中で答えが出ないまま、部屋でどうしようか考えあぐねていたら、ドアの鍵が開く音がした。母さんが仕事から帰ってきたんだ。
「あら、安慈。まだ起きてたの?」
部屋のドアの隙間から灯りが漏れていたのだろう。部屋のドアをそっと開けて母さんがそう言った。
「おかえり。うん……進路調査表、どうしようかなって」
そう言うと、母さんは少し目を丸くした後、ふぅと溜息をついた。
「あら、安慈が珍しく随分と困った顔してる。母ちゃん話聞こうか」
「……うん」
母さんは、俺の返事を聞くと ちょっと色々やるね と、荷物を片付けたりしていた。
同じ部屋で寝ている幸慈の布団を掛け直してから、俺はリビングに出て行った。
「えっと、進路調査表、前回はどうしたっけ?」
「前回も、まとまらないまま出したと思う」
「うん、そっか。安慈はどうしたいの?」
リビングのテーブルについて、俺は母さんと向き合うように座っていた。
話をする母さんの顔は穏やかだった。
どう、答えるのが『正解』なんだろう?
頭の中で必死に正解を探す。
「先生は……進学校を薦めてくれたから……俺の成績なら大丈夫だって」
そう、答えた。
進学校に行って、勉強しっかりやって、国立の大学に行けば学費だって私立よりはかからない。
ちゃんと卒業すれば、きっと就職だって有利なんだろう。
それが、母さんを楽にしてあげる方法だって思ったから。
けれど
「OK。先生のオススメはそれね。それで、安慈はどうしたいの?」
「へ?」
「母ちゃんは、安慈の気持ちが聞きたいの。その、進学校に行くことは、先生が薦めただけでしょ?安慈は 本当に そこに行きたいと思ってる?」
そう言われて何も言えなくなった。
母さんは、俺が取り繕っていることを見抜いていた。
「でも……それが……一番、正解だと……思った」
「ほぉ。さすが優等生。でもね、人生において『正解だった』なんて思うのは、全部やってみてからよ。
結果、正解だったと思うだけ。やる前から本当に正解かどうかなんて、分からないと思わない?」
母さんは、ニコニコしながらそう言った。
「ねぇ、安慈。今、やりたいことあるんじゃないの?行きたいところあるんじゃないの?素直に言っていいんだよ。母ちゃんは否定はしない。いつも言ってるでしょ? 知識や経験は誰にも盗られないって」
こんなところで。
自分の人生を決めるかもしれないことで、好奇心の赴くままに決めていいのだろうか……?
正直、迷った。
正解だって、自信がなかった。
けれど、本当の気持ちはこっちだと思って、
口にした。
「この前さ……幸慈に教えてもらったんだけど、霹靂神ってアイドルの映像見たの。多分、芸能ニュースだったと思うんだけど。それ見てから、あの人たちが見てる世界が気になってて……」
「あら、霹靂神なら母ちゃんも知ってるわよ。あの子たち、かっこよかったわよね」
「すごいよね。だって、自分を見る為に色んな人が……何千人、下手したら何万人って人が集まってくれる。
パフォーマンスをすると歓声が上がる。すごい世界だよね。俺ね、あの場所から……ステージから見てみたいって思ったの……」
母さんならもう察しがついてるだろう。
けれど、顔色変えることなくニコニコしながら聞いてくれている。
「だから、アイドルのパフォーマンスとか勉強できるところ、レッスン受けたりできるところがあればそういう学校行きたい。
学校じゃなくても、別でレッスンが受けられるところがあるなら、普通の高校に通いながらそういうところに行こうと思ってる……」
本当に、いいのかな……
ここまで来てもまだ、迷いがある。
これは、正解では無い。
なんとなくそう感じていた。
「良いじゃない」
母さんは、ニッコリ笑ってそう言った。
「え……?」
「そういう学校、調べればすぐ出てくるわよ。
安慈が見たい世界は、もの凄く努力しないと見られない世界だけどね。母ちゃんは、安慈は何にでも一生懸命だからきっと大丈夫だと思うの」
ニコニコしながらそう言った母さんの顔が、少し滲んだ。
「……いいの?……俺、進学校行って良い大学出て良い会社に行くのが一番正解だと思ってた……。
それが親孝行だと思ってた……」
「もう、何言ってんのよー!さっきも言ったけれど、やってみた結果で正解かどうか分かるのよ。
今言ったような進路だって、一般的には正解なのかもしれないけれど、安慈が納得して歩けない道なら、それは正解じゃないのよ」
そう言って、母さんは立ち上がって俺のそばにくると、俺の頭を抱きしめてきた。
「なっ!ちょっと母さん!」
「もう安慈も母ちゃんより大きいもんなぁ……。
父ちゃんがいなくなってから、チビたちの面倒見てくれて助かったけれど、安慈もたくさん我慢したことあるでしょ……。安慈の人生は、安慈のものよ。若いうちにやりたいこと、たくさんやりなさい。それからでも、生き方を決めるのは遅くないから」
「母さん……」
母さんは、きちんと俺を見てくれていたんだ と、そう思ったら糸が切れたみたいに涙が出てきた。
母さんのシャツを濡らすと思って、母さんから慌てて離れて袖で顔を拭いた。
「俺……高校行ったらちゃんとバイトする。ちょっとでも……家計の足しにする……」
「あら!バイト代はお小遣いとか、レッスン代にしなさい。何のために養育費を毟り取ってると思ってるの♡」
「え……でも……」
「茉里と沙里が大きくなるまで、父ちゃんが医者で働いてる限りは、母ちゃんのコネを最大限に使ってどこの病院で働いてても養育費毟り取れるように手を回してるから大丈夫よ♡」
そう言ってニコニコ笑う母さん。
薄っすら怖いこと言ってるなぁと思ったけれど、何も心配しなくていい、ということなんだろう。
「学校……今から調べてみるね。明日には出さないとだけど、困ったら先生にも聞いてみる……」
「うん。先生は色々と言うと思うけど、しっかり自分の気持ちを言うのよ」
「うん……。ねぇ、母さん」
リビングを出ようとした母さんを、呼び止めた。
「なぁに?」
「母さんは……今、『正解』だと思ってる?」
母さんは、俺の質問に、ほんの一瞬考えた様子だったけれどすぐに笑った。
「当たり前じゃない。父ちゃんは結果としてアレだったけど、こんな可愛い良い子が4人もいるんだから大正解よ」
そう言って、母さんは お風呂行ってくるね、早めに寝るのよ なんて言ってリビングを出て行った。
俺は、胸のつっかえが取れた気がして、ふぅと大きな溜息をついてから自分の部屋に戻った。
あれから、数ヶ月……。
成績優秀者には特待制度があり、アイドルのパフォーマンスレッスンや準拠した勉強ができるところ。
盛名高校に入学した。
俺は、まだまだスタートラインにも立てていないのだろう。
けれど、やってみなければ分からないから。
自分が選んだ道を 正解 だと 思えるように、ここで、やるべきことをやるだけだ。
そう思いながら、俺は盛名高校の門をくぐった。