まやかしの君へ
まやかしの君へ
「ねえ、何してんの」
体温のない冷めた声。驚いて目をあげるとありさかさんの顔が上下逆さに見えた。
俺はキッチンのシンクの上で包丁を構えていたところだった。
「ありさん」
「やめなよばーか」
俺はその言葉を無視して手元に目線を戻した。包丁を握り直して刃を立たせ_
「聞けってば」
それが聞こえるや否や、ありさんは俺の胸に向かって真っ直ぐ手を伸ばした。体の芯が冷え上がるような感覚に驚いて手を離す。すると、がちゃんと音を立てて包丁はシンクの中を滑っていった。
「彼氏の言うこと聞けよ」
そう言いながら手を引き抜いたありさんの顔には、苦虫を噛み潰したような悔しさがあった。
「俺の言うことを聞け」なんて、ありさんの口から聞いたことない。
「…冷たいね」
「そりゃお前、ユーレイですから」
天井からぶらりとぶら下がっているくせに、ありさんは髪の毛ひとつ乱れていない。その柔らかそうな髪に、肌に触れたくて手を伸ばした。その手はただ、虚しく空を掻いた。なんの温度も感じない。シンクから身を乗り出してうなじ辺りを嗅いでみても、ただ空気を吸い込むばかりで、あの嗅ぎなれた人の匂いは、もう何処にもない。
目を開けると、やりきれないような顔をしたありさんと目が合った。こんなに近くにいるのに、彼を彼たらしめるものが何も感じられないなんて。
「やっぱり死ぬしかない」
「何でだよ」
「だって、だってありさんはユーレイだから」
「…そうだよ」
「………ありさんに会いたい、…」
「ここにいるじゃないか」と、そう言わない彼の真っ直ぐな優しさが、苦しい。彼が居ないまま、ずるずると生き長らえるのは、もっと苦しい。
「…うぅ、ゔー…」
「やめて、」
ぼやけそうになる視界の中で包丁に手を伸ばすと、震える声と手で制された。その途端、俺は気が触れた。
「邪魔すんなよ!勝手に死んどいて!散々悲しませといてなんなんだよ!俺を置いて死んだくせに!死んだ奴のエゴで!生きてる俺に干渉してくるな!ありさんでもないくせに!」
「…」
「…最っ低…」
喉が焼けるほど絶叫した俺を、ありさんは何も言わずに見つめていた。そして蚊の鳴くようなか細い声で、最後に、「ごめんね」、と言った。
それを聞いてどうしようもなく惨めになった俺は、情緒の糸が切れたように声をあげてわんわん泣いた。死んでもなお俺を心配してやってくるありさんに怒鳴り散らして、最低なのは俺の方だ。
「うわああーーーーー、あーーー」
「ばに、ばに、」
「嫌だあ、嫌だあ、っひ、あああーー」
「ばに」
「会いたいよおお、連れてってえええーーーー」
「…ばに、」
「ああああーーーー、連れてってーーーー、っあーーーーーー」
もう抱き締めても貰えないのに、俺は親の気を引きたい幼い子供のように泣きじゃくった。あの優しい声で慰めてもらえることを期待していた。もうありさんは、何処にもいないのに。
ありさんはその場しのぎの慰めを言わなかった。無責任に「大丈夫」なんて、言わなかった。匂いも温かさもありさんじゃないのに、そんなところばかりありさんそっくりで、タチが悪い。
ひとしきり泣いて泣いて、涙も涸れて、声も掠れて、そこで俺はやっと静かになった。周りを見ても、ありさんはいなかった。気が狂った俺の幻覚だったのか、俺の自殺未遂を止めに来た彼の御魂か定かではない。
そのまま座り込んでいると、インターホンが鳴った。よろよろ出るとしすだった。
「しす…?なんで、」
「は?お前が珍しく電話掛けて来たとやろ?」
「は?」
「いやこっちのセリフなんやけど…出たらすぐ切るし…飯でも奢って欲しいのかと思ったんだけど…違ったと?」
ありさんだと、そう思った。生きてる人間に助けを求めるなんて、あの人はやっぱり賢明だ。
「…ううん、そのつもりだった。叙々苑行こ」
「お前まじでいい性格してるわ…ととさんも呼ぶか」
「そうしよ」
濃い橙色の夕暮れ、初夏の風のなかに、彼の匂いがした気がした。
「ねえ、何してんの」
体温のない冷めた声。驚いて目をあげるとありさかさんの顔が上下逆さに見えた。
俺はキッチンのシンクの上で包丁を構えていたところだった。
「ありさん」
「やめなよばーか」
俺はその言葉を無視して手元に目線を戻した。包丁を握り直して刃を立たせ_
「聞けってば」
それが聞こえるや否や、ありさんは俺の胸に向かって真っ直ぐ手を伸ばした。体の芯が冷え上がるような感覚に驚いて手を離す。すると、がちゃんと音を立てて包丁はシンクの中を滑っていった。
「彼氏の言うこと聞けよ」
そう言いながら手を引き抜いたありさんの顔には、苦虫を噛み潰したような悔しさがあった。
「俺の言うことを聞け」なんて、ありさんの口から聞いたことない。
「…冷たいね」
「そりゃお前、ユーレイですから」
天井からぶらりとぶら下がっているくせに、ありさんは髪の毛ひとつ乱れていない。その柔らかそうな髪に、肌に触れたくて手を伸ばした。その手はただ、虚しく空を掻いた。なんの温度も感じない。シンクから身を乗り出してうなじ辺りを嗅いでみても、ただ空気を吸い込むばかりで、あの嗅ぎなれた人の匂いは、もう何処にもない。
目を開けると、やりきれないような顔をしたありさんと目が合った。こんなに近くにいるのに、彼を彼たらしめるものが何も感じられないなんて。
「やっぱり死ぬしかない」
「何でだよ」
「だって、だってありさんはユーレイだから」
「…そうだよ」
「………ありさんに会いたい、…」
「ここにいるじゃないか」と、そう言わない彼の真っ直ぐな優しさが、苦しい。彼が居ないまま、ずるずると生き長らえるのは、もっと苦しい。
「…うぅ、ゔー…」
「やめて、」
ぼやけそうになる視界の中で包丁に手を伸ばすと、震える声と手で制された。その途端、俺は気が触れた。
「邪魔すんなよ!勝手に死んどいて!散々悲しませといてなんなんだよ!俺を置いて死んだくせに!死んだ奴のエゴで!生きてる俺に干渉してくるな!ありさんでもないくせに!」
「…」
「…最っ低…」
喉が焼けるほど絶叫した俺を、ありさんは何も言わずに見つめていた。そして蚊の鳴くようなか細い声で、最後に、「ごめんね」、と言った。
それを聞いてどうしようもなく惨めになった俺は、情緒の糸が切れたように声をあげてわんわん泣いた。死んでもなお俺を心配してやってくるありさんに怒鳴り散らして、最低なのは俺の方だ。
「うわああーーーーー、あーーー」
「ばに、ばに、」
「嫌だあ、嫌だあ、っひ、あああーー」
「ばに」
「会いたいよおお、連れてってえええーーーー」
「…ばに、」
「ああああーーーー、連れてってーーーー、っあーーーーーー」
もう抱き締めても貰えないのに、俺は親の気を引きたい幼い子供のように泣きじゃくった。あの優しい声で慰めてもらえることを期待していた。もうありさんは、何処にもいないのに。
ありさんはその場しのぎの慰めを言わなかった。無責任に「大丈夫」なんて、言わなかった。匂いも温かさもありさんじゃないのに、そんなところばかりありさんそっくりで、タチが悪い。
ひとしきり泣いて泣いて、涙も涸れて、声も掠れて、そこで俺はやっと静かになった。周りを見ても、ありさんはいなかった。気が狂った俺の幻覚だったのか、俺の自殺未遂を止めに来た彼の御魂か定かではない。
そのまま座り込んでいると、インターホンが鳴った。よろよろ出るとしすだった。
「しす…?なんで、」
「は?お前が珍しく電話掛けて来たとやろ?」
「は?」
「いやこっちのセリフなんやけど…出たらすぐ切るし…飯でも奢って欲しいのかと思ったんだけど…違ったと?」
ありさんだと、そう思った。生きてる人間に助けを求めるなんて、あの人はやっぱり賢明だ。
「…ううん、そのつもりだった。叙々苑行こ」
「お前まじでいい性格してるわ…ととさんも呼ぶか」
「そうしよ」
濃い橙色の夕暮れ、初夏の風のなかに、彼の匂いがした気がした。
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