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運命は路地裏にて

「あったかい方がいいかなって思って…お水もあるけど、どっちがいい?」

キッチンから戻ってきたありさかは、また眉を下げたあの優しい顔で俺にそう尋ねた。手に持ってるマグカップからは白いけむが甘い匂いを連れ添って、モクモクと立ち昇っては消えていく。この匂いは、ココアだ。

「あ、じゃああったかいほうで」

「おっけ…あ、これ中身ココアなんだけど…」

「匂いでわかったで」

ちょっと笑って言うと、ありさかの眦も優しく細まる。ありがとうとお礼を言って受け取ったマグは、とろけそうなほど温かい。ありさかみたいだ。

「熱いかも、気をつけてね」

その言葉につられて目をあげると、優しい顔をした彼がこちらを覗いている。俺だけに向けられた、俺を心配した言葉。心臓がぎゅっと握られて、それからゆっくり解放されたみたいに、どくどくしている。

「ん?どした?」

まろく落ち着いた低い声に、自覚したばかりの恋心がきゅうと悲鳴を上げた。見つめられた視線の優しさに、甘いココアの匂いと、柔らかいソファに。初めて、こころから休まるプレイをしてもらって。掛けられる言葉は、「俺のことが大切だ」と言われているようで。もう長い間すり減らして機能すらしていなかった俺の幸せのキャパは、もうとっくに壊れていた。

「………う、」

「…?だるま?」

「…ズ、」

「えっ、えっえっ!?ごっごごめんどうした!?大丈夫っ!?!」

嗚咽が込み上げてまともに話すことすらできない。慌てるありさかに、違うんだと伝えたいのに、溢れるのは塩っぽい液体だけ。自分がなにかしてしまったと思い込んでいるありさかに、せめても首を横に振る。言葉にしたいのに、もうどうしようもない。俺の手に握られたマグカップを零さないようにと机に置いたあと、ありさかの手は俺を慰めに触れてよいのかすら分からなさそうに宙を漂っている。違う、伝えなきゃいけない。黙って従っていたあの頃とはもう、違うのだから。

「…っあり、……さかぁ」

「だ、だる?大丈夫?どっか痛い?やっぱ帰りた…」

「…聞いて、」

そう言うと焦った顔をしながらも口を噤むお前は、本当にいいやつだ。そんだけテンパってても人を優先できるお前の優しさが、いっそおかしい。そのおかしさも手伝って、ありさかになんとか笑いかけてみる、と、酷く狼狽えたようだった。俺の顔好きってゆってたもんな。泣き笑いが刺さったようだ。でも、そんなお前のおかげで、俺は今、


「しあわせ、なの」

「…え」

ありさかの、蜜色の透き通った綺麗な目が大きく見開かれた。あんまり見つめていると、その蜜の中に閉じ込められて、お前の中で琥珀になってしまいそう。

「ありがと、ありさかがほんとに優しくしてくれて…こんな、みっともないんやけど…」

情緒不安定厄介野郎みたいに泣いて笑う俺を見て、ありさかは本当に安心したみたいに笑って、「こんなの、なんでもないよ」と両手を握ってくれた。その温かさで、ああ俺も、幸せになっていいんだと思えた。

少し冷めたココアを口にしながら、俺はありさかに前の家での事情をざっくりと話した。あまりに酷いところ、思い出したくないところはぼかした。でも聞いてるありさかの顔はどんどん険しくなって、話し終わる頃には眉間に皺が寄りまくっていた。

「…そんな生活が、どのくらい続いてたの?」

「大学の途中からやから…2年?とちょっと?」

「2年間、ひとりで?誰にも相談できずに?」

「…うん」

「…そっか」

ありさかはそう言って暫く黙り込んでしまった。

「…ごめんな、こんなの別に聞きたないよな」

「え、?あいや、俺の方こそごめん、…なんか、なんて言っても薄っぺらいなと思って…」

『辛かったね』も、『よく頑張ったね』も、俺の事を軽んじている気がするとありさかは悲しそうに言った。どこまでも優しい奴だ。人を慮ることのできる人だ。

「…えっと、…生きててくれてありがとう」

弾かれたように目をあげると、鼻を赤くしたありさかが笑っていた。「生きててくれてありがとう」。孤児院で生まれ育ちあの人の元で過ごしてきた俺には、生涯言われたことの無い言葉だった。また、目の奥から、体の芯から震えるように込み上がるのは、もう止められなくて。

「…う、……あああぁ…」

今度は声まで上げて泣いた。こんなふうに泣いてしまうのは一体十何年ぶりだろうか。あの人には目が腫れてお前の顔面が崩れるから泣くなと言われていたし、泣くほどの感受性がまだ自分に残っているとも思っていなかったのに。

「頑張ったんだね、」

ありさかはさっきみたいに頭を撫でてそう言った。もしこの世界に天女か天使がいたのなら、彼らの体温はきっとありさかとぴったり同じくらいだ。大きなてのひら、その厚みと質量。あの人とそう変わらないはずなのに、どうしてか、触れられる度に蕩けてしまいそうだ。
ああこんな感情は初めてだ。誰かに愛してほしいだなんて。
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