運命は路地裏にて
運命は裏路地にて②
ardr domsub ②
あったかい。ふわふわでぬくい。どうしてか酷く安心する。
ぱち、目を覚ますと、全く知らない場所だった。
「…え"っっ、」
…なんで、あれ俺、あの人の家から、逃げ出して…それで…
不意に、フラッシュバックする。後ろから怒鳴りつけるあの人の声。雨の中を必死で走る背中に浴びせられた罵詈雑言。
『__!!』
「…ぅ゙、っうぅ…」
怖い、本当に怖くて、涙が溢れてくる。ここはどこ?誰の家?病院には見えないし…あの人の、知り合いの家だったらどうしよう?また殴られて、煙草を押し付けられて、また…プレイ、させられる?
抗えないコマンドに、形式しか満たされない、モノみたいに扱われる、…あれ、を
「……ッ、…ぉえ゙、」
息が詰まる。逃げなきゃ、もっと遠いところまで。立ち上がって気づく。…俺の服じゃない?それに、何故か妙に身体が軽くて、いつものような怠さがない。なんで、
「あ、」
「!?ぅあ、っ」
「起きた?」
ドアから少し顔を覗かせたその人に見覚えは無い。入ってきたのはガタイのいい男だった、デカくて、タッパがあって、…あの人、みたいな、
「…、ッァ、」
「…あれ?え…っと、大丈夫?…昨日のこと忘れちゃった?」
そう言って男はふにゃりと眉尻を下げた。よく見れば、あの人とは全然違う、優しいかおをしている。不安そうに首を傾げるその男に、なぜか少し安心した。
「昨日…?」
「そう、倒れててー連れてきてー…まぁ…えっと、君が泣いたから落ち着かせて…みたいな、」
男の言葉をぼうっと聞いていた頭に、あの感触が呼び起こされた。俺を優しく撫でる手のひら、褒めてくれる低く落ち着いた声、その眉尻を下げて笑う顔。
「…ぁ、」
そうだ俺、この人になんでか褒められて、満足して、寝たんだ。え、てか俺、その前にこの人に倒れてるとこ助けてもらってるじゃん!?
「ぁっ、ありがとう、っございます」
事態を察した俺は慌ててその人に向かって頭を下げた。
「あ、いえいえどうも」
律儀に頭を下げた人は悪い人には見えなかった。怖いけど。
「勝手に連れてきちゃってごめんね、怖いよね…
…でも、君が助けてって、帰りたくないって言うから、
…他のやり方が思い付かなくて…」
申し訳なさそうにする男の人の発言に青ざめた。俺、初対面の人にそんなこと言ったんか?め、迷惑野郎すぎる。この人が俺の言葉を真に受けてくれる優しい人だったから良かったものの、やべぇ奴に声掛けてたらと思うと恐ろしい。
自身の言動を省みつつも、俺はそんな自己判断もできやくなるほど追い込まれていた自分を客観視した。
「いや、こんな訳分からん奴助けてくれてほんとにありがとうございます。…お礼、したいんですけど…」
次の言葉が喉に詰まる。生憎俺は命の恩人に差し出せるような金も物もないのだから。
「…すみません、お金も、帰る家もなくて…」
男の人は何も言わない。俺の言葉を待っているようだ。怖くなって目を瞑る。…こんなことを言ったら、また、あの人にされたみたいな酷い扱いを受けるかもしれない。苦しい目に、会うかもしれない。思い返す記憶のほとんどは怖くて、辛くて痛い。…それでも、唯一の居場所を失ってしまった俺にはきっとこれしかない。顔を上げる。見つめる瞳は優しかった。
「っなんでもするので、…ここに、ッ置いて貰えませんか、」
自分の手が震えていることに気付いて、隠すようにこれを握り込む。『なんでも』は呪いの言葉だ。あの人との暮らしの中で嫌になるほど身に染みた教訓だ。でも俺には、あの地獄から逃げ出してきた俺には、この身一つしか差し出せるものがなかったのだ。
男は驚いた素振りを見せなかった。それが不自然に思えて、俺はやはりこの男があの人の知り合いである可能性を捨てきることはできなかった。
「なんでもなんてしなくていいよ、…前の人にそう言えって言われたの?」
「え、」
驚いて見上げると、男は心配と申し訳なさが両立したような表情をしていた。
「ごめんね、君の服が濡れてたから着替えさせようと思って、その時に、その…見えちゃって」
俺はほぼ無意識に腹の辺りに手を当てた。そうだ、俺の服じゃないこの服はきっと彼のものであるはずで、となると彼は俺の汚い体を見たはずだ。そこで納得した。なるほど、だから俺があんなこと言っても驚きやんのか。
「勝手に世話焼いてごめんね」
「勝手なんて、っそんな…」
助けを求めたのは俺の方なのだ。
なのに何故かずっと彼が謝っている。
「でもまぁ、好きなだけここにいたらいいよ。何一つ不自由なくとまでは行かないかもしれないけど、君が食べる分くらいには困らないからさ」
そう言ってまた眉を下げて笑う。
…好きなだけ?自分の中の猜疑心がぐっと高まった。見ず知らずの人間を拾って、"好きなだけここにいたらいい"なんて言うか?普通。俺の体を見て、弱いsubだと、殴って言うことを聞かせられる奴だと思ったのだろうか。昨日褒めてくれたのも、俺の性に確信を得るためだったと思えば合点がいく。哀しいかな、確かに俺のこの細い体じゃこの人の不意を突いたところで全く勝てそうにないし。…あの場所から逃げて逃げて、逃げた先でも同じ目に会うのだろうか。俺が、弱いから。俺が…
「…subだから?」
「え?」
「俺が、subだから置いておくの?」
その人は困惑したようだった。でも抑えきれなかった。怖かった。恨めしかった。自分の性が、人を疑いながらでしか生きれないこの性が。
「違うよ、君がsubだからとか関係ない…」
「っじゃあなんでですか、なんで知らない奴にそんな優しくするんですか、俺をっ……俺を、使おうとするんじゃないなら…」
言い終わったあと、俺はベッドに座りこんでしまった。俺の言葉に彼はなんの反応も見せず、ただ間を置いてから、俺に歩み寄ってきた。目の前ですとんとしゃがんだ彼は、俯いた俺の顔を不安そうに覗き込んだ。何か言いかけて居るのか口を開いては閉じて、それを数度繰り返した後、意を決したように俺の目を見つめた。
「……あの、…ね、俺ね、…君の、」
「…」
その先を言い淀む彼の耳はなんだか赤い。言おうか言うまいか揺らいだような表情のあと、彼は斜め下を向いて、ぽっと顔を赤らめた。え?
「…………顔が、タイプで…」
「………え?」
そう言った知らない男は、もじもじと恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに、まるで女の子が友達に好きな人を打ち明けたみたいに照れてみせたのだ。でけえ男が。顔を、なんなら耳まで赤くして、俺の顔が好みなんだと言う。…なん、なにそれ。
「…っふ、」
「?」
「っふは、なにそれ、お兄さんてばおっかしいの、んははっ」
笑い転げる俺をきょとんとして見つめるその顔すら可笑しい。徐々に自分が笑われていることに気付いてきたのか、彼も笑いだした。もう何が可笑しいのか分からなくなってしまうほど、久しぶりに、俺は誰かと笑った。
ありさかと名乗った男は俺に目玉焼きとウィンナーとトーストというありふれた、それでいて間違いなく美味しい朝ごはんを用意してくれた。バターかいちごジャムしかないがどちらがいいか聞かれたのでいちごジャムがいいと答えた。人に塗ってもらったトーストを食べるのなんて子供の頃以来だ。向かいの席では全く同じものをありさかさんが食べていて、時々目が合うと、恥ずかしそうにちょっと笑った。
それはそれは不思議な時間だった。今自分が生きていることも、ここにいることも、知らない男が作ったご飯を知らない男と食べていることも、なにもかも。その間、俺はただのいち人間だった。subとしてではなく人間として扱われたのは、一体いつぶりだっただろうか。
そんなことを考えていると、俺はあっという間に朝食を食べ終わってしまった。
「お皿片付けるよ、足りた?」
「た、りました。ご馳走様でした。」
俺より先に食べ終わっていたらしいありさかさんに声をかけられて言葉に詰まる。終わるの待っててくれたんか、てか食うのはや。さっきめちゃくちゃ笑っちゃったけどまだ気まずいもんは気まずいし完全にいい人かどうかも分からない。くっそ笑っちゃったけど。
ふとありさかさんがお皿をシンクに漬けたのを見て我に返る。
「あ、片付けやりますよっ」
「ん?いいよ、疲れてるでしょ、座ってて」
「でも、」
「…ありがとう、じゃあコップとお箸こっちに寄越してくれる?」
言われた通りプラスチックのコップふたつと色の違う2組のお箸をシンクまで運んだ。
「ありがとね、座ってていいよ」
優しく笑って言う彼にそれ以上食い下がっても無駄だと感じた俺は軽く頭を下げてから席に戻った。なぜだか満足感が凄い。お腹が満たされたからだろうか。
変な気分だ。俺の身体が好きだと言う人から逃げてきて、俺の顔が好みだと言う人に匿ってもらっている。しかも好きなだけいて良くて、ご飯も出して貰えるらしい。ガタイが良くて顔も悪くない兄ちゃんがなんで俺なんか?と思ってさっきは笑っちゃったけど、この状況、よく考えたらあの人の家と全く同じで笑えない。あの人もご飯は出してくれたし家にいていいと言うか外に出んなと言われた。あれ、これって同じタイプのやばい人に捕まっただけなのでは??
いやいや、まだありさかさんが善人と決まったわけでも悪人と決まった訳でもないし、もしかしたらゲイなだけかもしれない。それにあの人と違ってありさかさんは何もしなくていいって言ってた。確かにタイプだが嫌がるようなことも、無理やりもしないと約束してくれた。好きな男に尽くすタイプなのだろうか。実は彼の方がsub気質だったり?そんな都合いいことある??
「あれ、そこに座ってたの?」
洗い物を終えたらしいありさかさんがキッチンから顔をのぞかせた。
「ソファ座っててよかったのに。なんか見たいものある?見てどうぞ」
リモコンを持ったありさかさんがソファに座るよう俺に促した。促されるままソファに座る。
「あの、ありさかさん」
「ありさかでいいよ。同い年みたいなもんだし」
「えーと…ありさか?」
「どうした?」
そう言ってありさかは眉を少し下げて微笑んだ。彼の中ではもう俺は友達らしい。いやらしさのひとつもないその顔にますます困惑する。どうしよう。何をしてもらっても俺がありさかに返せるものはこの身一つしかないのに。ありさかにそういう気は全くないんだろうか?いやでも顔が好みの奴に迫られたら嬉しくはあるか…?
黙って悩んでいると心配そうな声で「だるま?」と声を掛けられた。ええい、もう一か八か誘ってみるしか…と意を決したその時、俺の頭に柔らかい手のひらの感触があった。…え?
「またなんか思い出して不安になっちゃった?」
「…ぇ?…あ、ちがくて、俺、」
「ほんと?苦しそうな顔してたよ?…大丈夫?」
「…ん、」
やばい、なんだこれ。頭から伝わる仄かな体温が気持ちいい。俺今、もしかして、しんぱいされてる?
「辛かったね、大丈夫だよ」
優しげな視線が、俺だけにとくとくと注がれている。…そう、そうおれ、辛かったの。頑張ってにげてきたの。だからもっとほめて、
「よしよし」
頭を撫で回されると訳わかんなくなりそうなくらい幸せで気持ちよくてほっとする。なんだこれ、こんなのしらない。
「あり、ありさか、ありさかぁ」
「どうしたの?」
そうだ、言おうと思ってたんだ、俺にはこれしかないからって、だから、
「せっくす、していいよ」
ぼんやりした視界の中でありさかは吃驚したみたいに目を見開いて、それから顔を赤くして、小さな声で「また今度ね」と囁いた。ああ、俺だってなにかしてあげたいのにな。
ardr domsub ②
あったかい。ふわふわでぬくい。どうしてか酷く安心する。
ぱち、目を覚ますと、全く知らない場所だった。
「…え"っっ、」
…なんで、あれ俺、あの人の家から、逃げ出して…それで…
不意に、フラッシュバックする。後ろから怒鳴りつけるあの人の声。雨の中を必死で走る背中に浴びせられた罵詈雑言。
『__!!』
「…ぅ゙、っうぅ…」
怖い、本当に怖くて、涙が溢れてくる。ここはどこ?誰の家?病院には見えないし…あの人の、知り合いの家だったらどうしよう?また殴られて、煙草を押し付けられて、また…プレイ、させられる?
抗えないコマンドに、形式しか満たされない、モノみたいに扱われる、…あれ、を
「……ッ、…ぉえ゙、」
息が詰まる。逃げなきゃ、もっと遠いところまで。立ち上がって気づく。…俺の服じゃない?それに、何故か妙に身体が軽くて、いつものような怠さがない。なんで、
「あ、」
「!?ぅあ、っ」
「起きた?」
ドアから少し顔を覗かせたその人に見覚えは無い。入ってきたのはガタイのいい男だった、デカくて、タッパがあって、…あの人、みたいな、
「…、ッァ、」
「…あれ?え…っと、大丈夫?…昨日のこと忘れちゃった?」
そう言って男はふにゃりと眉尻を下げた。よく見れば、あの人とは全然違う、優しいかおをしている。不安そうに首を傾げるその男に、なぜか少し安心した。
「昨日…?」
「そう、倒れててー連れてきてー…まぁ…えっと、君が泣いたから落ち着かせて…みたいな、」
男の言葉をぼうっと聞いていた頭に、あの感触が呼び起こされた。俺を優しく撫でる手のひら、褒めてくれる低く落ち着いた声、その眉尻を下げて笑う顔。
「…ぁ、」
そうだ俺、この人になんでか褒められて、満足して、寝たんだ。え、てか俺、その前にこの人に倒れてるとこ助けてもらってるじゃん!?
「ぁっ、ありがとう、っございます」
事態を察した俺は慌ててその人に向かって頭を下げた。
「あ、いえいえどうも」
律儀に頭を下げた人は悪い人には見えなかった。怖いけど。
「勝手に連れてきちゃってごめんね、怖いよね…
…でも、君が助けてって、帰りたくないって言うから、
…他のやり方が思い付かなくて…」
申し訳なさそうにする男の人の発言に青ざめた。俺、初対面の人にそんなこと言ったんか?め、迷惑野郎すぎる。この人が俺の言葉を真に受けてくれる優しい人だったから良かったものの、やべぇ奴に声掛けてたらと思うと恐ろしい。
自身の言動を省みつつも、俺はそんな自己判断もできやくなるほど追い込まれていた自分を客観視した。
「いや、こんな訳分からん奴助けてくれてほんとにありがとうございます。…お礼、したいんですけど…」
次の言葉が喉に詰まる。生憎俺は命の恩人に差し出せるような金も物もないのだから。
「…すみません、お金も、帰る家もなくて…」
男の人は何も言わない。俺の言葉を待っているようだ。怖くなって目を瞑る。…こんなことを言ったら、また、あの人にされたみたいな酷い扱いを受けるかもしれない。苦しい目に、会うかもしれない。思い返す記憶のほとんどは怖くて、辛くて痛い。…それでも、唯一の居場所を失ってしまった俺にはきっとこれしかない。顔を上げる。見つめる瞳は優しかった。
「っなんでもするので、…ここに、ッ置いて貰えませんか、」
自分の手が震えていることに気付いて、隠すようにこれを握り込む。『なんでも』は呪いの言葉だ。あの人との暮らしの中で嫌になるほど身に染みた教訓だ。でも俺には、あの地獄から逃げ出してきた俺には、この身一つしか差し出せるものがなかったのだ。
男は驚いた素振りを見せなかった。それが不自然に思えて、俺はやはりこの男があの人の知り合いである可能性を捨てきることはできなかった。
「なんでもなんてしなくていいよ、…前の人にそう言えって言われたの?」
「え、」
驚いて見上げると、男は心配と申し訳なさが両立したような表情をしていた。
「ごめんね、君の服が濡れてたから着替えさせようと思って、その時に、その…見えちゃって」
俺はほぼ無意識に腹の辺りに手を当てた。そうだ、俺の服じゃないこの服はきっと彼のものであるはずで、となると彼は俺の汚い体を見たはずだ。そこで納得した。なるほど、だから俺があんなこと言っても驚きやんのか。
「勝手に世話焼いてごめんね」
「勝手なんて、っそんな…」
助けを求めたのは俺の方なのだ。
なのに何故かずっと彼が謝っている。
「でもまぁ、好きなだけここにいたらいいよ。何一つ不自由なくとまでは行かないかもしれないけど、君が食べる分くらいには困らないからさ」
そう言ってまた眉を下げて笑う。
…好きなだけ?自分の中の猜疑心がぐっと高まった。見ず知らずの人間を拾って、"好きなだけここにいたらいい"なんて言うか?普通。俺の体を見て、弱いsubだと、殴って言うことを聞かせられる奴だと思ったのだろうか。昨日褒めてくれたのも、俺の性に確信を得るためだったと思えば合点がいく。哀しいかな、確かに俺のこの細い体じゃこの人の不意を突いたところで全く勝てそうにないし。…あの場所から逃げて逃げて、逃げた先でも同じ目に会うのだろうか。俺が、弱いから。俺が…
「…subだから?」
「え?」
「俺が、subだから置いておくの?」
その人は困惑したようだった。でも抑えきれなかった。怖かった。恨めしかった。自分の性が、人を疑いながらでしか生きれないこの性が。
「違うよ、君がsubだからとか関係ない…」
「っじゃあなんでですか、なんで知らない奴にそんな優しくするんですか、俺をっ……俺を、使おうとするんじゃないなら…」
言い終わったあと、俺はベッドに座りこんでしまった。俺の言葉に彼はなんの反応も見せず、ただ間を置いてから、俺に歩み寄ってきた。目の前ですとんとしゃがんだ彼は、俯いた俺の顔を不安そうに覗き込んだ。何か言いかけて居るのか口を開いては閉じて、それを数度繰り返した後、意を決したように俺の目を見つめた。
「……あの、…ね、俺ね、…君の、」
「…」
その先を言い淀む彼の耳はなんだか赤い。言おうか言うまいか揺らいだような表情のあと、彼は斜め下を向いて、ぽっと顔を赤らめた。え?
「…………顔が、タイプで…」
「………え?」
そう言った知らない男は、もじもじと恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに、まるで女の子が友達に好きな人を打ち明けたみたいに照れてみせたのだ。でけえ男が。顔を、なんなら耳まで赤くして、俺の顔が好みなんだと言う。…なん、なにそれ。
「…っふ、」
「?」
「っふは、なにそれ、お兄さんてばおっかしいの、んははっ」
笑い転げる俺をきょとんとして見つめるその顔すら可笑しい。徐々に自分が笑われていることに気付いてきたのか、彼も笑いだした。もう何が可笑しいのか分からなくなってしまうほど、久しぶりに、俺は誰かと笑った。
ありさかと名乗った男は俺に目玉焼きとウィンナーとトーストというありふれた、それでいて間違いなく美味しい朝ごはんを用意してくれた。バターかいちごジャムしかないがどちらがいいか聞かれたのでいちごジャムがいいと答えた。人に塗ってもらったトーストを食べるのなんて子供の頃以来だ。向かいの席では全く同じものをありさかさんが食べていて、時々目が合うと、恥ずかしそうにちょっと笑った。
それはそれは不思議な時間だった。今自分が生きていることも、ここにいることも、知らない男が作ったご飯を知らない男と食べていることも、なにもかも。その間、俺はただのいち人間だった。subとしてではなく人間として扱われたのは、一体いつぶりだっただろうか。
そんなことを考えていると、俺はあっという間に朝食を食べ終わってしまった。
「お皿片付けるよ、足りた?」
「た、りました。ご馳走様でした。」
俺より先に食べ終わっていたらしいありさかさんに声をかけられて言葉に詰まる。終わるの待っててくれたんか、てか食うのはや。さっきめちゃくちゃ笑っちゃったけどまだ気まずいもんは気まずいし完全にいい人かどうかも分からない。くっそ笑っちゃったけど。
ふとありさかさんがお皿をシンクに漬けたのを見て我に返る。
「あ、片付けやりますよっ」
「ん?いいよ、疲れてるでしょ、座ってて」
「でも、」
「…ありがとう、じゃあコップとお箸こっちに寄越してくれる?」
言われた通りプラスチックのコップふたつと色の違う2組のお箸をシンクまで運んだ。
「ありがとね、座ってていいよ」
優しく笑って言う彼にそれ以上食い下がっても無駄だと感じた俺は軽く頭を下げてから席に戻った。なぜだか満足感が凄い。お腹が満たされたからだろうか。
変な気分だ。俺の身体が好きだと言う人から逃げてきて、俺の顔が好みだと言う人に匿ってもらっている。しかも好きなだけいて良くて、ご飯も出して貰えるらしい。ガタイが良くて顔も悪くない兄ちゃんがなんで俺なんか?と思ってさっきは笑っちゃったけど、この状況、よく考えたらあの人の家と全く同じで笑えない。あの人もご飯は出してくれたし家にいていいと言うか外に出んなと言われた。あれ、これって同じタイプのやばい人に捕まっただけなのでは??
いやいや、まだありさかさんが善人と決まったわけでも悪人と決まった訳でもないし、もしかしたらゲイなだけかもしれない。それにあの人と違ってありさかさんは何もしなくていいって言ってた。確かにタイプだが嫌がるようなことも、無理やりもしないと約束してくれた。好きな男に尽くすタイプなのだろうか。実は彼の方がsub気質だったり?そんな都合いいことある??
「あれ、そこに座ってたの?」
洗い物を終えたらしいありさかさんがキッチンから顔をのぞかせた。
「ソファ座っててよかったのに。なんか見たいものある?見てどうぞ」
リモコンを持ったありさかさんがソファに座るよう俺に促した。促されるままソファに座る。
「あの、ありさかさん」
「ありさかでいいよ。同い年みたいなもんだし」
「えーと…ありさか?」
「どうした?」
そう言ってありさかは眉を少し下げて微笑んだ。彼の中ではもう俺は友達らしい。いやらしさのひとつもないその顔にますます困惑する。どうしよう。何をしてもらっても俺がありさかに返せるものはこの身一つしかないのに。ありさかにそういう気は全くないんだろうか?いやでも顔が好みの奴に迫られたら嬉しくはあるか…?
黙って悩んでいると心配そうな声で「だるま?」と声を掛けられた。ええい、もう一か八か誘ってみるしか…と意を決したその時、俺の頭に柔らかい手のひらの感触があった。…え?
「またなんか思い出して不安になっちゃった?」
「…ぇ?…あ、ちがくて、俺、」
「ほんと?苦しそうな顔してたよ?…大丈夫?」
「…ん、」
やばい、なんだこれ。頭から伝わる仄かな体温が気持ちいい。俺今、もしかして、しんぱいされてる?
「辛かったね、大丈夫だよ」
優しげな視線が、俺だけにとくとくと注がれている。…そう、そうおれ、辛かったの。頑張ってにげてきたの。だからもっとほめて、
「よしよし」
頭を撫で回されると訳わかんなくなりそうなくらい幸せで気持ちよくてほっとする。なんだこれ、こんなのしらない。
「あり、ありさか、ありさかぁ」
「どうしたの?」
そうだ、言おうと思ってたんだ、俺にはこれしかないからって、だから、
「せっくす、していいよ」
ぼんやりした視界の中でありさかは吃驚したみたいに目を見開いて、それから顔を赤くして、小さな声で「また今度ね」と囁いた。ああ、俺だってなにかしてあげたいのにな。