運命は路地裏にて
外は最悪の天気なのにトイレットペーパーを切らすなどという失態を犯してしまった俺は、傘を差しながら家までの道をだらだらと歩いていた。風は吹いてるし雨は強いし肌寒いしで、昨日の暑さが嘘みたいな天気だ。
「さむ、」
トイレットペーパー買ったし、もう早く帰ろう。行きに来た道と同じところを辿ろうとした足を90度変換して、俺は近道で帰ることにした。路地裏みたいな道にはほとんど人通りがなくて、静かで、俺はたまにそこを通って帰るのが好きだった。雨の日の路地もいいかもしれない。そんな風に思ったきまぐれの選択の先に、そいつはいた。
「…ぇ」
なんか最初は、見慣れた細い路地に足みたいなのが見えた。普通に怖かった。よ、酔っ払い?こんな雨の中で、傘もささず?? 心配からか好奇心からか、俺はそれにもう少し近付いた。体が見えて、手が見えて、触れられそうな距離まで来た時、俺には見えたのだ。
「……か……っわい…」
閉じられたふさふさのまつ毛、ツンとした鼻先、小さな桃色の唇に、綺麗な白髪は雨に濡れて色っぽくうなじに張り付いていた。正直に言う。どストライクだった。
こんな可愛いらしい人が道端で倒れているなんて何だか闇を感じざるを得なかったが、声をかけない訳にもいかなかった。軽く肩を揺する。
「…あの、大丈夫ですか、」
「…」
返事は無い。怖くなって恐る恐る脈を確かめたが、死んではいないようだった。
「こんなところに居たら風邪引きますよ…」
傘を寄せながら軽く頬を叩いてみる。
するとその人はうっすらと目を開けた。
「……ぁ…」
掠れた声は少し低くて、この時点で俺は『あ、こいつまさか男か?』とは思った。しかし開かれた瞳がそれはそれは美しい金色であったので、なんかもうどうでも良くなった。
「気が付きました?早く帰られた方が、」
そう言いかけた時、彼か彼女の目の奥の瞳孔が大きく開かれた。
「ぁ、やだ、やだ…」
「え?」
明らかに取り乱した様子のその人は震える両手で俺の手を握りこんだ。
「帰りたくない…ッ、助けて、くださ…」
そこまで言うと意識を失ってしまった。あまつさえ俺に倒れ込むようにして、だ。警察に通報すべきか迷ったが、俺はこの人を一度家に運ぶことにした。家出という歳には見えなかったし、警察に連れて行けば彼の望まない「帰宅」を命じられる他はないだろう。
…それに、今離れてしまえば、もう二度と会えないような気がした。背負った身体はあまりにも軽かった。
「…え、君もしかしてsub性なの」
ベッドの端でガタガタと震えている彼は完全に俺に怯えていて、よく見れば泣いているようだった。
「は、…ッは、ぅ…ッカヒュ、…は、っ」
浅い呼吸を繰り返す彼は、俺がほぼ無意識に出した微かなグレアを驚くほど敏感に感じ取ってしまったらしい。しかしその微かなグレアというのも俺が彼の怯えっぷりを見て、もしかして俺今グレア出てたか?と思うほどの微かさだ。過敏すぎる反応と異常なほどの怖がり方、先程の『助けて』の発言を踏まえるに、俺の中で"このsubはもしかしたらDV気味のdom性から命からがら逃げてきたのではないか"という仮説が立った。
それならまず俺に暴行を加える意思はないと伝えることが必要だろう。
「えっと、君に何もするつもりはないよ、大丈夫だから…泣かないで」
「は…いや、…っごめ、なさ…ッ、グス」
あどけなさを残す整った顔が、恐怖に歪み涙に濡れる。
…まずいちょっと唆る。心の中で顔を出した邪な感情を思い切り叩きのめす。頭を振って心を落ち着けてから、俺の言葉が聞こえていないようなsub性に再度話しかけた。
「君、道で倒れてたんだよ、体も冷えてて、それで連れてきた。元気になったらどこへでも行ったらいいから…」
「…うぅ、…はぁっ、…は、ッゲホ、…ぅ、」
うわあ、コレまずい。ドロップ寸前だ。こんな明らかに体調が優れない様子のsubがドロップしてしまうとなると、最悪の事態さえ考えられる。なんとかしなければ。ドロップしかけのsubに必要なことは、暖かい食事でもきちんとした睡眠でもない、dom性によるケアだけで、それだけがsubのドロップを止めることができる。
…でも。思いとどまる、体が躊躇う。もうdomとしてのプレイなんて何年もまともにしてない俺が、名前も知らない、セーフワードも決めていないsubを上手くコントロールできるのか?
…それでも、元はと言えば、無意識ではあるものの俺のグレアでこの人ドロップしそうなんだし、これは、俺に責任がある。俺がどうにかしなければいけない。…やるしかない。
緊張で乾いた口を開く。
「……えっと、…外、寒かったでしょう?あんなところに1人でいて、きっと、辛かったよね。…よく頑張ったね」
「…ぇ、」
「助けてって言えて、偉かったね…いい子だね」
金色の目は俺を見つめたまま動かない。信頼関係がない以上subの為のコマンドは出せない。俺が彼をどうにかするには、やはりケアしかない。
唾を飲む。思い出せ、散々やっていたあの頃の感覚を。…そうだ、悪趣味な躾をされてるsubに上から手を伸ばすのはいけないんだった、危害を加えられると思って怖がるから。
俺は彼に向かって下から手を伸ばした。優しく、本当に優しく、慎重に頬に触れる。彼は未だ怯えたような顔でその手を見ていたが、振り払ったり、避けたりはしなかった。…そうしないよう躾られたから、できなかっただけかもしれないけど。
「よしよし、可愛いね。こんなに冷えて…苦しかったね。頑張れて偉いね」
「ぁ…、?…ぇ…」
subが目を閉じた。そこに先程のような恐怖は見えない。
嗚呼、手が、口が覚えている。テンプレみたいな触れ方を、定型文みたいな褒め言葉を。滑らせるように頬から頭へ触れる場所を変え、優しく優しく撫でる。
「いい子いい子、いい子だね」
「?…?? …ん、」
困惑したようなか細い声を上げながらも、そのsubは恍惚とした目で俺の掌に擦り寄ってきた。ぽやっとした表情を見るに何が起きているのかイマイチ理解できていないようだったが、本能的なsubの性質は理性など捨ておいてdomのケアを求めているようだった。
その時、subの目の奥から、じわりと滲むのものがあった。
「…か、わぃ?」
「うん?」
「おれ、…俺? おれが、かわいい?」
「…うん、すっごく可愛い」
本心だった。溢れた涙を指で拾ってやると、色んな感情がないまぜになったような顔をしていた。
「いいこ?…ほんとうに?」
「いい子だね、えらい子。」
「…ほんと?ほんと、に?」
「うん、本当だよ」
綺麗な涙をぽろぽろと流しながら幸せそうに笑うのを見て、俺はこの人のdomに殺意すら沸いた。プレイにおける常套句でこんなに幸せそうにしているsubは初めてで、このsubが置かれていた環境の劣悪さは容易に窺える。こんな綺麗な子に、可愛いともいい子とも言わなかったのか?しかも、その言葉すら素直に受け取れない環境にいさせたのか?
「…へ、ふへ…」
屈託のない顔でふにゃりと笑う顔はやっぱり、どうしようもないほど好みで困る。薄汚い感情を表に出さないよう気をつけながらケアを続けていると、疲れからか安堵からか、彼は寝てしまった。幸せそうな寝顔を見るに、もしかしたらスペースに入れたのかもしれない。
最悪の結末を逃れられた安堵に息を吐く。幸せそうに眠っているのはいい事だが、なんせ彼のからだと服は雨で濡れている。タオルを取って戻ってきたタイミングで彼が目を覚ましたので、まだ体を拭けてすらいないのだ。暖房が付いているしベッドが濡れるのは別に構わないが、服が濡れていると暖まるものも暖まらないかもしれない。
脱がせるのは倫理的に如何なものかと逡巡したのち、身体だけでも軽く拭こうと決めた俺は、少しの罪悪感とちょっぴりの興奮とともに彼のパーカーの下にタオルを入れ込んだ。そこに見えたものを見て、愕然とした。眞白で薄い腹に、複数の打撲跡と火傷痕が、まるで呪いのように刻まれていた。
「さむ、」
トイレットペーパー買ったし、もう早く帰ろう。行きに来た道と同じところを辿ろうとした足を90度変換して、俺は近道で帰ることにした。路地裏みたいな道にはほとんど人通りがなくて、静かで、俺はたまにそこを通って帰るのが好きだった。雨の日の路地もいいかもしれない。そんな風に思ったきまぐれの選択の先に、そいつはいた。
「…ぇ」
なんか最初は、見慣れた細い路地に足みたいなのが見えた。普通に怖かった。よ、酔っ払い?こんな雨の中で、傘もささず?? 心配からか好奇心からか、俺はそれにもう少し近付いた。体が見えて、手が見えて、触れられそうな距離まで来た時、俺には見えたのだ。
「……か……っわい…」
閉じられたふさふさのまつ毛、ツンとした鼻先、小さな桃色の唇に、綺麗な白髪は雨に濡れて色っぽくうなじに張り付いていた。正直に言う。どストライクだった。
こんな可愛いらしい人が道端で倒れているなんて何だか闇を感じざるを得なかったが、声をかけない訳にもいかなかった。軽く肩を揺する。
「…あの、大丈夫ですか、」
「…」
返事は無い。怖くなって恐る恐る脈を確かめたが、死んではいないようだった。
「こんなところに居たら風邪引きますよ…」
傘を寄せながら軽く頬を叩いてみる。
するとその人はうっすらと目を開けた。
「……ぁ…」
掠れた声は少し低くて、この時点で俺は『あ、こいつまさか男か?』とは思った。しかし開かれた瞳がそれはそれは美しい金色であったので、なんかもうどうでも良くなった。
「気が付きました?早く帰られた方が、」
そう言いかけた時、彼か彼女の目の奥の瞳孔が大きく開かれた。
「ぁ、やだ、やだ…」
「え?」
明らかに取り乱した様子のその人は震える両手で俺の手を握りこんだ。
「帰りたくない…ッ、助けて、くださ…」
そこまで言うと意識を失ってしまった。あまつさえ俺に倒れ込むようにして、だ。警察に通報すべきか迷ったが、俺はこの人を一度家に運ぶことにした。家出という歳には見えなかったし、警察に連れて行けば彼の望まない「帰宅」を命じられる他はないだろう。
…それに、今離れてしまえば、もう二度と会えないような気がした。背負った身体はあまりにも軽かった。
「…え、君もしかしてsub性なの」
ベッドの端でガタガタと震えている彼は完全に俺に怯えていて、よく見れば泣いているようだった。
「は、…ッは、ぅ…ッカヒュ、…は、っ」
浅い呼吸を繰り返す彼は、俺がほぼ無意識に出した微かなグレアを驚くほど敏感に感じ取ってしまったらしい。しかしその微かなグレアというのも俺が彼の怯えっぷりを見て、もしかして俺今グレア出てたか?と思うほどの微かさだ。過敏すぎる反応と異常なほどの怖がり方、先程の『助けて』の発言を踏まえるに、俺の中で"このsubはもしかしたらDV気味のdom性から命からがら逃げてきたのではないか"という仮説が立った。
それならまず俺に暴行を加える意思はないと伝えることが必要だろう。
「えっと、君に何もするつもりはないよ、大丈夫だから…泣かないで」
「は…いや、…っごめ、なさ…ッ、グス」
あどけなさを残す整った顔が、恐怖に歪み涙に濡れる。
…まずいちょっと唆る。心の中で顔を出した邪な感情を思い切り叩きのめす。頭を振って心を落ち着けてから、俺の言葉が聞こえていないようなsub性に再度話しかけた。
「君、道で倒れてたんだよ、体も冷えてて、それで連れてきた。元気になったらどこへでも行ったらいいから…」
「…うぅ、…はぁっ、…は、ッゲホ、…ぅ、」
うわあ、コレまずい。ドロップ寸前だ。こんな明らかに体調が優れない様子のsubがドロップしてしまうとなると、最悪の事態さえ考えられる。なんとかしなければ。ドロップしかけのsubに必要なことは、暖かい食事でもきちんとした睡眠でもない、dom性によるケアだけで、それだけがsubのドロップを止めることができる。
…でも。思いとどまる、体が躊躇う。もうdomとしてのプレイなんて何年もまともにしてない俺が、名前も知らない、セーフワードも決めていないsubを上手くコントロールできるのか?
…それでも、元はと言えば、無意識ではあるものの俺のグレアでこの人ドロップしそうなんだし、これは、俺に責任がある。俺がどうにかしなければいけない。…やるしかない。
緊張で乾いた口を開く。
「……えっと、…外、寒かったでしょう?あんなところに1人でいて、きっと、辛かったよね。…よく頑張ったね」
「…ぇ、」
「助けてって言えて、偉かったね…いい子だね」
金色の目は俺を見つめたまま動かない。信頼関係がない以上subの為のコマンドは出せない。俺が彼をどうにかするには、やはりケアしかない。
唾を飲む。思い出せ、散々やっていたあの頃の感覚を。…そうだ、悪趣味な躾をされてるsubに上から手を伸ばすのはいけないんだった、危害を加えられると思って怖がるから。
俺は彼に向かって下から手を伸ばした。優しく、本当に優しく、慎重に頬に触れる。彼は未だ怯えたような顔でその手を見ていたが、振り払ったり、避けたりはしなかった。…そうしないよう躾られたから、できなかっただけかもしれないけど。
「よしよし、可愛いね。こんなに冷えて…苦しかったね。頑張れて偉いね」
「ぁ…、?…ぇ…」
subが目を閉じた。そこに先程のような恐怖は見えない。
嗚呼、手が、口が覚えている。テンプレみたいな触れ方を、定型文みたいな褒め言葉を。滑らせるように頬から頭へ触れる場所を変え、優しく優しく撫でる。
「いい子いい子、いい子だね」
「?…?? …ん、」
困惑したようなか細い声を上げながらも、そのsubは恍惚とした目で俺の掌に擦り寄ってきた。ぽやっとした表情を見るに何が起きているのかイマイチ理解できていないようだったが、本能的なsubの性質は理性など捨ておいてdomのケアを求めているようだった。
その時、subの目の奥から、じわりと滲むのものがあった。
「…か、わぃ?」
「うん?」
「おれ、…俺? おれが、かわいい?」
「…うん、すっごく可愛い」
本心だった。溢れた涙を指で拾ってやると、色んな感情がないまぜになったような顔をしていた。
「いいこ?…ほんとうに?」
「いい子だね、えらい子。」
「…ほんと?ほんと、に?」
「うん、本当だよ」
綺麗な涙をぽろぽろと流しながら幸せそうに笑うのを見て、俺はこの人のdomに殺意すら沸いた。プレイにおける常套句でこんなに幸せそうにしているsubは初めてで、このsubが置かれていた環境の劣悪さは容易に窺える。こんな綺麗な子に、可愛いともいい子とも言わなかったのか?しかも、その言葉すら素直に受け取れない環境にいさせたのか?
「…へ、ふへ…」
屈託のない顔でふにゃりと笑う顔はやっぱり、どうしようもないほど好みで困る。薄汚い感情を表に出さないよう気をつけながらケアを続けていると、疲れからか安堵からか、彼は寝てしまった。幸せそうな寝顔を見るに、もしかしたらスペースに入れたのかもしれない。
最悪の結末を逃れられた安堵に息を吐く。幸せそうに眠っているのはいい事だが、なんせ彼のからだと服は雨で濡れている。タオルを取って戻ってきたタイミングで彼が目を覚ましたので、まだ体を拭けてすらいないのだ。暖房が付いているしベッドが濡れるのは別に構わないが、服が濡れていると暖まるものも暖まらないかもしれない。
脱がせるのは倫理的に如何なものかと逡巡したのち、身体だけでも軽く拭こうと決めた俺は、少しの罪悪感とちょっぴりの興奮とともに彼のパーカーの下にタオルを入れ込んだ。そこに見えたものを見て、愕然とした。眞白で薄い腹に、複数の打撲跡と火傷痕が、まるで呪いのように刻まれていた。
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