【ヤマ太♀】太陽の眠るアトランティス
ざぁ…
太一はゆっくりと目を開けた。また今日もこの夢か、とゆっくりと体を起こす。足元を濡らす海は引いて、また濡らして、引いて、を繰り返していた。まるで太一を誘うように揺れる波に、ゆっくりと足を踏み入れる。ゆっくり、ゆっくりと海に足を進める太一を優しく受け入れるように、波はその空間だけ静かになる。
あぁ、心地いいな。
ポツリと、太一は呟いた。白と黒だけのはっきりとした世界。ここでは何も太一を拒むことはない。足元までしか無かったはずの水は瞬く間に太一の体を包み込む。肌を撫でる水は優しくて息苦しさもない。むしろここの方が息がしやすいのではないかと、そんなことさえ思ってしまう。どうせ現実に戻ったって、居場所なんてないのだ。この手を伸ばしたところで、彼は振り向くわけがないし、この手で彼女の背中を押したところで、自分は何も報われはしない。このままいっそ消えてしまえたら楽だろうに。太一は自身の体を抱きしめながら嗚咽をもらした。
〇
なんとまあ夢見の悪いものだ。
太一はゆっくりと体を起こして深呼吸をする。全身にびっしょりと汗をかいていて、張り付く寝間着が鬱陶しい。震える手を握って太一はベッドから抜け出した。朝からエアコンを既につけているリビングはひんやりとしていて、汗ばんだ肌を撫でる。自然と熱が籠っていた息を吐き出すと、冷蔵庫から牛乳を取り出す。コップに並々と注ぎ、喉に流し込むと、乾ききってベタついた喉が潤った気がした。
(あ、今日授業午前か…)
ぷはっ、とコップから口を離しながら、太一は頭をかいた。焼きあがったトーストにかぶりつきながら荷物をまとめる。まとわりつく気持ち悪さをシャワーと共に流しながら、太一はごつん、と鏡に額を押し付けた。そこに映る自身の姿に太一はふはっ、と自傷じみた笑みをこぼすと、濡れた髪もそのままに着替えてカバンを手に取る。どうせ誰に何も言われないのだ。太一は「いってきます」とだけつぶやいて大学へと向かった。
〇
ヤマトとソラが付き合っていることはずっと前から知っていたし、そもそも付き合う前からソラの相談にはよく乗っていた。だけれど太一はそのことに何の感情も抱かなかったし、あの二人の恋を素直に応援してあげようなどと思っていた。二人の間に今まで通り入れないのは少し寂しいけれど、実際その程度にしか思っていなかった。
だから、放課後教室で二人っきり、何か楽しそうに話す二人を見て、あれ?と思ってしまった。胸が痛むような、締め付けられるような、この感情が何なのかすぐにわからなかった太一はその場を静かに離れた。最初はとぼとぼと音を立てずに歩いていた足が、早歩きになり、いつしか全速力でその場を駆け抜けるほどになった。乱暴に靴を履きそのまま海の見える場所まで走る。ぼたぼたと落ちる雫が汗なのか涙なのか分からなかったが、確実に瞼に熱が篭っていることだけは分かった。はっ、はっ、と喉から吐き出される息は段々と震え、時折混ざる嗚咽を無視して太一は浜辺に一度寝転がる。波の音と、流れる雲を見て、あ、自分はヤマトの事が好きだったのかと今更ながらに気づいてしまった。
「え、おれ、馬鹿じゃねぇの?」
ぽつり、と口から零れたのは案外軽い罵りだった。それでも頬を撫でてぼたぼたと落ちていく雫が自分の動揺と後悔を表しているようでどうしようもなかった。両の手で落ちる涙を拭いながら、太一はただ一人ひっそりと自分の惨めさを感じた。何で気づかなかったんだろうかと自分を叱咤する。
その日、太一は初恋を自覚し、その瞬間実らぬものとなってしまった。
〇
久しぶりに思い出しちゃったなと、手でクルクルとペンを回しながら太一は頬杖をつく。教授の口から放たれる言葉を文字へと変換し、ノートへさらさらと書き写す。目覚めの悪い夢を見てしまったからだろうか。朝から気持ちが落ち込んでいるからいらないものまで思い出してしまった。
そういえば、と太一は手を止める。あの日からではなかっただろうか、あの変な夢を見始めたのは。確証はないがあぁ確かにそうかもしれないと太一は思った。
そんな思考をかき消すようにチャイムが鳴り響いた。太一はカツン、と手で回していたペンを机の上に落として荷物をまとめる。ふと、カバンの中でチカチカと光っているスマホを見つけて電源を押す。画面に映る『石田ヤマト』の文字にほんの一瞬躊躇うが、直ぐにスマホを開いてメッセージを読んだ。
(あぁ、そういえば今日はヤマトと約束してんだった。)
スマホの画面を落として太一は立ち上がった。荷物を掴んで教室を出る。その足取りがいつもより重く感じるのは、やっぱり今日の夢のせいなのだろうと思った。
〇
「太一!」
「ヤマトごめん、待たせた?」
「いや、俺も今来たところだ。」
ぱたぱたと靴を鳴らして太一は駅前のカフェへと向かった。昼御飯のためにとオレンジジュースと卵のサンドイッチを頼んでトレーに乗せる。しばらくきょろきょろと周りを見渡していると金髪の見慣れた青年が手を振っていた。太一は声をかけながら席へと近付き、向かい合うようにして座る。先程買ったサンドイッチに大きな口でかぶりつきながら、太一はヤマトへと目を向けた。
「で、なんだよ、相談って。」
サンドイッチを片手にスマホをタップする。メッセージの中に書かれた『相談』の文字を再び目で追いながら太一は問いかけた。ヤマトはしばらく俯いたが、重い口を開けて呟く。
「そ、空に、……指輪を買おうと。」
躊躇いがちに放たれたその言葉に、太一は飲んでいたオレンジジュースのストローから口を離した。気付かれないように深呼吸をして、震える手を抑えながら机に置く。
(サンドイッチ、少なめにしといてよかったな。)
最後の一つを手に取って太一は口に入れる。まるで味がしないな、とオレンジジュースで無理やり流し込んだ。話の続きを促すようにヤマトへ目を向ければ、動揺を隠すようにスコーンを口にする。
「いや、男物なら分かるんだが、女物の指輪はさっぱり分からなくて。」
「そんならおれよりもミミちゃんあたりに相談すりゃいいじゃねぇか。おれだって詳しいわけじゃ…」
「でもお前は空のことよく分かってるだろ?」
ヤマトのその言葉に、太一は思わず目を見開いた。ぽろ、とたまごサンドの具がトレーの上に落ちてしまったが、そんなこと気にしている余裕もなかった。空のことよく分かってるのはお前だろ、そう言いたいのに、声が震えていることを悟られたくなくて口を噤んだ。なんで今更そんなこと言うんだろうとか思わなくもなかったが、太一はただ「そんなの、お前には負けるよ」と答えるのが精一杯だった。最後の一口を放り込んで咀嚼する。どう声をかけるのが正解なのか、分からない答えを頭の中で一生懸命探した。
「………指輪の、空にあげる指輪のサイズは分かってるのか?」
「あ、あぁそれが……分からないんだ…本人に聞いたらバレるし、どうしたらいいかと…。」
「手ぇ繋いだ感覚でわからないのか?」
自分で言っておいて、何だか虚しくなってしまった。帰りたいな、ぼーっと外を眺めながらそんなことを思ってしまう。今日はダメな日だ。ただでさえ気持ちが落ち込んでるのにヤマトになんか会ってしまって、挙句の果てにこの話だ。気を紛らわせるためのサンドイッチもジュースも既になくなってしまった。
ふと、手に何かが触れて持ち上がった。一本一本を絡み取られ、繋がれる。何が、と窓に向けていた視線をヤマトに戻せば、自身の手はヤマトの手と繋がれ、ぎゅっ、と握られる。
「あぁ、やっぱ太一の指と空の指って似てるよな。」
刹那、かぁっ、と頭に血が上るのが自分でもわかった。怒りなのか哀しみなのか分からない感情が体の中で暴れてざわめく。がたん、と椅子を鳴らして太一は立ち上がった。その繋がれた手の温もりが、自身の手を包み込むような大きい手が、絡まる角張った指が酷く脳裏に焼き付く。震える声を飲み込んで太一はヤマトから目を逸らした。
「それは、…そんなの、空に失礼だろ…。」
何とか喉を震わせてやっと出てきた言葉は、自分で言ったくせに酷く太一に突き刺さる。「太一?」と首を傾げるヤマトに歪な笑みを見せて、太一はゆっくりとその手を解いた。
「……おれ空の好みとかわかんねぇよ、ミミちゃんやヒカリとかに聞いた方がいいって。」
それ以上はもうヤマトの顔も見れなかった。逃げるようにカバンを持ってトレーを返す。後ろでヤマトが名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、今はこの表情を、震える手を、心を見られたくなかった。「この後バイトだから」と嘘を吐いて、全てを振り切るように店を飛び出す。
もう今日は家に帰ろうと駆け足で駅へ向かっていると、ざぁ、と波の音が頭の中で反響した。ゆっくりと周りの音をかき消していく水の音に、太一は頭を抱え近くの壁に手をつく。さっきまでの喧騒が嘘のように静かになり、 ただ大荒れの波が岩にぶつかり弾けるような、低く恐ろしい音が頭を埋め尽くす。
「………な、に………これ…ッ…!」
じわりと額に汗が滲む。そのままずるずると壁にもたれ掛かりながらしゃがみ込んだ。どんどん大きくなる波の音が心を乱し、何とも言えぬ恐怖と不安に心が掻き立てられる。ジジッと視界が揺らぐ。はっと太一が顔をあげれば、そこに見えるのは黒と白だけのはっきりした世界。今だ頭の中で鳴り続ける波の音に合わさるように、荒波が自分の体を包み込む。「ひッ…!」と思わず目を瞑るが、波に飲まれる感覚も息苦しさもない。ゆっくりと太一が目を開ければ、そこは先程と変わらぬ街の風景で。それでも波の音は今だ聴覚の全てを埋めつくし、視界はまるでチャンネルが切り替わるかのように点滅する。
(これは、夢?現実?、どっちだッ…!)
ぽたぽたと落ちる汗がコンクリートにシミを作る。聴覚と視覚が合致しない気持ち悪さに太一は手で口を覆う。ゆっくりと瞼が重くなっていくのを感じた。その視界の先にヤマトを捉えた瞬間、まるでテレビが切れるようにプツンと太一の視界は黒く染まり、意識を手放した。
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