【ヤマ太♀】decrescend
懐かしい夢を見ていた気がする。
ヤマトは視界に入る無機質な天井を見つめながら、そんなことを考えた。ゆっくりと起き上がって、ふらつき気持ち悪い頭を押さえる。随分と懐かしい夢だった。確か自分たちが大学生の時だったから、10年ほど前だろうか。まだ上手く回らない頭で思い出に深けながら重い腰を上げた。広めのソファには1人分の体温が染み付いて気持ちが悪かった。
電気を付けていない部屋は暗い。太陽は沈みかけ、空は赤から青へ変わっていく途中だった。机の上に無造作に置かれた空のペットボトルと小さな袋を手に取り、ゴミ箱へ捨てる。ケトルに水を入れてスイッチを押したあと、今日の晩飯は何にしようかと冷蔵庫を開ける。今日はもう何かを作る気力はない。適当に取り出してレンジに突っ込む。ケトルが再度カチリと音を鳴らすまで、ヤマトはキッチンにもたれかかって蹲っていた。
今日は彼女の命日だった。
なんてことない、ありきたりな死に方だった。ドラマではもう何回も見たような、そんな死に方で。だからこそ、ヤマトはその現実を受け入れることができなかった。なんでこいつが、こんなフィクション作品みたいな、涙を誘うだけの中身のない作品みたいな、そんな死に方をしなくちゃいけないのかと。行き場のない苛立ちに気が付いて、彼女は優しく抱き締めてくれた。その温もりに、ヤマトは悔しくて悔しくて仕方がなかった。
カチリ、ケトルが音を鳴らしてヤマトの意識を戻した。ヤマトは忌まわしそうにケトルを睨みつけながら立ち上がる。珈琲を入れていると次はレンジが音を鳴らした。皿を取りだし机に並べて無言で食べ進める。ふと、何を思ったのかヤマトは振り返った。いつ閉め忘れたのか、楽器の置いてあるあの部屋の扉が開いている。ヤマトは箸を置いて立ち上がった。
彼女が死んだあの日以来、ヤマトはこのピアノにも、この部屋にさえ足を踏み入れることはなかった。彼女の忘れられない香りと思い出が染み付いていて離れないから。ヤマトは震える手でホコリ被ったアップライトピアノに触れた。ざらりとした感覚が、ヤマトの指に伝わる。初めてだな、とヤマトは思った。彼女がピアノに興味を示したあの日以来、彼女は毎日のようにここに座ってピアノに触れていた。掃除はこまめにするもんだ、という彼女の言葉により、週に一度、お互いの休日が被った日に大掃除をしていた。「案外キレイ好きなんだな」とヤマトが言えば、「一人暮らしの時にサボってたら母さんにこっぴどく叱られたんだ」と返された。ヤマトはゆっくりとアップライトピアノの重い蓋を開ける。むわりと広がる古臭い匂いに、ヤマトの瞼がかぁ、と熱を持った気がした。
アップライトピアノの透き通るような黒が、あの日の喪服姿の自分を思い出させてしまう。
鍵盤を覆う真紅の布が、何度も噎せては自身の手に吐き出していた彼女の血と被ってしまう。
規則的に並べられた白の鍵盤が、あの日小さくなってしまった彼女の遺骨を彷彿とさせてしまう。
このピアノの存在自体が、彼女の姿と思い出ばかりを描いてしまうのだ。
ヤマトは震える手で真紅の布を外して床へと落とす。椅子を引いてホコリを払うと、あの日と同じようにギシリと音を立てて座った。足が余るな、なんて思ってたら、この椅子の高さは彼女のかと思い出して再度立ち上がった。錆びて動きが重い金属部分をカチャカチャと鳴らしてほんの少し高さをあげる。上に置いてあったしわくしゃの楽譜を手に取り並べる。もう、あの時のようにめくってくれる人はいないけれど、大丈夫だろうとヤマトは鍵盤に指を置いた。
案外覚えているもんだな、とあの日と同じようなことを思ってしまう。
耳が、彼女の奏でる音を覚えていた。
目が、彼女の滑らかな指の動きを覚えていた。
それを思い出すようにヤマトは指を動かした。もう楽譜を見なくても感覚が覚えている。分からないから弾いてくれと何度もせがまれたことを思い出して、はっ、と息を吐く。あの頃は、もう戻れないなんて、ましてや戻りたいと思う大切な時間になるだなんて思ってなかったのに。
気が付けば演奏は終わっていた。それでもあの時感じた感情は何一つとして湧き上がってこない。ヤマトはピアノにごんっ、と額を押し付け項垂れた。
明日になれば、帰ってくると思っていた。
何気ない顔で玄関の扉を開けて、「ごめんな、遅くなったよ」って。その言葉をずっと待っていた。彼女が亡くなったあの日からずっとだ。
彼女はいつも日が沈む前に帰ってきていた。「子どもみたいだ」と笑えば、「帰ってこなかったら必死で探すくせに」と笑われた。
夕焼けを見る度にそれを思い出す。もうそろそろ帰ってくるのではないかと思って玄関を見てしまう。そんな日々を繰り返して、もう何年経ったのだろうか。
この部屋には窓がないから、夕焼けどころか光すら入ってこない。ヤマトは震えた。ぐずぐずになった胸を押さえつけ唸った。
彼女が帰ってくる夕方はもう来ないのだと、初めて思った。
「はっ……ぅ、あぁ…!」
喉から押し出される嗚咽を吐き出すようにヤマトは口を開いた。瞼が火傷しそうなほど熱を放ち視界が歪んだ。ぼたぼた落ちていく涙が鍵盤を濡らし、隙間へと流れ吸い込まれていく。視界の片隅で揺れる銀色の指輪の片方は、もう誰の指にもはめられていないのだと思い出した。
「っ、たいちぃ…っ!」
ヤマトは、あの日以来初めて泣いた。
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