【ヤマ太♀】decrescend
それは、何でもないただの日常だった。
ヤマトが珈琲を啜りながらテレビのリモコンをいじっていると、ピンポン、と聞き慣れた軽やかな音色が部屋に響いた。はて、とヤマトは首をかしげながら珈琲とリモコンを机の上に置く。今日の来客など頭になかった。何か荷物でも頼んだだろうかと考えながら扉を開けると、そこに居たのは見慣れた女性だった。
「太一、どうしたんだ?」
「へへっ、サプライズ訪問!」
そう言って彼女──太一は笑うと、手に持った紙の箱をヤマトへ押し付けた。何を買ってきたんだ?と聞こうと顔をあげれば、太一はするりとヤマトの横を通り抜け、サンダルを脱いでぺたぺたと廊下を歩いている。本当に自由なやつだとヤマトは苦笑しながら玄関の扉を閉めると、横にならないよう慎重に紙の箱を持ってリビングへと向かった。
「太一、これは?」
「あ、それね、ケーキ。ここ来る途中で食べたくなったから買ってきちゃった。」
なるほどな、とヤマトが箱を机に置く頃には、太一は自分の荷物をソファに乱暴に置いてキッチンへと立っていた。「ジュースちょーだい」と言って冷蔵庫を開けて物色している。「ヤマトはー?」と声が聞こえたから、「紅茶がいい」と答えた。
「えぇ~、お湯沸かすのめんどくさい…」
「いいよ俺がやるから。皿とかフォークとか準備してろよ。」
「はーい」
そう返事して太一は戸棚を開ける。もう数え切れないほどこの家に通っている太一には、自分用のグラスと食器があった。洗面所に行けば歯ブラシとコップがあるし、お泊まり用の服だって何枚かある。手慣れた手つきで食器を並べて特等席に座る。箱を開けて「おいしそー!」と思わず声を上げた。
「何選んだんだ?」
「フルーツタルトとチョコケーキ」
太一はそう答えてフルーツタルトの方を自身の皿に移した。それでもちらちらとチョコケーキの方にも目を向けているのに気付いてヤマトは苦笑する。どちらか選べずに買ってきたのだろう。ヤマトが「あとでチョコケーキの方も分けてやるよ」と言ったら、太一は嬉しそうに笑った。沸騰した湯をマグカップに注いで紅茶のパックを突っ込む。透明な湯に色が交わっていくのを眺めながらヤマトも席に着いた。
太一は食べるのが早い。もちろん味わって食べてはいるが、その一口が大きいのだ。これでもかと口を開けて頬張る。だからよく口の周りにクリームやらなんやらつけるのだ。今日もまたその口の周りにタルトの欠片をつけている。ヤマトが「ついてるぞ」と言って指で拭ってやれば、「ありがと」と軽い礼が返ってきた。甘いチョコケーキを苦味のある紅茶で流し込んでいると、ふと、太一がフォークを口に含んだままじーっとどこかを見つめていた。ヤマトが太一の視線を追いながら振り向けば、そこに見えるのは真っ黒なアップライトピアノで。
「その部屋……ピアノ…?」
「あぁ、楽器とか置いてる部屋だ。」
「ピアノ持ってたんだ。高そう。」
「親戚の家にあった古いピアノを頂いたんだ。40年ぐらい前の年季ものだぞ。」
ヤマトの説明に「へぇ~…」と気の抜けた声を上げながら太一はアップライトピアノを見つめていた。ヤマトはそんな太一の姿に仕方ないな、と笑みをこぼす。太一がアップライトピアノを見つめるその瞳が何を表しているかなんてもう分かりきっている。何かを知りたい、やってみたいという好奇心の目だ。ヤマトは立ち上がると、不思議そうに名前を呼んだ太一を無視してピアノの前まで行く。椅子を引いてカチャカチャと金具を調節しながら座席の高さを合わせると、太一に向かって手招きをした。
「太一、弾いてみるか?」
ヤマトのその言葉に、太一はきょとんと瞬きをしたが、言葉の意味を飲み込むと「いいのか!?」と目を輝かせた。ヤマトが頷けば、太一は軽い足取りで近寄ってくる。太一がちょこんと椅子に座ったのを見て、ヤマトは重い蓋を開けて鍵盤を覆った真紅のカバーを外した。そこに並ぶ白と黒の鍵盤に太一は思わず「おぉ…!」と声をもらす。「弾いていいぞ。」と声をかければ「えぇ、おれ、ピアノちゃんと弾いたことないもん。」と困ったように眉を下げた。
「緊張しなくていい。ここにいるのはお前と俺だけで、聴くのもお前と俺だけだ。」
そう言ってヤマトはぽん、と軽く人差し指で白の鍵盤を叩く。ヤマトが太一へと目線を送れば、太一は恐る恐る鍵盤を人差し指で叩いた。ぽん、高いシの音が部屋に響く。
「ドレミファソラシドのシだ。」
「そうだな。」
「なんかシってさぁ、物足りないよな。」
「どうしてだ?」
「ドレミファソラシドって順番に弾いたらさ、ドの手前だから。あと一音!てならない?」
太一のその純粋な言葉に、ヤマトはそうだなあ、と口に手を当てた。その仕草に太一は「あ、」と心の中で小さくもらす。口に手を当てるその仕草は、ヤマトが何かを考えている時の癖だ。自分の言葉でなにか思うところがあったのかなと、太一は黙ってヤマトの言葉を待った。短い時間が過ぎた後、ヤマトは口に当てた手を下ろして鍵盤に指を並べる。親指をシの位置に置いて8つの音を流れるように弾いた。その奏でられた音に、太一はあれ?と首を傾げる。
「なんでシの音から始めたんだ?」
「…太一、シの音で始まりシの音で終わったが物足りなく聞こえたか?」
ヤマトが質問を質問で返せば、太一は首を横に振った。
「物足りなくなかった。ドレミファソラシドよりも明るい感じがした。音が変わったのか?」
「違うぞ。」
ヤマトはもう一度同じ音を弾く。
「調が変わったんだ。ドから始まるものはハ長調、さっき俺が弾いたのはロ長調だ。」
「へぇ~ちゃんと名前があるんだ。おれ、ドから始まるものしか知らなかったや。」
そう言って先程のヤマトの指を真似しようとおぼつかない手で鍵盤を叩く太一の姿に、ヤマトは微笑んだ。ふと、太一が顔をあげれば、アップライトピアノの上に紙の束が積んであることに気が付く。「触ってもいい?」とヤマトを見れば、頷いて紙の束を取ってくれた。
「これなに?楽譜?いっぱい書き込んであるな。手書きのもある。」
「音楽室とかに置いてあった楽譜を印刷したりして集めてたからな。手書きのは俺が書いたやつだ。」
「ヤマトが作ったの?」
「ピアノソロで曲を作りたいと思ってな。まあ俺たちはバンドだったからどこかで発表することはなかったけど。」
太一はパラパラと紙をめくりながらじっくりと眺めていた。特に手書きの楽譜は穴が空くんじゃないかと思うほどじぃ、と見つめている。何だかヤマトは恥ずかしくなって太一から楽譜を取ろうと手を伸ばしたが、「ダメ!」と逃げられてしまった。
「太一、返せよ。」
「ダメだ!まだ見てるんだよおれは。」
「お前楽譜読めないだろ?」
「ゔっ…」
痛いところを突かれて太一は顔を顰めた。手元にある楽譜に目を落としたあと、ヤマトに差し出すと「じゃあヤマトが弾いて!」と勢いよく声に出した。その言葉に、次はヤマトがたじろいだ。正直、ここ最近は鍵盤に触れていないし、楽譜だって自分で作ったとはいえ覚えているわけじゃない。「綺麗には弾けないぞ?」と答えたが「おれより弾けるからだいじょーぶ」と返されてしまった。手書きの楽譜をヤマトの胸に押し付けながら弾いてと駄々をこねる太一に、ヤマトはため息をつくと「弾けなかったらやめるからな」と言って楽譜を受け取った。「やったー!」と太一は嬉しそうに笑うと、跳ねるように椅子から降りた。
ヤマトは楽譜をアップライトピアノの楽譜立てに並べて椅子の高さを調節する。椅子に浅く腰かければギシリと音が鳴った。何度かペダルを踏んで感覚を確認しながら指を置く。太一に「俺がめくってって言ったら楽譜をめくってくれ」と伝え、すぅ、と息を吸うと、音符を目で追いながら指を動かし始めた。最初は久しぶりの感覚に指が緊張したが、だんだんと慣れてきてスムーズに動かせるようになった。やはり自分が作った曲だ、自分の指に馴染んで運びやすい。自分の好きなメロディーとコードを並べただけだが、そのおかげで次に何の音が来るのか予想出来てしまう。案外弾けるもんだな、なんて頭の中で思いながら楽譜を目で追った。時折隣から「すげー…」「あ、今のすき」なんて声が聞こえるから笑ってしまう。「めくってくれ」と頼む度に慌てて楽譜をめくる太一の仕草が可愛くて、演奏が終わったらキスしてやろうだなんて考えてしまった。
そんなことを思っているうちに、あっという間に楽譜は最後の音を示し、それに合わせてヤマトは指を止めた。ゆっくりと鍵盤から手を離して膝に乗せると、ふー、と息を吐き出す。「案外指が覚えてるもんだな」なんて呟きながら自身の手を見つめていると、突然横からドンッ!と勢いよく太一が抱きついてきた。ヤマトは倒れる体に力を入れて何とか右足で体を支えた。
「太一!危ないぞ!」
「すっっげーーーじゃん!!!めっちゃキレイだった!!!」
やべーやべーと繰り返しながら太一はきゃっきゃとはしゃぐ。ヤマトの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でながら抱きついてくる姿にヤマトはほんのり頬を赤くしながら「髪が乱れるからやめろ!」と太一を引き離した。太一はそれでも抑えきれない感動を身体中から放ち、楽譜を手に取ってじっくりと眺める。ヤマトは乱れた髪を手でときながらそんな太一の様子を見つめた。太一は満足そうに頷くとヤマトの方へ振り向く。その時見せた期待と希望に満ち溢れた表情に、あぁ好きだなぁ、なんて思ってしまう。
「ヤマト!おれ、この曲弾けるようになりたい!」
太一はその言葉に、ヤマトは「はぁ?!」と素っ頓狂な声を上げてしまった。
「え、お前、ピアノ弾いたことないんだろ?それ正直言って初心者向けじゃないぞ?」
ヤマトが呆れたように言えば、太一はバカにするなよ!と頬を膨らませた。
「おれは今は初心者かもしれないけど、弾き続けたら初心者なんかじゃなくなるだろ?」
そう言って太一はパチリと星が飛びそうなウインクをした。ヤマトは呆気に取られて固まるが、そういやこいつはいつも唐突なやつだったなと思い出し、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「ってことでヤマト!おれ明日から毎日お前ん家でピアノ弾くから!空けとけよ!」
「おいおい、お前俺ん家に住むつもりかよ。」
それじゃあまるで同棲じゃないか、そう言おうとしてヤマトが顔をあげれば、太一はヤマトから目を逸らして顔を真っ赤にしていた。その反応に次はヤマトが顔を赤くし、「ま、マジ…?」と呟く。太一は拗ねた子どものように口を尖らせ「なんだよ…」とこぼした。
「いや……はぁ~…お前、今それ言うかよ…」
「なんだよっ!前にお前が言ったんじゃん!同棲しよーって!」
「確かに言ったけど、断られたとばかり思って…。」
「『すぐには無理』って言ったんだ!母さんに許可取らないといけないし、引越しだってあるだろ?……夏休み入ってからじゃないとと思ったんだ。」
じゃああの言葉は拒否ではなかったのか。「紛らわしい奴だな」と呟けば「ちゃんと受け取れないお前が悪いっ!」と返されてしまった。あれからずっと、太一は俺との同棲について考えてたのか、そう思うとヤマトは上がる口角が抑えきれない。手で口元を隠しながら幸せを噛み締めた。そんなヤマトの様子に気が付いたのか、太一はチッ、と舌打ちをして「気持ち悪い顔すんなっ!」と罵った。ふんっ!と鼻を鳴らして顔を背ける太一にヤマトは笑うと、そのまま立ち上がり太一の頬に手を添える。「ぁ、」と小さな声が聞こえたがそれを無視して口付けた。柔らかな唇を甘噛みして貪り付きながら、そういえばキスしてやろうと思っていたんだと思い出す。舌先で唇を舐めるが、いやだと身をよじられてしまった。仕方ないな、とヤマトは目を細めるとちゅっ、と音を立てて唇を離す。それにつられて太一も瞑っていた目をゆっくりと開くと、ヤマトを睨みつけた。
「……いきなりちゅーするなよ。」
「したくなったんだよ。」
そう言ってヤマトは太一を抱き締めた。太一は慌てて楽譜をピアノの上に置く。恐る恐る太一がヤマトの背に手を回したのを感じて、ヤマトは鎖骨にキスを落とした。「んっ…」と横から声が聞こえたから、「あんまり可愛い声出すと我慢できなくなるぞ。」と呟いた。
「……やっぱ安易に同棲なんかするんじゃなかったかな。」
「そんなつれないこと言うなよ。」
そう言ってヤマトはまた顔を上げると、太一に口付ける。太一はゆっくりとヤマトの首へ腕を回すと、くしゃりとヤマトの金色の髪を優しくつかみながらヤマトの舌を受け入れた。
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