【光太】本宮祭迷子
「見て、光子郎。リンゴ飴。」
「美味しそうですね。」
「……一緒に食わねぇ?」
「いいですよ。」
「へへ、やりぃ!」
頬をほんの少し赤く染め、嬉しそうに笑った太一はぱたぱたと草履を鳴らして屋台へと駆け出した。袖がひらひらと舞って、赤い提灯から照らされた光と混ざる蜜柑色の着物が淡く見えた。
〇
「光子郎、京都遊びに行こうぜ。」
その一言が全ての始まりだった。
6月の初め、じめじめとした梅雨が到来し気持ちも自然とどよんとしてしまう時期。何となく目的もなしに恋人の──太一の家へと遊びに来てはパソコンをかたかたといじっていた光子郎に、太一は突然そう切り出した。
「……京都、また唐突ですね。」
「へへ、テレビでさ、7月の初めに祭りがあるってやっててさ。光子郎と行きてーなぁって。」
すすすっ、と太一は光子郎の傍に擦り寄る。躊躇いがちに光子郎の手に自身の手を重ねて指を絡めてきた。
あぁ、甘えてるなぁ。
光子郎は、上がりそうになる口角に必死に力を込めた。何かを頼む時や甘えたい時は、こうして太一から擦り寄り指を絡ませてくるのだ。光子郎もそれがわかっているから、パソコンをいじる手を止めてその手を握った。
「貴方と共にならどこへでも。」
「へへ、やったぜ。」
嬉しそうに笑う太一に微笑みかけ、光子郎は頬にキスをした。くすぐったそうに笑う彼の姿が愛おしくてもう一度顔を寄せれば「家族いるから、だめ。」とやんわり断られてしまった。
「どこ泊まりたいとか、何したいとか、具体的には決まってるんですか?」
「んーん、それは二人で考えよっかなって。」
そう言うと太一は光子郎から離れ、机の横に置いてあった袋からガサガサと音を立てて雑誌を取りだした。見覚えのあるそれは旅行雑誌で『京都』と大きな文字がある。光子郎はその間にネットワークの新しいページを開き、太一の言っていた祭りの名前を入力した。
「えへへ、楽しみだな。」
「僕もです。」
〇
祭りのある伏見稲荷大社の近く、伏見稲荷駅を出てすぐの着物レンタル店で二人は着物に着替える。太一は柿色の市松模様を、光子郎は若紫色のシンプルな着物を選んだ。袖をヒラヒラとさせながら太一は楽しそうだ。光子郎がお腹を締める弱い圧迫感に慣れずに紐をいじっていると、それじゃあはだけちゃうぞと笑われてしまった。
お店を出れば夏特有のむわりとした夕暮れの暑さがまとわりついてじとりと額に汗が滲む。ふと、指にちょんちょんと何かが当たった。されるがままにしていれば太一の小指が光子郎の小指に絡む。光子郎が微笑みながら太一を見れば、太一もまた微笑み返して前を向いた。
「さ、行こっか。」
「はい。」
ぱたぱたとサンダルを鳴らして伏見稲荷大社を目指す道を歩く。がやがやと人の波が騒がしげに蠢く。はぐれないように太一が肩を寄せれば、答えるように光子郎は絡める小指の力を強めた。香ばしい香りに誘われて太一はきょろきょろと忙しなく目線を向ける。美味しそうだと呟いて時折立ち止まれば、光子郎は苦笑して「食べますか?」と声をかけた。その度に太一は嬉しそうに笑うと「一緒に食べよーな!」と屋台へと駆けていく。
屋台の温かい黄色みのライトから、どんどん視界が闇と朱に染まっていく。道に並ぶように吊るされた提灯に照らされる太一を見て、夕焼けみたいだななんて光子郎は思った。
紅がその存在を主張する楼門を潜り行灯に誘われるように中へと入った。楼門から本殿へとゆっくりと歩く。横を見れば美しい絵が描かれた行灯、頭上には仄暗い朱色を放つ提灯が続いてた。ほぉ、と隣からため息が聞こえる。ちらっと横を見ればさまざまな景色に瞳を輝かせる太一の姿が映り、可愛いな、なんて思ってしまった。
「……すっげーなぁ、光子郎。」
「えぇ、とても綺麗ですね…。」
凄く神秘的な場所だと思った。自分の語彙力じゃ表しきれないや、と太一は頭の隅で思う。人の波に流されながらその目に朱色を映していた。
ふと、視界に入ったのは、真紅色のシンプルな浴衣に包まれた小さな少女。道の隅を楽しそうに歩く彼女たちは、林檎飴を口にしながらけたけたと笑っている。これだけ騒がしい人混みの中、その甲高い笑い声だけが耳にこびりつく。何故か太一は目を離すことが出来なくて、歩む足を無意識に止めて見つめてしまった。
「…っ、あ、すみません。」
どん、と体が揺らぐ感覚に遠のいていた意識が戻される。肩にぶつかった青年も無言でぺこりと謝罪のお辞儀をすると何事も無かったかのように去っていった。もう一度少女たちのいたところを見れば、そこには何も無い。
「……なぁ光子郎…さっきあそこに…………光子郎…?」
はっ、とそこで太一は気がついた。光子郎がいない。その手にあったはずの温もりが、小指に絡めていたはずの感触が今は何も無い。さぁ、と太一の全身から血の気が引いた。
「ッ、光子郎ッ!!どこだよ!…ッ光子郎!!」
ぱたぱたとサンダルを鳴らし人混みをかき分けながら太一は何度も叫んだ。一度携帯を開いたがこんな時に限って充電が切れている。最悪だと小さく舌打ちをして境内を探し回ったが見つからない。楼門を抜けて屋台の並ぶ道へと飛び出す。はっ、はっ、と呼吸が上がっていた。頭を落ち着かせようと人混みのない道の端に移りその場にしゃがんだ。さっきまで美しいだなんて言っていた朱色の提灯が、今は暗闇の中に溶け込むようで怖かった。
もしかしたら光子郎も太一がいなくなったことに気が付いてホテルに戻ってるかもしれないな。呼吸を落ち着かせて少しだけ熱の抜けた頭でそんなことを考えた。ホテルの名前と住所はわかる。ただここからの行き方は分からない。近くに交番はあっただろうかと太一は頭を抱えた。
ぱちゃん、
水の弾く音が聞こえた。太一はその音の方へと目を向ける。自分のしゃがんだすぐ隣にあるのは小さなバケツ。そこには一匹の赤い金魚が泳いでいた。小さいバケツに入ってるからだろうか、金魚が窮屈そうに見えた。
そんな金魚を何となしにぼーっと見つめていると、水面に覗き込むような少女が映る。はっ、と太一が顔をあげれば、小学生であろう幼い女の子が座り込み、太一と同じようにバケツの金魚を眺めていた。太一はぽかんと口を開けてその少女を見つめる。その視線に気がついたのか、少女もまた顔を上げると太一を見つめてくすくすと笑った。
「お兄ちゃんにも見えるんだね。」
「え、は、何が?」
「金魚さん可愛いね。」
そう言って少女は笑う。気がつけば同じ浴衣を着た女の子たちが四人、わらわらと太一を囲むように集まっては同じようにくすくすと笑っていた。
「お兄ちゃん、どこから来たの?」
「えっと、東京。」
「すごいね。」
「遠いところだね。」
「君たちはどこの子なんだ?」
「ここのね、近くなの。」
「うんと近くなの。」
知らないものを知りたがる、そんな好奇心旺盛な面を見せながら、きゃっきゃと太一の周りにわらわらと群がる子どもに太一は苦笑する。しばらく話に付き合ってあげれば、この子達がこの周辺のことに詳しいと分かった。
「なぁなぁ、オレ、一緒に来ていた子とはぐれちゃって。師団街道ってとこにあるホテルに行きたいんだ。もし良かったら道を教えてくれないかな。」
光子郎の話によれば、ここからあまり遠くなく、伏見稲荷駅の近くだと聞いた。少女は口々に「知ってるよー」と声を上げ、太一の手を握る。子どもの弱い力に誘われるように、太一は四人の少女と歩き始めた。
〇
けたけたと楽しそうに前を歩く少女たちを見つめながら太一は歩いていた。少女達は時折興味のある屋台を見つけてはからんころんと下駄を鳴らして駆け寄る。不思議だったのは彼女たちはお金を払う素振りはない。しかし屋台の店員は何も言わない。不思議に思ったけれど、きっとこの辺の見知った子どもだから気にしないのだろうと、何の疑いもなく太一は流してしまった。「食べないの?」と林檎飴を差し出してくれたが、何だか自分まで貰うのは気が引けてやんわりと断った。
林檎飴を食べ、金魚を見つけて笑い、水風船をぱすぱすと鳴らして、お面を見てはあれがいいこれがいいと笑う少女たちを太一はぼーっと見つめる。多少の寄り道は仕方ないと、だってこの子達はとても幼いのだからと、太一は特に気にとめなかった。
気にとめなかったから、ずぅっと同じ道を繰り返し通っていることに太一は気が付かなかった。
道の端に並ぶ同じ提灯が、ひたすら終わりの無い道を示していた。「まだつかないの?」と何度か聞きはしたがその度に「あともうちょっと。」と返された。何だか人が少なくなってきた気がする。すっかり夜となりもう遅い時間になったのかもしれない。これ以上幼い子どもを歩き回すわけにはいかないと太一は口を開いた。
「ねえねえ、もう遅いしおれは自分でホテルまで戻るから、君たちは帰りなよ。親が心配するぞ。」
太一がそう言えば少女たちは「やだー」と声を上げる。太一は困ったなぁ、と眉を下げつつももうおれも帰らなきゃだからさ、と声をかけた。
「じゃあ最後に一個だけ!一個だけ行きたいとこあるの!」
「行きたいとこ?」
「うん!行きたいとこ!行こうよ!きれいなんだよ!」
「しんぴてきなんだよ!」
少女たちは口々にそう言うと太一の柿色の袖をぐいぐいと軽く引っ張った。太一はひとつため息をつけば、「わかった、そこだけな。」と言って少女の手を取る。程よい冷たさが汗の滲んだ太一の手を冷やして心地よい。少女たちは嬉しそうに笑うと、駆け出していく。されるがまま、太一はその少女達へついて行った。気がつけば町の黄色みを帯びた光がなくなり、提灯の闇に溶け込みそうなほど淡い紅樺色の提灯の光だけが道を照らす。
数え切れないほどの鳥居が並んでいて、人はいない。
先程まで聞こえていた騒がしい人の波の声も、蝉の声も、近くの電車の音も、何も聞こえない。
あれ、と太一が顔を上げた途端、少女たちはくすりと笑い、石畳をとんっ、と蹴った。ふわりと体が浮かびふよふよと飛ぶ。太一はぼぉーとその姿を眺め、ただただ突っ立っていた。
「お兄ちゃん、おいで。」
くすくすと笑う声が頭の中でこだまする。
「会いたい人に会えるよ。」
会いたい人って誰だっけ。
「もう一度戻れるよ。」
いつに戻りたいんだっけ。
「ねぇ、タイチ、おいでよ。」
おいでよって、呼ばれている。
太一は先程の少女と同じようにとんっ、と地面を蹴った。ふわりと体が軽くなり、ゆっくりと浮かんでいく。少女の一人は太一の手を掴む。熱くなった体温を冷やしてくれるみたいで心地いい。周りの少女は笑っていた。
誰かに会える気がする。
いつかに戻れる気がする。
───────あ、ぐも
「……ちさッ………た………さ……ッ…」
あ、声だ。
「──────太一さんッッッ!!!」
はっ、と太一は意識を戻す。その瞬間誰かに足を掴まれた。ぐいぐいと引っ張るその強い力にパニックになった太一は駄々をこねる子どものように足をじたばた動かす。
「や、やだ、だれッ、」
「太一さんッッ!!!光子郎です!!太一さん!!!」
その声に太一は抵抗をやめて勢いよく振り返る。肩を大きく上下に動かし、息が上手く吸えないのかけほけほとむせながら光子郎が必死に両手で太一の右足首を掴んでいた。滲み出る汗が顎を伝いぽたぽたと落ちている。走ってきたのか、と太一は頭の隅でぼんやりと考えていた。
途端、ぐいっと力強く上へと引っ張られる。くすくすと未だ笑いを続ける少女たちが太一の手を掴む力を強める。先程まで心地よかったその手は、今は痛みを伴うほど酷く冷たい。その痛みに顔をしかめる太一を見て、光子郎は思いっきり太一を引っ張った。何度も何度も引っ張り、太一もまた光子郎の元へと一生懸命手を伸ばす。少女たちは太一の頬へと、首へと、腹へと、手を伸ばしては撫であげる。
「ッ、…太一さんに、触るなッ!」
光子郎はそう叫んでより一層強く引っ張れば、太一の手はするりと少女の手を滑り離れた。その瞬間太一の体は重みを取り戻し、そのまま光子郎へと覆い被さるように倒れ込む。痛みに呻きながら太一が体を起こせば、すぐ隣にまで降りてきた少女に首を撫でられ、身体を震わせた。光子郎は太一を受け止めたことにより打った背中の痛みを我慢して太一の手を取ると、思い切り駆けだす。後ろからずっと聞こえる少女たちの不気味な笑いが響いていた。聞こえないふりをして一気に階段を走り降りてホテルのある師団街道へと走り抜けた。お互い息が上がり喉が酷く痛んだが、決して足は止めなかった。
汗ばんだ光子郎の手が酷く心地いいと、太一はその時思った。
〇
「っ、………はぁ~~~……」
その後そのままホテルへ駆け込むと部屋へと飛び込みお互いを抱きしめ合うようにしてベッドへ倒れ込んだ。ぼたぼたと汗が滴り落ちていく。しばらく呼吸を整えて、光子郎は太一の髪をくしゃりと撫でて風呂へ入るよう促してやる。交替で入れば、先程寝転んで汗が滲んでしまったものとは別のベッドへと二人揃って寝転がる。体にべっとりと染み付いた汗と恐怖を洗い流し温もれば、やっと体の震えが止まった。光子郎は太一を見つめながら額にキスを落とす。太一は黙ってそれを受け入れると、光子郎の腰に手を寄せた。額を、頬を、首筋を、順番にキスを落として最後は太一の寝間着に手をかけて上げるとお腹にキスをした。太一はくすぐったそうに身を攀じる。
「んっ、………こうしろ、」
「太一さん、どこ触られたんですか?」
あ、ちょっと不機嫌そうな声。
「別に………」
「手、繋ぎましたか?」
「………うん。」
素直に答えれば、光子郎は太一の手を取り手の甲、指先、手のひらと順番にキスを落とす。もうないよ、と意味を込めて光子郎の頭を撫でてやれば、光子郎は顔を顰めた。
「太一さん、知らない人について行ったらダメでしょう?」
「…………ごめん。」
相手は自分よりも小さい子どもだぞ、と言いたくなったが、結論から言って危ない目にあったことに間違いがないのだから何も言い返せなかった。光子郎はため息をつくとぎゅう、と太一を抱きしめる。ほんのちょっぴり痛いけれど、愛おしさが勝ってしまい太一はされるがままだった。
「結構怖かったです。」
「ごめん。」
「貴方とはぐれてからずっと探し回ってて」
「うん。」
「やっと見つけたと思ったら今にも消えてしまいそうで」
「オレは消えたりしないよ。」
「……でも僕が手を伸ばさなければ太一さんはあのままどこかへ行っていたでしょう?」
否定ができない。ぐっ、と喉を鳴らして太一は口を噤んだ。あの時誰に会いたかったのか、何をしたかったのか、太一は何も思い出せない。意識がふわふわとしていてよく分からなかった。
「すごく、怖かったです。」
「………光子郎でも、怖いことってあるんだ。」
「いつだって怖いですよ、貴方がいなくなることは。」
そう言ったっきり、光子郎は黙ってしまった。
太一はもう一度光子郎の頭を撫でて、顔を埋める。ホテルのシャンプーと、ほんの少しだけ香る光子郎の香りに、太一は体の力が抜けていくのがわかった。
あの時、誰に会いたかったのか、いつに戻りたかったのか思い出せない。
それでも今こうして一緒にいられるのならそれでいいやと、太一は目を瞑りながら思った。
くすくすと頭に響くその声を、今は無視して。
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