老年期モラトリアム
小さな港に面したカフェのテラスで初老の男が二人、朝食を摂っている。
片方はメガネをかけた柔和そうな細身の男で、終始喋り通しだが、その間笑顔が絶えることがない。もう一人は対照的にがっしりとした筋肉質な体型で、顔も厳しい。相手の男の話しに相槌を打ちつつ、ブリオッシュにかじりついている。
朝の港町は活気にあふれ、多くの人々が行き交っている。遠くからはパトカーのサイレンが響いてくるが、カフェで朝食を摂る人々はあまり気にする様子もなく、コーヒーを味わい、職場や学校へ向かっている。二人の男には急いで向かう場所もなく、ゆったりと朝の時間を過ごしているようだ。
「ねぇねぇ、ジーノ。ジーノはこれからの人生をどう過ごしたいと思ってる?」
「特に今はまだ考えてねぇな。」
ジーノと呼ばれた男はぶっきらぼうに答えた。言い方は怒っているように聞こえるが、これがこの男の普段の話し方だった。それを心得ている相手の男はにこにこと上機嫌で話を続ける。
「え〜。ジーノ何も考えてないんだ?僕はもうやりたい事や行きたい場所がたくさん思い浮かんで夜も眠れないよ。」
「お前は昨日、いびきかいてさっさと寝てたろうが。ジャンニ、お前のいびきで目が覚めるこっちの身にもなれ。」
「そうだったかな?まぁ、細かい事はいいじゃない。」
ジャンニは一呼吸置くために、たっぷりの砂糖を入れたエスプレッソを一口含むと自分の将来設計を話し始めた。
「やっぱさ、せっかく自由にできる時間ができたんだからリゾート地とかでのんびり過ごしてみたいよねぇ。南の方の島とかさ。青い海に白い雲。あとは可愛い女の子たちがいれば最高だね。」
「南か。向こうじゃこのブリオッシュもコルネットになるな。」
「だねぇ。で、海辺でこのカフェみたいなお店を出すとか、ちっちゃなホテルのオーナーとかやってみたいね。」
ジャンニの夢にジーノは鼻を鳴らして笑う。
「大層な夢だが、リゾート地で女と遊ぶにも店を開くにもよ、金が必要だろ。今の俺らの手元にゃ昼飯食うぐらいの金しかねぇぞ。」
「そうなんだよねぇ。何をするにもやっぱお金が必要なんだよね。」
ジャンニは大きくため息をついてカップを両手で包み込んだ。お金、お金と呟きながら考え込んでいる。
ジーノは二つ目のブリオッシュにかじりついた。甘いあんずジャムの味が口に広がり、ジーノは満足気な笑みを広げる。甘い物を食べている時だけ厳しい顔も和らいでいる。
「ジーノはもしまた働くとしたら何がしたい?」
「俺か?そうだな…。」
ジーノは若い頃から働いても一つの職場で長続きした試しがなかった。建設現場の親方に弟子入りした時は同じ作業場の仲間と喧嘩になってクビ。飲食店の給仕としてフロアに出ても客と口論になりクビになった。どの仕事を思い出しても楽しい思い出は大してなかったジーノは渋面を作る。
「俺はやっぱり、前の仕事が一番性に合うな。」
「あー、分かるよ。僕もそうなんだよね。やっぱあの仕事は僕らの天職だったよね。」
「さすがにこの歳になると大仕事は少々きついが、もう一回やってみるってのもありだな。」
「お金必要だからね。楽なやつをやってみようか。」
「“老人ホーム”にはまだ行きたくねぇからな。しくじんなよ、ジャンニ。」
「ジーノが計画通りに動いてくれたら失敗することはないはずだよ。」
「前々回の事を言ってんのか?いつまでもぐちぐち言うなよ。大体、お前の計画にも…。」
「待って、ジーノ。ちょっと静かに。」
そう言ってジーノは口に人差し指をやり、耳を澄ませた。さっきまで遠かったサイレンが近くで聞こえる。
「どうやらまずそうだね。」
ジャンニは残りのコーヒーを飲み干すと立ち上がり、コートの襟を立てた。ジーノも帽子を被り直して席を立つ。テラスから出た二人は店の横の路地を歩き出した。
「ジーノ、僕らの気ままなモラトリアム期間ももう終わっちゃうみたいだね。この辺の警察は仕事が早いな。捕まっちゃいそう。なぁんてね。」
「バカな事言ってんじゃねぇよ。逃げるぞ。」
「だよね〜。逃げるのも結構疲れるけど“老人ホーム”にはまだ戻りたくないもんね。」
「苦労して出たからな。さて、次はどこに逃げるんだ?」
「ん〜、そうだねぇ…。あ、ならアンナの所に行こうよ。僕、アンナとお近付きになりたいんだよね。アンナってほんといい女だよ。」
「アンナ?やめとけ、やめとけ。あいつがいい女なのは体と外面だけだ。」
「え、何?ジーノとアンナってそういう関係だったの?ずーるーいー!いつそうなったのさ。」
「あー、あれだよ。お前がマリアの尻追っかけてだったの頃の話だ。」
いくつかの路地を歩いている内に二人の後ろからは複数の人間が走ってくる足音がする。
「おっと、そろそろ本格的にまずそうだね。」
「おぅ。なら次の曲がり角で走るぞ。」
「集合場所はどうしよっか?」
「アンナの所でいいだろ。逃げ込むにはちょうどいい。あいつは警察にも顔が効くしな。」
「了解〜。じゃ、3日後にね。」
「捕まんじゃねぇぞ。」
「ありがと、テゾーロ。」
路地の曲がり角まで来ると二人は左右に素早く分かれるとそれぞれ走り始めた。後ろから追いかけてきた警察官たちは二人の足音を聞き、慌てて角を曲がったがそこにはもう誰の姿もなかった。
一人の警察官が無線で上司に連絡を入れている。
「課長、申し訳ありません。取り逃がしたようです。周辺に人員の手配をお願いします。」
無線からは下品な言葉と了解の旨が聞こえた。
連絡を入れた警察官は肩を落としてため息を一つついたが、再び目に力を入れて班のメンバーに声をかけた。
「みんな聞いてくれ。あの脱獄犯たちはまだ遠くに行っていないはずだ。絶対に見つけ出すぞ!」
喝を入れられた班員たちは左右に分かれてそれぞれ二人の後を追い始めた。
町の中心に狭めるようにパトカーのサイレンの音があちこちに響いている。
青い空に白い建物が美しく映える町のカフェで初老の男が二人、朝食を摂っている。
ジーノはカプチーノとコルネットを二つ。ジャンニはたっぷりの砂糖を入れたエスプレッソを手に、足を組んで眼下に広がる海を眺めている。
「いやぁ、いい所だね。ここに来られて良かった。めでたく僕らのモラトリアム期間も延長されたよ。」
「そうだな。南も悪くねぇ。」
ジーノはコルネットを嬉しそうに食べている。
「さて、これからどうしよっか?誰かの家の留守にお邪魔してもいいし、どっかの企業に詐欺を仕掛けてもいいし。ジーノはどうしたい?」
「俺か?俺はいつも通りだ。お前が計画して俺が動く。そうだろ、アミーコ。」
「そっかそっか。ならねぇ、とりあえず今日は…。」
ジャンニはこれからの計画を楽しそうにいつもの笑顔を浮かべて話している。ジーノは時折口を挟む以外はコルネットを食べるのに忙しい。
二人のモラトリアム期間はまだしばらく終わりそうにない。
お題:モラトリアム
片方はメガネをかけた柔和そうな細身の男で、終始喋り通しだが、その間笑顔が絶えることがない。もう一人は対照的にがっしりとした筋肉質な体型で、顔も厳しい。相手の男の話しに相槌を打ちつつ、ブリオッシュにかじりついている。
朝の港町は活気にあふれ、多くの人々が行き交っている。遠くからはパトカーのサイレンが響いてくるが、カフェで朝食を摂る人々はあまり気にする様子もなく、コーヒーを味わい、職場や学校へ向かっている。二人の男には急いで向かう場所もなく、ゆったりと朝の時間を過ごしているようだ。
「ねぇねぇ、ジーノ。ジーノはこれからの人生をどう過ごしたいと思ってる?」
「特に今はまだ考えてねぇな。」
ジーノと呼ばれた男はぶっきらぼうに答えた。言い方は怒っているように聞こえるが、これがこの男の普段の話し方だった。それを心得ている相手の男はにこにこと上機嫌で話を続ける。
「え〜。ジーノ何も考えてないんだ?僕はもうやりたい事や行きたい場所がたくさん思い浮かんで夜も眠れないよ。」
「お前は昨日、いびきかいてさっさと寝てたろうが。ジャンニ、お前のいびきで目が覚めるこっちの身にもなれ。」
「そうだったかな?まぁ、細かい事はいいじゃない。」
ジャンニは一呼吸置くために、たっぷりの砂糖を入れたエスプレッソを一口含むと自分の将来設計を話し始めた。
「やっぱさ、せっかく自由にできる時間ができたんだからリゾート地とかでのんびり過ごしてみたいよねぇ。南の方の島とかさ。青い海に白い雲。あとは可愛い女の子たちがいれば最高だね。」
「南か。向こうじゃこのブリオッシュもコルネットになるな。」
「だねぇ。で、海辺でこのカフェみたいなお店を出すとか、ちっちゃなホテルのオーナーとかやってみたいね。」
ジャンニの夢にジーノは鼻を鳴らして笑う。
「大層な夢だが、リゾート地で女と遊ぶにも店を開くにもよ、金が必要だろ。今の俺らの手元にゃ昼飯食うぐらいの金しかねぇぞ。」
「そうなんだよねぇ。何をするにもやっぱお金が必要なんだよね。」
ジャンニは大きくため息をついてカップを両手で包み込んだ。お金、お金と呟きながら考え込んでいる。
ジーノは二つ目のブリオッシュにかじりついた。甘いあんずジャムの味が口に広がり、ジーノは満足気な笑みを広げる。甘い物を食べている時だけ厳しい顔も和らいでいる。
「ジーノはもしまた働くとしたら何がしたい?」
「俺か?そうだな…。」
ジーノは若い頃から働いても一つの職場で長続きした試しがなかった。建設現場の親方に弟子入りした時は同じ作業場の仲間と喧嘩になってクビ。飲食店の給仕としてフロアに出ても客と口論になりクビになった。どの仕事を思い出しても楽しい思い出は大してなかったジーノは渋面を作る。
「俺はやっぱり、前の仕事が一番性に合うな。」
「あー、分かるよ。僕もそうなんだよね。やっぱあの仕事は僕らの天職だったよね。」
「さすがにこの歳になると大仕事は少々きついが、もう一回やってみるってのもありだな。」
「お金必要だからね。楽なやつをやってみようか。」
「“老人ホーム”にはまだ行きたくねぇからな。しくじんなよ、ジャンニ。」
「ジーノが計画通りに動いてくれたら失敗することはないはずだよ。」
「前々回の事を言ってんのか?いつまでもぐちぐち言うなよ。大体、お前の計画にも…。」
「待って、ジーノ。ちょっと静かに。」
そう言ってジーノは口に人差し指をやり、耳を澄ませた。さっきまで遠かったサイレンが近くで聞こえる。
「どうやらまずそうだね。」
ジャンニは残りのコーヒーを飲み干すと立ち上がり、コートの襟を立てた。ジーノも帽子を被り直して席を立つ。テラスから出た二人は店の横の路地を歩き出した。
「ジーノ、僕らの気ままなモラトリアム期間ももう終わっちゃうみたいだね。この辺の警察は仕事が早いな。捕まっちゃいそう。なぁんてね。」
「バカな事言ってんじゃねぇよ。逃げるぞ。」
「だよね〜。逃げるのも結構疲れるけど“老人ホーム”にはまだ戻りたくないもんね。」
「苦労して出たからな。さて、次はどこに逃げるんだ?」
「ん〜、そうだねぇ…。あ、ならアンナの所に行こうよ。僕、アンナとお近付きになりたいんだよね。アンナってほんといい女だよ。」
「アンナ?やめとけ、やめとけ。あいつがいい女なのは体と外面だけだ。」
「え、何?ジーノとアンナってそういう関係だったの?ずーるーいー!いつそうなったのさ。」
「あー、あれだよ。お前がマリアの尻追っかけてだったの頃の話だ。」
いくつかの路地を歩いている内に二人の後ろからは複数の人間が走ってくる足音がする。
「おっと、そろそろ本格的にまずそうだね。」
「おぅ。なら次の曲がり角で走るぞ。」
「集合場所はどうしよっか?」
「アンナの所でいいだろ。逃げ込むにはちょうどいい。あいつは警察にも顔が効くしな。」
「了解〜。じゃ、3日後にね。」
「捕まんじゃねぇぞ。」
「ありがと、テゾーロ。」
路地の曲がり角まで来ると二人は左右に素早く分かれるとそれぞれ走り始めた。後ろから追いかけてきた警察官たちは二人の足音を聞き、慌てて角を曲がったがそこにはもう誰の姿もなかった。
一人の警察官が無線で上司に連絡を入れている。
「課長、申し訳ありません。取り逃がしたようです。周辺に人員の手配をお願いします。」
無線からは下品な言葉と了解の旨が聞こえた。
連絡を入れた警察官は肩を落としてため息を一つついたが、再び目に力を入れて班のメンバーに声をかけた。
「みんな聞いてくれ。あの脱獄犯たちはまだ遠くに行っていないはずだ。絶対に見つけ出すぞ!」
喝を入れられた班員たちは左右に分かれてそれぞれ二人の後を追い始めた。
町の中心に狭めるようにパトカーのサイレンの音があちこちに響いている。
青い空に白い建物が美しく映える町のカフェで初老の男が二人、朝食を摂っている。
ジーノはカプチーノとコルネットを二つ。ジャンニはたっぷりの砂糖を入れたエスプレッソを手に、足を組んで眼下に広がる海を眺めている。
「いやぁ、いい所だね。ここに来られて良かった。めでたく僕らのモラトリアム期間も延長されたよ。」
「そうだな。南も悪くねぇ。」
ジーノはコルネットを嬉しそうに食べている。
「さて、これからどうしよっか?誰かの家の留守にお邪魔してもいいし、どっかの企業に詐欺を仕掛けてもいいし。ジーノはどうしたい?」
「俺か?俺はいつも通りだ。お前が計画して俺が動く。そうだろ、アミーコ。」
「そっかそっか。ならねぇ、とりあえず今日は…。」
ジャンニはこれからの計画を楽しそうにいつもの笑顔を浮かべて話している。ジーノは時折口を挟む以外はコルネットを食べるのに忙しい。
二人のモラトリアム期間はまだしばらく終わりそうにない。
お題:モラトリアム
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