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スノードーム

半透明のガラスを通して午後の日差しが柔らかく温室を満たしている。
心地よい温度に保たれた室内には数十種類にも及ぶ花々が植えられ、美しく整えられた木々の梢には鳥やリスなどの小動物が遊ぶ姿が垣間見える。

キィシャは一人、温室に設えられたガゼボの椅子に腰掛け、机に片方の肘を気怠げについて本を読んでいる。
規則正しくページをめくる音が続いていたが、キィシャは読んでいる本からふと顔を上げ、温室の入口へと目線を移した。
階段を駆け上がるタッタッという軽い足音が近付き、すぐにその足音の主がキィシャの見つめる入口から顔を覗かせた。

「あぁ、キィシャ。ここにいたのか。」
「やぁ、ノト。」
「やぁ、じゃないだろ。午後のクラスをさぼって、イヨガ先生、怒るのを通り越して呆れてたぞ。」

額の汗をタオルで拭いつつ、ノトはキィシャの向かいに腰を下ろした。

「クラスに出る価値を感じなかっただけさ。」

そう言うとキィシャは再び視線を本へ落とし、ページをめくるため指を動かした。
パラリとページがめくれる音を聞き、ノトは一つ大きな溜息を吐いてテーブルに置かれたティーセットへ手を伸ばし、ティーポットから紅茶をカップへと注いだ。
紅茶はだいぶ前に淹れられたものらしく、湯気はあまり立っていない。
喉が渇いていたノトはマナー的に褒められたことではないと思いつつもぐっと一息で飲み干し、椅子の背にもたれかかった。

「価値を感じなかったって…。だけど、乗馬は俺たちの生活に必要なものだろ。何かと乗る機会も多いわけだしさ。」
「遠乗りに狩り、そのくらいじゃないか。」
「俺たちの社交の場には乗馬が欠かせないってことだよ。お前の親も俺の親もパーティーや狐狩りなんかで他の貴族連中との繋がりを強めてるんだからさ。そうやって会社を運営してるんだろ。」
「車が街を走り、電子で情報をやり取りするこの時代にね。本当に馬鹿げたことだよ。」

目で文章を追いつつ、キィシャはさらに続けて言う。

「だから僕は乗馬のクラスには出ないんだ。先生には申し訳ないけど、もっと有意義なことに時間を使いたいんだ。」
「あんまりさぼりすぎると進級できないぞ。」
「基礎程度の乗馬は子供の頃にやってるんだ。テストで高得点は取れなくても進級できるくらいには乗れるさ。」
「あっそ。で、その有意義な時間とやらに何の本を読んでるんだ。」

ノトはテーブルに積まれた数冊の本を眺め、その中から一冊を抜き取ってパラパラとページをめくった。

「『ドーム内における哺乳類の進化』ねぇ。キィシャは生物学者にでもなりたいのか?」
「生物の進化に関する研究は僕の目的を果たす足がかりの一つに過ぎないよ。僕はね、このドームの外に出たいんだ。」
「ドームの外にねぇ。そんなことできるのかよ?そもそも、外に出ることは禁じられてるんだぜ。」

キィシャは読んでいた本を閉じ、聖書の一節を諳んじた。

「汝、外界の光を浴びることなかれ。」
「そう、それ。聖書にもあるけどさ、ドームの外はもう人間が住める環境じゃないんだろ。大昔の人たちがやらかした開発とか戦争のせいで太陽の光を浴びたり、空気を吸っただけで死ぬんだって。子供でも知ってることだ。」
「でもそれは何百年とこの中で言い伝えられてきただけで、実際には誰も外の世界を見たことがないじゃないか。本当に光を浴びただけで死んでしまうのか。もしかしたら人間がいない間に外の世界は大戦前のきれいな環境に戻っているかもしれないだろ。」
「うーん。確かに実際に外がどうなっているかは分からないけど、安全だって保証もないし。ドームの中は確実に安全だし不便なんて感じたことないから、俺は外に行きたいなんて思ったこともないな。」

ノトは特別敬虔な信者というわけではなかったが、多くの人と同じようにドーム内で厚く信仰されている宗教に従って生きているため、キィシャの外の世界に行きたいという強い望みを理解することができなかった。

「キィシャはさ、ドームの中での生活に何か不満があって、それで外の世界に行きたいなんてことを言ってるのか?」
「不満?生きていくことについての不満は特にないよ。僕らの家は裕福で、食べることやお金に困るなんてことも一生ないだろうし。」
「だよな。じゃあ、何で外に行ってみたいんだよ。」

キィシャはしばらくの間、黙して温室の花々や鳥を見つめている。ノトはキィシャの言葉を待つ間、電気ポットで温められていたお湯で紅茶を淹れ直し、キィシャのカップにも注いでやった。短時間で雑に淹れたお茶のため味も香りも良くはなかったが、ノトはあまり気にならなかった。

「ノトはこの温室の庭についてどう思う?」
「どうって別に。その辺にある公園なんかと変わらないと思うけど。まぁ、今は冬だから公園に花は咲いてないけど。」

キィシャは自分のカップに注がれたお茶を一口飲んで軽く眉をひそめた後、カップを置いて言った。

「この花も、鳥も、一度は滅んでしまった生物だと言われている。大戦の後、ドームに逃げ延びた人々がDNAから再生させた生物なんだよ。」
「あぁ、生物史のクラスで習ったな。」
「それにこの空。これもドームの内側に投影された映像に過ぎないし、太陽だって人工太陽だ。みんな作り物か偽物でしかないし、誰も本物を知らないんだよ。」
「作り物ねぇ。」

ノトはいまいち、作り物という言葉に実感が湧かなかった。花々は瑞々しく咲き、鳥たちは軽やかに木々の間を飛び交い、さえずり合っている。空が投影された映像だということは知識としてあるが、生まれた時からそれが空であったため偽物だと感じたことはなかった。

「作り物だよ。このドームの中は広くて、そして狭い箱庭なんだよ。この中で生きている人間も本当は作り物なんじゃないかと僕は時々思うんだ。」
「俺たちが作り物って、そんなわけないだろ。」
「作り物じゃないって実感するために外の世界へ行き、本物の光を浴びて、本物の空気を吸いたいんだ。外の世界で息ができて初めて、僕は本当に生きているんだって実感できるんじゃないかと思うんだよ。」

そう言ってキィシャは手元にある本の表紙のタイトルを指でなぞった。

「だから外の世界に人間が行けるように、体を適応させられる薬とか機械とか、そういう物を僕は作りたいんだ。」
「うーん。言いたいことは分かったけど、俺には理解するのが難しいみたいだ。俺には空も花も本物だとしか思えないからなぁ。」

ノトがすまなさそうに言うと、キィシャは笑いながら首を振った。

「いいよ。誰にでも理解される話じゃない。むしろ僕みたいに考える方が変わってるんだ。」
「絶対に教会とか熱心な信者の前で言うなよ。教会の懲罰室に入れられるぞ。」
「分かってるよ。忠告をありがとう、ノト。」
「あぁ。キィシャ、そろそろ寮に戻ろう。」

温室の外にはいつの間にか重く厚い灰色の雲が広がり、日差しが遮られていた。
今にも天候が崩れそうな空を見上げ、ノトは立ち上がり、キィシャにも帰寮を促した。
二人が机の上の本やティーセットを片付け、階段を下って外に出ると空には雪がちらつき始めた。

「あ、雪だ。」
「これも人工的に作り出されたものだけどね。」
「おい。初雪なのに情緒のないこと言うなよ。」

二人は笑い合いながら寮への道を急いだ。










自分のラボで研究者は一人、透明で巨大なドームの中を観察し、記録を取っていた。
忙しくデータを記入していると、奥の扉から彼の幼い息子が目をこすりながら入ってきた。

「やぁ、目が覚めたかい。」
「うん。おはよう、お父さん。」
「せっかくお前が来てくれたのに、お父さん研究が忙しくてすまないね。」
「いいよ。お母さんがお父さんは研究馬鹿だから仕方がないっていつも言ってるもん。」

妻に苦労をかけ、幼い息子には寂しい思いをさせているのを知っている研究者は情けなさそうに眉を下げた。

「ごめんな。次に休みが取れた時はちゃんと家に帰って、ちゃんとお父さんをするからな。」
「別にいいのに。」

息子はあくびをしつつ、父親の側へ行き、ドームの中を覗き込んだ。

「お父さん、これ何?」
「これか。この中には古代の人々の暮らしを再現していてな。本物の古代人のDNAから作って小型化した人間が中で暮らしているんだ。植物とか動物なんかも小型化して再現している。」
「へぇ、でも人間なんて全然見えないじゃん。」
「本当に小さいからな。顕微鏡を通してじゃないと見えないんだよ。」

息子はぺたりとドームに張り付いて中を見つめている。

「この中の人たちは僕たちのこと知ってるの?」
「いや、知らないよ。中の人たちは外の世界は大戦で滅び、生き物が住めない世界になっていると思っているからね。」
「変なのー。僕たち生きてるのに。」
「我々は大戦後、汚染された環境でも生きられるように変化した種族だからね。このドームの中の人たちは変化できなかった人たちなんだ。だからこの中で生まれた彼らは外の世界では生きられないが、昔の環境を人工的に作ったこのドームの中でなら生きられると思っているんだよ。」
「ふーん。やっぱり変なのー。」

そう言う息子の頭に手をやって、研究者は微笑んだ。

「でもね、お父さんはこの中の人たちのことが本当に好きなんだよ。今はもうない昔の、本物の自然の世界で生きているんだからね。」
「お父さんもこの中に行ってみたいの?」
「それが叶ったら嬉しいけど、難しいんじゃないかな。」
「行かないでよ。」

不安そうに顔を歪め始めた息子を見て研究者は慌てたように言う。

「行かない。行かないよ。お父さんはずっとお前とお母さんと一緒にいるさ。」

それでもなお不安そうに自分の足にくっつく息子に、研究者はドームを指差してみせた。

「あ、ほら、見てごらん。ドームに雪が降り始めたよ。」
「わあ、本当だ!雪が降ってる!すっごく小さいけど雪だ!」

ようやく笑顔を取り戻した息子を見て、研究者はほっと安堵の息を吐いた。





お題:スノードーム
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