鯰骨
ぐらり―と世界が歪んだ。
視界が一気に暗くなったと思ったらじんわりと明るくなり、その感覚に気持ち悪さを覚えて頭を抱え俯いてしまう。
立ち上がったばかりの脚は伸びず、中腰のまま現状維持。
前に進みたくとも、思うように進まない。
―立ち眩みだ。
まずい、このまま力が入らないと倒れてしまう…。
どうにか体勢を持ち直そうとしたいが身体が思うように動かない。
そうしているうちに身体はみるみると傾き…。
「あっと、危ない」
前倒しになりかけた俺の身体が支えられ、自分以外の力の働きによって転倒せずに済んだ。
目線の先には、きっと支えがなかったら顔面と衝突してたであろう畳の姿。
俺を前から支えてくれたのが誰なのかは、視界の端にちらつく黒髪で把握する。
「…すまない兄弟」
「兄弟じゃなくてさ…」
「…鯰尾」
そう言い直すと少し不満気だった顔がいつもの優しい表情に変わる。
兄弟呼びから名前呼びにしようと二人で約束したのは覚えている。
なのだが、どうにもどこか照れ臭く感じ、いまいち慣れないのだ。
―俺だって本当はもっと自然に鯰尾の名を呼びたいと思っている。
それなのに気持ちに反して体がなかなか言うことを聞かないのだ。
「また目眩?」
「立ち眩みだ…」
「どっちにしろ最近多すぎだよね」
「そんなに頻繁に起こっていたのか…?」
「え…まさか自覚してないの?」
「そんなこと、いちいち数えていない」
身体を支えてくれている鯰尾の厚意に甘えて、その肩に掴まらせてもらう。
「すまないが、少しだけこうさせてくれ…」
調子を取り戻すまで支えが欲しい…。
けれどわざわざ鯰尾に頼んで掴まるのには他にも理由がある。
それは安心感を求める故の行動。
何故だか、鯰尾に触れていると安心する俺がいるのだ。
そして鯰尾はこの頼みを払い除けるようなことはしないと俺は知っている。
俺の兄弟は優しい。
それは世話好きな性格だからなのか、それとも相手が俺だからなのか…。
「少しだけ…でいいの?」
クスッとからかうような笑いと声。
鯰尾は意地悪だ。
そんなこと言われた俺がその言葉に対して「ああ」とは答えられないのを知っていて、そんな質問をするのだ。
そうだ、触れていていいのならいつまでも触れていたい。
ちょっと前までは考えもしなかった自分の変わり様に、恐らく自分自身が一番驚いている。
俺の中の何もかもを鯰尾が変えてしまった。
自分が自分でないような気持ちにさせたのは目の前の彼だ。
そのことに気付いたときには、もう俺は鯰尾から目が離せなくなっていた…。
「…しばらくこうさせて」
言葉を修正する唇に、なにか温かいものが触れる。
それが鯰尾の指だと気づくのにはそう時間は掛からなかった。
「ねぇ骨喰」
ゆっくりのその指先で俺の唇をなぞる。
「ご飯…ちゃんと食べなきゃダメだよ」
「食べている」
「嘘。ただでさえいつも量少なめにしてもらっているのに、さらに残してるよ」
別に隠していたわけでもないのに、ずばりと言われてしまうと、どこか後ろめたい気持ちが湧いてくる。
「ちゃんと食べてよ…お願いだから…」
…目の前の恋人は意地悪だ。
そんな顔をされたら俺が断れないのを知っていて、そんな顔をするのだ。
―鯰尾が俺を変えてしまった。
そして変わってしまった俺に「好きだ」と言わせたのだ。
そうだ、だから俺が鯰尾のことを好きになってしまったのは全部鯰尾のせいなのだ。
だから明日からはきちんと食事を摂ろう、などと考えてしまうのも鯰尾のせいなのだ。