セフィーロの過去妄想系
その女性は、村に来るたびに遠くの街で買ったお菓子を子どもに配ることで有名だった。めったに食べられない甘いそれを求めて、子どもたちは彼女の姿を認めると、すぐさま彼女に駆けよる。彼女の周りに群がる子供たち。それは、彼女がこの村にやってくる日の、お決まり光景だった。しかし、私はその頃から甘いものは好きではなかった。その日、いつもは遠巻きに眺めるだけのその光景に近づいて行ったのは、「ぼくもぼくも」と手を伸ばす子供たちが、とてもきれいに咲いた花を踏み潰しているのに気が付いたからだ。彼らの足元にしゃがみこんで、土で汚れたその花の、折れた茎に手を伸ばした時、「あら、珍しい」と声をかけられた。しかし、私は彼女が差しだすお菓子に興味はない。だから、彼女の陶器のようにするりとした手をただじっと見つめていた。記憶が定まらないうちに母が亡くなってしまっていたので、年上の女性に手を差しだされること自体が久しぶりだった。白い指先は、ずっと年上の、それでも、当時、まだ少年でしかなかった兄の指先よりも大人びていて、しかし、それよりも細くて小さかった。
「本当にかわいげのない子」
彼女が小さくつぶやくのが聞こえて目を上げた。彼女はお菓子を差し出す手を引き下げ、気持ち悪いものを見るような目で私を見ていた。その視線が、お前なんか早くここから消えてしまえと言っている。まただ。いつも大人はこうやって私を見る。しかし、何度同じような視線に晒されてもそれに慣れることはなかった。心がぺしゃんこに潰れるような気がして、私は慌てて彼女に背を向けた。手を伸ばしたはずの花をどこかに落としてしまったことに気が付いたのは、「お気に入りの場所」にたどりついた時のことだった。
村の隣の小さな森で木の上に登り、昼寝をしたり、小さな精獣と遊んだりするのが好きだった。ここなら、誰も話しかけてこないし、誰も嫌な視線を向けて来ない。しかし、遠くから聞こえてくる子どもたちの歓声に、あの声の中にいない自分のことがとても情けなく思うことがあるのもまた事実だった。
めったに笑わず、言葉の出るのも遅かったので、母は私を育てるのにとても苦労したという。笑わないから、好きな食べ物も好きな遊びも分からない。少しずつ言葉を発するようになっても、その数が増えるのには時間がかかった。「いつか急に話し出すわよ」と周囲に励まされるうちに母は亡くなった。まだ死というものが理解できず、母の亡骸の隣でただぼんやりとしている私を見て、やはり、大人たちは気持ちの悪いものを見るような目をした。
「またここにいたのか」
声が聞こえて木の下を見下ろすと、見慣れた黒い髪が風に揺れていた。彼は木の下で、その美しい紫色の目を優しく細め、じっと私を見上げていた。昔から、兄は私のことをすぐに見つけるのに、私が見つけた「お気に入り」の場所に立ち入ろうとはしない。けれど、その外側で私が出て来るのを待っている視線はとても心地よく、私はその暖かさを楽しむために、「お気に入り」の中にぐずぐずと留り続けていることすらあった。裏返して言えば、私は、外で待っている彼の気配なしには、「お気に入り」の場所、他の誰にも気づかれず、傷つけられないその場所の外に出ることができなかったのかもしれない。
その日も、彼の「夕飯の時間だから帰っておいで」という次の言葉が発せられるまで、私はじっとその瞳を見つめたまま、木を降りようとはしなかった。
幼い頃、兄は実に根気よく、話しかけてもいまいち反応がはっきりしない私の面倒を見てくれた。あの森の存在も、森に生きる生き物の名前も、彼がすべて教えてくれたのだ。自分よりも先に生まれた彼は私の知らないものをいつも既に知っていて、彼の知識の先に私の世界が広がって行った。
あの村を出て、この国最高位の導師の下で教えを乞うことになったのも、すべては彼が仕組んだことだった。私は彼の作った道の上をただ歩いただけだった。
しかし、その道の先にある答えは時に私の器量を超えた。
「お前なんか、兄がいなければただの人だろう」。常に上を目指して研鑽を重ねる魔導師たちは、兄と共に導師クレフの教えを受ける私を、そのような目で見ていた。最高の弟子だと崇められるほどに実力を伸ばして行く兄の隣で、私は魔法の基礎を覚えるのでいっぱいいっぱいだった。兄のついでに城に来たくせに、あの導師クレフの教えを受けられるなんて。その不相応を責める眼差しに、居心地をなくすような思いがした数は数えきれない。城の中庭に見つけた、昼寝に最適な木の上は、お気に入りの場所なのか都合の良い逃げ先なのか、もはやよく分からなかった。
そうして木の上に寝転がるたびに、雲の数を数えた。セフィーロの青い空は柱の心の色を映す。導師の下に来たばかりの頃は、柱など天の上の存在で、自分とはかかわりのない人だと思っていたから、雲の数が多い日は、今日は柱の心に何か懸案があるのだろうかと、他人事のようにぼんやり考えていた。それは、瞳の色がセフィーロの空の色に似ているとたびたび指摘されて来たからだったのかもしれない。嬉しさも悲しみも弱さも、うまく表現できずに、「気難しい」と言われ続けて来た私にとって、みなのまえに心をさらけ出せるほどの「強さ」は、畏怖の対象である以上に、得体が知れなかった。
だから、他の魔導師たちが、もっと強くなりたいと心を鍛える姿に、しかし、「強く」なって何になるのだろうなどと疑問を抱いた。そんなことを思っているから、呪文を覚え間違えては導師に叱られ、それに言い返しては、言い争いになる。
一度、城を出たい、と兄に零したことがあった。しかし、彼はそれを許さなかった。彼は、お前が迷っているのだとすれば、それがお前の強さなのだと言った。
「お前は、そうやって自分の心に嘘をつけないところが、昔から変わらない」
その時の彼の言葉が本当だったのならば、例えば私がセフィーロの柱になったとして、セフィーロの空はずっと雨や曇りが続くのだろう。兄も、エメロード姫も、導師クレフも、私の周りにいる「意志の強い人」は、嘘を嘘と思わせないほどに強い。みな、セフィーロの平穏を願っている。しかし、その願いが重なれば重なるほど、彼らの中に悲しみが折り重なって行く。だが、その悲しみを振り切ることができるくらい、彼らは強い。現に、今日も、セフィーロの空はこんなにも青い。
兄がエメロード姫を見るその眼差しの裏にある悲しみのことを思うたびに、いっそ今までに覚えた魔法も剣術もすべて忘れてしまいたいと思う。兄と共に村を出て、修業を重ねて、たどり着いた先に悲劇しかないのなら、そんな意志の強さも、心の強さも欲しくない。いっそ、彼が、すべてを投げ出し、すべてを忘れ、ここから逃げ出せるほど弱かったなら。「最悪の結末」から逃れることからできるのに。
今、いっそすべてを捨て去りたいと思う自分の弱さが、私をこの国の外に連れ出そうとしている。私は、この国の外に、何か、ここにはない答えがあるのではないかと、僅かな希望にすがろうとしている。いつも兄の導く先に新しい世界を見ていた私が初めて兄の知らない世界に飛び出す、それが、彼の選んだ選択から目を逸らすためだとは、どこまでも私は弱い。この国を飛び出して、そこで何か新しい答えを見つけたとして、彼の選んだ道は変わらないと知っているのに、それでも、私にはその結末と悲しみを引き受ける強さなどありはしないのだ。
「本当にかわいげのない子」
彼女が小さくつぶやくのが聞こえて目を上げた。彼女はお菓子を差し出す手を引き下げ、気持ち悪いものを見るような目で私を見ていた。その視線が、お前なんか早くここから消えてしまえと言っている。まただ。いつも大人はこうやって私を見る。しかし、何度同じような視線に晒されてもそれに慣れることはなかった。心がぺしゃんこに潰れるような気がして、私は慌てて彼女に背を向けた。手を伸ばしたはずの花をどこかに落としてしまったことに気が付いたのは、「お気に入りの場所」にたどりついた時のことだった。
村の隣の小さな森で木の上に登り、昼寝をしたり、小さな精獣と遊んだりするのが好きだった。ここなら、誰も話しかけてこないし、誰も嫌な視線を向けて来ない。しかし、遠くから聞こえてくる子どもたちの歓声に、あの声の中にいない自分のことがとても情けなく思うことがあるのもまた事実だった。
めったに笑わず、言葉の出るのも遅かったので、母は私を育てるのにとても苦労したという。笑わないから、好きな食べ物も好きな遊びも分からない。少しずつ言葉を発するようになっても、その数が増えるのには時間がかかった。「いつか急に話し出すわよ」と周囲に励まされるうちに母は亡くなった。まだ死というものが理解できず、母の亡骸の隣でただぼんやりとしている私を見て、やはり、大人たちは気持ちの悪いものを見るような目をした。
「またここにいたのか」
声が聞こえて木の下を見下ろすと、見慣れた黒い髪が風に揺れていた。彼は木の下で、その美しい紫色の目を優しく細め、じっと私を見上げていた。昔から、兄は私のことをすぐに見つけるのに、私が見つけた「お気に入り」の場所に立ち入ろうとはしない。けれど、その外側で私が出て来るのを待っている視線はとても心地よく、私はその暖かさを楽しむために、「お気に入り」の中にぐずぐずと留り続けていることすらあった。裏返して言えば、私は、外で待っている彼の気配なしには、「お気に入り」の場所、他の誰にも気づかれず、傷つけられないその場所の外に出ることができなかったのかもしれない。
その日も、彼の「夕飯の時間だから帰っておいで」という次の言葉が発せられるまで、私はじっとその瞳を見つめたまま、木を降りようとはしなかった。
幼い頃、兄は実に根気よく、話しかけてもいまいち反応がはっきりしない私の面倒を見てくれた。あの森の存在も、森に生きる生き物の名前も、彼がすべて教えてくれたのだ。自分よりも先に生まれた彼は私の知らないものをいつも既に知っていて、彼の知識の先に私の世界が広がって行った。
あの村を出て、この国最高位の導師の下で教えを乞うことになったのも、すべては彼が仕組んだことだった。私は彼の作った道の上をただ歩いただけだった。
しかし、その道の先にある答えは時に私の器量を超えた。
「お前なんか、兄がいなければただの人だろう」。常に上を目指して研鑽を重ねる魔導師たちは、兄と共に導師クレフの教えを受ける私を、そのような目で見ていた。最高の弟子だと崇められるほどに実力を伸ばして行く兄の隣で、私は魔法の基礎を覚えるのでいっぱいいっぱいだった。兄のついでに城に来たくせに、あの導師クレフの教えを受けられるなんて。その不相応を責める眼差しに、居心地をなくすような思いがした数は数えきれない。城の中庭に見つけた、昼寝に最適な木の上は、お気に入りの場所なのか都合の良い逃げ先なのか、もはやよく分からなかった。
そうして木の上に寝転がるたびに、雲の数を数えた。セフィーロの青い空は柱の心の色を映す。導師の下に来たばかりの頃は、柱など天の上の存在で、自分とはかかわりのない人だと思っていたから、雲の数が多い日は、今日は柱の心に何か懸案があるのだろうかと、他人事のようにぼんやり考えていた。それは、瞳の色がセフィーロの空の色に似ているとたびたび指摘されて来たからだったのかもしれない。嬉しさも悲しみも弱さも、うまく表現できずに、「気難しい」と言われ続けて来た私にとって、みなのまえに心をさらけ出せるほどの「強さ」は、畏怖の対象である以上に、得体が知れなかった。
だから、他の魔導師たちが、もっと強くなりたいと心を鍛える姿に、しかし、「強く」なって何になるのだろうなどと疑問を抱いた。そんなことを思っているから、呪文を覚え間違えては導師に叱られ、それに言い返しては、言い争いになる。
一度、城を出たい、と兄に零したことがあった。しかし、彼はそれを許さなかった。彼は、お前が迷っているのだとすれば、それがお前の強さなのだと言った。
「お前は、そうやって自分の心に嘘をつけないところが、昔から変わらない」
その時の彼の言葉が本当だったのならば、例えば私がセフィーロの柱になったとして、セフィーロの空はずっと雨や曇りが続くのだろう。兄も、エメロード姫も、導師クレフも、私の周りにいる「意志の強い人」は、嘘を嘘と思わせないほどに強い。みな、セフィーロの平穏を願っている。しかし、その願いが重なれば重なるほど、彼らの中に悲しみが折り重なって行く。だが、その悲しみを振り切ることができるくらい、彼らは強い。現に、今日も、セフィーロの空はこんなにも青い。
兄がエメロード姫を見るその眼差しの裏にある悲しみのことを思うたびに、いっそ今までに覚えた魔法も剣術もすべて忘れてしまいたいと思う。兄と共に村を出て、修業を重ねて、たどり着いた先に悲劇しかないのなら、そんな意志の強さも、心の強さも欲しくない。いっそ、彼が、すべてを投げ出し、すべてを忘れ、ここから逃げ出せるほど弱かったなら。「最悪の結末」から逃れることからできるのに。
今、いっそすべてを捨て去りたいと思う自分の弱さが、私をこの国の外に連れ出そうとしている。私は、この国の外に、何か、ここにはない答えがあるのではないかと、僅かな希望にすがろうとしている。いつも兄の導く先に新しい世界を見ていた私が初めて兄の知らない世界に飛び出す、それが、彼の選んだ選択から目を逸らすためだとは、どこまでも私は弱い。この国を飛び出して、そこで何か新しい答えを見つけたとして、彼の選んだ道は変わらないと知っているのに、それでも、私にはその結末と悲しみを引き受ける強さなどありはしないのだ。
1/1ページ