不穏の呼び水

 病床でも使いやすいほど軽い小型コンピュータはジェオがイーグルのために用意してくれたものだった。そして、今からこのコンピュータに読み込ませるデータもまた、ジェオがイーグルに手渡してくれたものである。
 そのデータはセフィーロへの侵攻がオートザムの評議会で承認された頃に集めたデータだった。オートザム暦でたった3年前のことなのにもう遠い昔のように感じられる。それはセフィーロでベッドから起き上がることもなく、滾々と眠り続けた時間があまりにも長かったからなのだろうか。
 イーグルはセフィーロで3年眠り続けた後、今では眠る時間も少しずつ短くなり、体を起き上がらせ、モニターを覗き込める程度に回復していた。もしかしたら、オートザムに戻ることができる日も近いのかもしれない。しかし、セフィーロで過ごした時間があまりに穏やかで、今となってはあのオートザムの暗い空の下に戻る自分を想像し難いほどだった。セフィーロの人々の心は美しく、背信や疑念と常に隣り合っていたオートザムの生活を思い出すと心が竦む。

 小型なので処理速度はどうしても遅い。データの読み込みを待ちながらイーグルはぼんやりと考えていた。あの時……オートザムからセフィーロに戻る時のランティスはどうだったのだろう。

『ランティスはずっとオートザムにとどまるつもりだと思っていた』

 そう言ったのはジェオだ。セフィーロの柱制度に疑問を持ち、彼の兄と彼が仕えた姫にもたらされようとする運命そのものに深く傷ついていたランティスが、遠くないうちにセフィーロに戻るであろうことは分かっていた。他方で、確かに彼自身もオートザムと、オートザムで出会ったイーグルやジェオに何らかの愛着を持ってくれていたのではないかと思う。旅をする中で一番長く滞在した国がオートザムだと言ったのはランティス自身だ。それを聞いた時、あのセフィーロの青い空の下で育った人が、薄汚れた空に覆われたオートザムに長く滞在しようとすることを不思議に思った。ランティス本人にそれを訊ねたこともあるが、彼は決してオートザムの空の色を悪く言うことはなかった。オートザムは曲がりなりにもイーグルが幼い頃からずっと時間を過ごしてきた故郷だから、オートザムに長く留まろうとするそうした彼の行動に「嬉しい」という感情がまったくなかったとは言えない。
 オートザムから故郷にであるセフィーロに戻る時、ランティスの中にはどのような感情があったのだろう。怖れや不安……あるいは、多少なりともオートザムでの生活に惜別の念を抱いてくれてはいたのだろうか。あの時、イーグルが式典を放り出して彼を追いかけていなかったら、ランティスはイーグルに何も言わずにオートザムを去っていたのだろうか。もしかしたら、永遠の別れになっていたかもしれないのに。
 
 ランティスのことを考えてしまうのは、読み込み中のデータがまさしく彼に関するものだからだ。すなわち、それはオートザムに滞在していた期間のランティスに関するデータおよびイーグル達がセフィーロに侵攻した際に収集した戦闘記録、および軍部の研究機関によるそれらの解析結果である。これらは全てイーグルが収集と解析を命じたものだった。
 ランティスがセフィーロへ帰ってすぐ、イーグルはランティスから聞いたセフィーロの情報を精査するとともに、ランティスが残していったデータを徹底的に「洗った」。彼の入国記録から彼がファイターテストを受けた時の戦闘記録、その時に採取した生体データに至るまですべて。監視塔から遠くに見えるだけで、長く国交も絶たれていたセフィーロという国に関する情報はあまりに乏しかった。セフィーロに柱制度があることや、意志の力なる精神エネルギーを軸とした魔法の国であることは知っていたが、気候や領土、人口といった基本的な情報も殆どなかったのだ。
 深刻な環境汚染により危機的な状況にあるオートザムにおいて、そうした国に今乗り込むことの必要性を訴えるには、侵略の成功を評議会に納得させるに足るデータが必要だった。だから、イーグルは片っ端からランティスに関する情報を解析に回したのだ。セフィーロでも重職を担い、優秀なファイターである彼からの情報と、彼自身に関するデータがセフィーロとの戦闘の上で重要になるのは明らかだった。評議会で承認を受けた後、今度はセフィーロへの侵略の方法を吟味するのにランティスの情報全てを利用した。そんなイーグルに、ジェオは何度も「本当に良いのかよ」と問うてきた。そのたびにイーグルは答えたものだ。柱を失ったセフィーロに対して他国がどのような動きに出るかは分からないが、魔法だの幻術だの、凡そ科学の範疇を超えた国をオートザムが圧倒するには、情報戦で優位に立つしかない……。
 ジェオは「そういうことじゃねえよ」という顔をしたが、イーグルは答えなかった。本当は「良く」なんてなかった。ランティスのデータをセフィーロ侵攻に利用するのはもとより、彼の精神エネルギーや戦闘力がすべて数値化され、それが更に解析ソフトによって様々な指標にコマ切れにされているのを見ると、今までに感じたことのない罪悪感と怒りが募った。彼の精神の何を数値化できるというのか。何一つ「分析」などできるわけがない。しかし、それでもイーグルはセフィーロに侵攻しなければならなかった。そう決めたのは外ならぬイーグル自身だった。NSXにデータ解析班を同行させ、セフィーロにたどり着いてから起きた戦闘も全てデータを取り、すぐにその場で解析班に手渡した。魔神、魔法、幻術……そのようなものを前にして、オートザムの「科学技術」が採取できるデータなどたかが知れている。しかし、それでも取れるだけのデータを取ったし、実際、解析されたデータは戦闘の上でとても役に立った。
 すべては自分の指示と承認のもとに行われたことであり、オートザムという国がセフィーロに侵攻する上で、それらは絶対に必要なことだったのは間違いない。

 しかし、それでも、今、改めてランティスの精神エネルギーやヒカルの魔神の戦闘力がすべて数値化されているのを見ると、胸を掻きむしりたくなるような罪悪感に襲われた。今のイーグルは彼女たちの心が数値などはるかに超えた尊さと美しさを持ち合わせていることを知っている。自分がそれを利用しようとしたことも、それでもイーグルに手を差し伸べてくれたことも。


 そうした悔恨の情にもかかわらず、今一度こうしたデータに目を通そうとするのは、30日ほど前にジェオがイーグルに耳打ちしたある情報が原因だった。
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