……っていう夢を見たんだ。3 Letters

常春のセフィーロも陽が落ちれば気温は下がる。一歩外に出ると、肌に触れる空気にひんやりとした冷たさを感じるほどだ。しかし、ランティスはその凛と澄んだ空気が嫌いではない。だから時々、用もないのに精獣でセフィーロの夜空を駆けたり、夜露に濡れた城の庭を歩いたりする。その夜もそうだった。皆が寝入る頃にふらりと外を出歩いたのに、特に理由はなかった。強いて言えば、少し寝つきが悪かったからかもしれない。目的もなく長々と散歩をして、城に戻るころにはとっくに夜は深まっていた。
最近、人に囲まれて仕事をすることが多いので、本音を言えばこの、一人きりで誰の気配も感じない夜の中をずっと散歩していたい気分だったのだが、もうそろそろ寝なければ体力が回復しない。明日の魔物討伐の予定を億劫に思い出しながら闇に包まれた廊下を自分の部屋に向かって歩いていると、いつもなら閉まっているはずの「ある部屋」の扉が薄く開いているのに気が付いた。足を止めたのはなぜだっただろう。そこから灯りが漏れていたからか、それとも中にいる人の「気」を感じ取ったからだったか。約束もしていないのに、人の気配がするその扉を叩こうとしたのは、自分から人に関わることをしないランティスにしては珍しいことだった。
軽く握った手を扉に伸ばし、しかし、その手はそのまま空を切った。手が扉に触れようとしたその瞬間に扉が内側に開いたからだ。

「珍しいな」

音もなく開いた扉の奥に、こちらに背を向けて椅子に座る小さな背中が見える。彼は手に持っていた何かを机の上にゆっくりと置いてから、くるりとランティスを振り返った。その青い瞳に深夜の来訪を驚いた様子はない。人の気配に敏い彼のこと、ランティスが部屋に近づいた時点でランティスの存在に気付いていたのだろう。

「入れ」

中途半端に手をあげたまま立ちすくむランティスに、部屋の主たるクレフはぞんざいに顎をしゃくった。言われるがままに部屋に入ると、背中の後ろで扉が静かに閉まる。
そこは高い本棚に囲まれたクレフの書斎だった。ランティスはしばしば彼の蔵書を借りたり、彼に蔵書の整理を命じられたりするので、この部屋に立ち入ること自体は珍しいことではない。しかし、こんな真夜中に訪れるのは初めてだ。この部屋は決して狭くはないのだが、本棚がぎっしりと詰め込まれているのでひどく窮屈な印象を与える。灯りの乏しい夜となるとなおさらだった。机の上の小さな読書灯は部屋の一部分しか照らし出さず、目を凝らさなければ本棚の影すら見えないほど暗い。なのに、そこに、重くて巨大な物体がいくつも並んでいる気配だけがして、昼間以上に圧迫感がある。
本棚と本棚の間に押し込められるように設置されたクレフの机の上を見ると、本や書類が所狭しと散らばっていた。机に向かっていると言うことは、クレフは何らかの作業中だったのだろう。しかし、こんな時間にここで作業をして息苦しさは感じないのだろうかと思う。
当のクレフは手を止めて、何の用だと言わんばかりにランティスをじっと見つめていた。しかし、正直なところ、特に彼に何か用があるわけではない。本当に、ただ「何となく」彼の気配が気になっただけなのだ。口数が少ないのは元々だが、ランティスは何か決まりの悪いものを感じてそのまま黙りこんでしまう。

しかし、ふと、部屋の中に微かに漂う、彼の印象にはあまりそぐわないものの香りに気付いた。

「珍しいな」

その一言で、ランティスが言わんとしていることを悟ったのだろう。クレフは「お前はいつも時機が悪いな」と微かに笑った。彼の机をよくよく見れば、積み重なった本の陰に隠れるようにして透明なグラスが置いてあり、その中には赤い液体が注がれている。それは彼が飲んでいるのはセフィーロで有名な果実酒だった。

「お前と違って私に変な酒癖はないから安心しろ」
「……」

今度こそ、返す言葉が見つからなかった。そこまで酒に弱いわけではないと思うのだが、どうやら自分は、ある一定の酒量を超えると、「変な酒癖」を発揮するらしい。……ということはイーグルを始め、ランティスと比較的親しい人物によく指摘されることである(自分自身は記憶が飛ぶので覚えていない)。元々人付き合いは悪いので、酒を共にするような間柄の人物など数えるほどしかいないのだが。
師事している相手を「親しい」と呼ぶのもおかしな話かもしれないが、ランティスが幼い頃からの付き合いであるクレフはランティスにとっては、最も共に過ごした時間の多い人物の一人である。そのため、もちろん、彼はランティスの「酒癖」を知っているし、何か迷惑をかけたこともあるらしい……が、自分はその件についてはっきり覚えていないし、そのことをわざわざ自分に教えにきたザガートは、詳細は話さず苦笑しているだけだった。

……などと思い出していると、クレフが、「妙な顔をしていないでこちらに来たらどうだ」とランティスを手招きした。

「懐かしいものを見付けた」

クレフが乱雑な机の上から取り出したのは、一冊の本だった。差し出されるままに受け取ったそれはずっしりと重く、片手では支えられない。クレフが詳細を何も言わないので、そのまま無言で表紙をめくると、それが本というよりは個別の用紙を綴じ込んだものであることに気付いた。びっしりと手書きの文字で埋められた紙が何百枚も綴じられ、「本」ともいうべき分厚さになっている。
何枚もめくらずとも、ランティスには、クレフのいう「懐かしさ」の意味がよく分かった。
紙に書きつけられているのは、魔導文字で書かれた呪文で、この紙はザガートとランティスがクレフに魔法の基礎を叩きこまれていた頃、何度も提出させられたものだ。魔導書を読んだり、書いたりするには、特殊な文字を正確に理解し、書けなければならない。特に、文字を書く際には、少しでも間違っていれば自分の身にその魔法が返って来る可能性がある。だから、彼は何度も書かせては、二人に魔導文字を徹底的にたたき込んだのだ。

こんなものがまだ残っているとは。

よく残っていたものだと、ランティスは思わずため息を漏らす。

「お前たちの字はよく似ているな」

クレフはそう言って、静かにグラスに口をつけた。
彼が指摘する通り、確かにザガートとランティスの書いた文字はよく似ていた。ザガートの字の方が几帳面で文字の大きさもそろっているが、文字の太さや点の打ち方など、基本的な筆の運び方はそっくりだ。それはきっと、ランティスがザガートの字を手本に字の書き方を覚え、習得したからなのだろうと思う。
久々にザガートの文字を見ると、セフィーロの文字を彼に教えてもらった幼い頃の記憶がつい最近のことのように思い返された。文字を指でなぞれば、筆をとり、その文字を書いた彼がすぐそこにいるような気にさえなってしまう。

「二人とも良い字を書いているだろう」

その言葉に、ランティスは僅かに驚いて彼を見た。というのも、この導師は殊、魔導文字の指導については厳しく、滅多なことでは「教え子」を誉めなかったからである。特にランティスは、そもそも文字を型どおりに書くのが好きでなく、魔導文字ではない通常の文字を用いる書類を書く時ですら、彼には何度も「もっと丁寧に書かんか」と雷を落とされてきていた。文字にまつわることでほめられるのなど、ほぼ初めてではないか。
しかし、クレフはといえば、ランティスの驚きに気付いているのか、いないのか、グラスを片手に、闇に沈んだ部屋の中をぼんやり見つめている。そこにある何かを見ているというよりは、何かをじっと考えている、あるいは、思い出しているようにも見える。
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