スカラピア・ローカス姉弟の場合

月明かりの下、がらんとひとつ音をたててダストボックスからイカの男が現れる。上質なスーツを着たその男のインク色は暗い青色で、組と抗争を繰り返すあるマフィアグループを彷彿とさせた。

「あー、待て待て。いや急に無理なのは十分わかんだが、俺ぁ敵じゃねえよ。だからそう構えんなって」
ヘラヘラと笑いながらそう語る男は、単に線が細いと片付けるには痩せすぎた男だった。その大きく削れたような頬から、天日干しと呼ばれる延命処置を経たのではないかと思われる。それは放出できるインクが大きく減り、ナワバリバトルという最上級の娯楽を棄てても尚、遺伝子に刻み込まれた闘争本能を”正しく”発散できる場を持つ者の証だった。

腰の曲がった干物男は宣言した通り敵対する様子をかけらも見せず、懐から取り出したタバコに火をつけてそのまま吸い始める。
「……なんだよ、あんた」
警戒の姿勢を崩さないまま、姉を背に守るようにローカスは男へ立ちはだかる。男は、っけ、と乾いた音と煙を口から吐き出しながら、折れ曲がった背で下から伺うようにローカスへ目を向ける。
「おお、お前さんかな? まあなんだ、誰からとは言えねえんだが、お前さんが本気で組を抜けたいってなったら助けてやれって頼まれてんのよ。あ、俺のことは″ベー″って呼んでくれや。それかスカラベって本名でもいいぞ」
「……へー、それで? こんなタイミングよく助けにきてくださったわけか? 信じられっかよ常識考えろボケ」

飄々とした青い男に、ローカスは警戒を解くことはない。ベーと名乗った男は、ごもっとも、と頷いてみせる。
「気持ちわりぃぐらいばっちりだろぉ? そこの、後ろで怪我してるご婦人をめちゃくちゃ個人的に恨んでる奴がさ、そっちの組に居るらしいんだわ。そいつがお前さん達に振った任務が今夜だっつってなァ。俺だってここまで見事に当たるとは思わなかったぜ? 気味悪ぃのはこっちだよ」
ちら、と目線を受けたスカラピアは、苦しい息を続けながら睨み返すのが精一杯だった。それをさえぎるようにローカスは姉を腕で隠したが、その様子に青い男は、け、と愉快な様子で喉を鳴らす。

「まああれだ、今日俺にお前さんらの事を頼んできたそいつはよ、例の青いマフィアのお人でよ……おっと、ちなみに俺はもう部外者なんだけどな。
そいつぁ外面だけはいい奴でよォ、そちらさんの組の人とも仲良くしてる人が多いんだな。例えばお前さんな、えー、ローカスくん?」
自分の名前を口にされ、ローカスは一瞬怯む。その動揺を逃すことなく、青い男はポケットから何かを取り出して放り投げた。不意の投擲に避ける間もなく、素早く弾いた腕に硬い痛みが伝わる。キン、と甲高い音を鳴らした地面を見てみれば、そこに転がっていたのは小瓶だった。
「……あ?」

それにローカスは見覚えがあった。それは、自分を240°変えてしまったある人物が、自分に半ば押し売りのように勧めてきた高い香水の瓶だった。

「餞別だってよ、どうせ買う金もねえだろうって。ホント面倒見良すぎて気持ち悪ぃよなァ、あの人」
「……」
「……ローカス?」
硬直したままの弟へ、スカラピアは声をかける。やがて姉へ顔を向けたローカスは、諦めたように乾いた笑いを一つ浮かべて、打ち捨てられていた小瓶を拾い上げる。

「や、ねえちゃん大丈夫だわ。このひとが頼まれたって奴、俺の友達」
「友達……」
「へ、友達……? 正気かお前……」
「……んだよ、なんであんたが驚くんだよおかしいだろ」
姉はともかく、目の前の青い男までが驚いた様子を見せたことにローカスは怪訝な顔をみせる。あ、いや、と男は誤魔化すように言ってから、咳払いを一つして、姉弟へとゆっくり歩み寄る。

「えー、まあとりあえず信じていただけたってことでェ……。俺が今世話になってる組織があるんだわ、そこに取りあえず向かおうと思う」
「待って、ねえちゃ……、後ろの女の傷がひでえんだ。どのくらいかかる?」
「距離的にゃあそこそこ遠いんだが、お前さんらの組のシマからは出とかねえとやべえだろ。中継地点にしてる隠れ家がいくつかあるんでな、とりあえずそこまで頑張ってくんねえか」

そう言ってスカラピアの前にしゃがみ込みながら、ベーという男は同意を求めるように首を傾げる。
ここまで呆然として2人の会話を眺めていた彼女だったが、ここを離れるという事実を突きつけられてか、はっとしたように顔をあげる。
「……あ」
「ねえちゃん?」
「……いや、いい。非常事態だ。なんでもない」
明らかに何か言いたげだった表情にローカスは眉をしかめる。今夜、任務に出かけるまでは理路整然としていた姉が、今となっては何もかも諦めたような顔をしているのが、つらかった。
「……言うだけ言ってくれよ、なんかあった?」
「いいんだ」
「ねえちゃん、頼むよ。無理かどうかはこいつに決めて貰えばいいじゃん」
「……」
弟に促されて、視線を揺らしていたスカラピアはその口を開く。

「……トマホークを」
「え?」
「家の鉢植えを、持っていきたい」

悲痛な表情で口に出された彼女の願いに、ローカスとベーは面食らう。
「トマホークって、え、なんで」
「おい、なんでェその……、斧なのか鉢植えなのかはっきりしてくれや、混乱する」
「ちっさいガジュマルにつけた名前だよ。その、俺が家出る時に、今までありがとうって、ねえちゃんに……」

ローカスはそこで言葉が出なくなってしまう。
いつも自信に満ち溢れた屈強な姉が。血も涙もないと思っていた理不尽の権化が。
一刻も早く動かなければ命の危ないこの状況で願ったのは、自分が数年前に贈った小さな鉢植えの回収だった。

誰もが静まり返った路地裏で、ベーは困ったように頭をかく。
「いやぁ、おすすめはできねぇなあ……自宅なんかぜってえ張られてんぜ?」
「同感だ。すまない、わかっていて、余計なことを言った」
「……俺、行ってみるわ」

ベーとスカラピアは同時に顔を向ける。その先にいるローカスの目は、その藍玉の瞳で月の光を受け止めて、強く輝いていた。
「いやァー、行ってみるってお前」
「家に追手がいるか確定したわけじゃないだろ。こっから走れば10分くらいでいける、落ち合うとこだけ決めとこうぜ。ねえちゃん、鍵貸して」

呆気に取られた様子のスカラピアは、反射的に懐を漁りながら、ふとその手を止め、見上げる。ローカスは彼女の顔が不安の色を隠せないでいるのを見て、努めて優しく笑い、手のひらを差しだす。
「大丈夫だって、逃げ足は俺の取り柄よ? やばかったらすぐ逃げっから、な? ほら」

組に育てられた恩から、ただ淡々と任務だけをこなしてきた姉は、自分の望みを口にすることは滅多になかった。今、自分にやっと打ち明けてくれたそれを、ローカスはなんとしても叶えてあげたいと思った。
弟のその決意を感じ取ってか、スカラピアも意を決した様子で、銀に光る鍵を差し出す。

「……ずっと、強くなりたいなら立ち向かえと言ってきたけれど。今日ばっかりは、……すぐに逃げると、約束して」
「はは、頑張ってみるわ」
はたから見ていたベーも、姉弟の様子にやれやれと肩をすくめて、じゃあ合流地点決めとくか、と携帯端末の操作を始めていた。

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