青赤ビートダウン

 プロポーズをするというあるユーザーの宣言に、ついに結婚か、裏切り者!、プロポーズのセリフ安価で決めようぜ、など、スレッド上は新たな餌の匂いを嗅ぎつけた鯉どもでにわかに色めき立つ。ブラムはしばらくその流れに目を滑らせながら、書きかけていたお礼文を全削除し、雰囲気のいい店の情報だけ書き込み、他の回答陣からもめいめいに意見が上がり始めたのを見届けて、ログアウトした。

 結婚とは。ある個人2人が今後生涯を共にすると誓い合う儀式のことであり、親族や友人と集まって夜通し開かれるパーティーセレモニーのことでもある。元は世代交代の早いクラゲたちが家系記録のためにわざと大がかりな儀式にしたとも、礼儀を重んじるオクトリングたちの祖先が始めたともされるが、確かなところは誰もわからない。ただ、2人の門出を祝うという大義名分のもとお祭り騒ぎができる側面がインクリングたちにも歓迎され、現在では種族年齢性別問わず広く浸透しているカップルイベントである。
 一方でそれほど大騒ぎにしたくないという個体も当然あらわれる。そういった控えめなひとびとが始めたのが、儀式として最も意味があるとされる指輪の贈答のみをおこなう、プロポーズと呼ばれる簡略儀式である。これは大掛かりな会場なども必要なく、懐に忍ばせた指輪さえあれば相手に持ち掛けられる手軽さもあって、今では結婚前提のカップルがサプライズとして行うことも少なくない。また、テレビドラマや少女漫画で描き出されるその感動的な演出は世代問わず人気であり、若年層には結婚以上に一種の憧れでもって語られるイベントであった。

 ノートパソコンを閉じてしまったブラムは、やや経ってから首をもたげ、脇のキャビネットの引き出し一つを丸ごと引き抜く。その奥に押し込められた手のひらサイズの小箱をとりあげ、くる、と回しながら眺める。
 レモラが自分たちの未来を語ってくれた数日後、ひとり街中を歩いていて見かけたそれは、思い返すのも恥ずかしい、普段の自分におおよそ似つかわしくない高揚感とともに買ってしまったものだった。いつか、何年か先でもいい、タイミングのいい時に贈ってみようと、買ってすぐしまい込んでいたが、流産した彼女への接し方すらおぼつかない今となってはそれ以前の問題である。少し重みを感じるベロアの布張りの小箱は、ひとりの愚か者を見下ろしたまま固く口を閉ざしていた。

 ブラムとレモラは、結婚だとかプロポーズだとか、形の残る儀式は一切していない。形に残すことで相手を束縛してしまうのを互いに恐れていた以上、当然でもあった。ただし以前偶発的に、写真だけ撮ったことがあった、フォトウェディングという形である。
 ある組織群の大規模な会合が開かれると情報のあったホテルに、レモラと婚前旅行のカップルを装って下調べに行ったときだった。ロビーに到着するやいなや突然クラッカーで出迎えられ、創業以来何組か目のお客様だとかで半ば強引に過剰なサービスを受けたのである。以前のチマキ、先日の水入りのコップのように、ブラムはこういったクラゲからのやや押し売りじみた善意にさらされることが不思議と多いたちだった。この件はその中でも究極的なケースと言っていい。潜入とはなんだったのか、という状況に当初は頭が痛くなったが、結果的に言うとこれのお陰でVIPエリアに堂々と足を踏み入れることもできたので一概に不運というわけでもなかった。
 そのサービスメニューの中に、フォトウェディング体験と言うものがあったのである。二人の最も幸せな瞬間を、腕の確かなプロが鮮やかに演出します!と銘打つそれに、ミーハーなカップルの演技など必要ないほど、レモラの目は輝いていた。その目を見れば、断る理由はなかった。調査上まったく足しにならない行動を二つ返事で快諾したブラムにレモラはひどく驚いていたが、いくつもドレスの試着を重ねて、ブラムのスーツ姿にエンペラまで真っ赤にさせ、レンタルした指輪をはめ、カメラマンに指示されるまま向かい合ってみれば、彼女の笑顔は化粧も要らないほどであった。あの写真は今どこにあるのだろう、気恥ずかしくてレモラの荷物に紛れ込ませたきりだったが、彼女が保管してくれているのだろうか。

 レモラがそういう、ひとりの女性としての幸せのテンプレートに強い憧れを持っているのは知っている。少女漫画が好きなのも、夜中こっそり録画した恋愛ドラマを観ながら泣いているのも知っていた。その憧れの究極点ともいうべきプロポーズというものを、それに準ずるものを、先日の妊娠発覚時になし崩し的にやってしまったのをブラムは少し後悔していた。結婚は考えていなかったにしても、せめてプロポーズぐらいなら、レモラ好みの思い切りドラマチックな台詞と指輪でもって完璧に実行したいと考えていた。いたこともあった。今では自分の性欲にすら折り合いがつけられない始末である。手元の小箱はずしりと重く、自分の優柔不断さに呆れて不貞寝してしまっているようだった。

 ブラムはその手の小箱を引き出しの隙間に押し込んで、元通りにしまった。
 ふと気づけば、外は真っ暗である。日暮れにはまだ早い時間だが、窓の向こうは分厚い雲で覆われていて、いつ雨が降ってもおかしくないような気配である。レモラが傘を持っていないのを思い出して、ブラムは立ち上がりながら携帯端末で迎えに行こうかとメッセージを飛ばす。部屋の電気を切り、階下へ降りていると返事があった。
『まだバス乗れてない』
 彼女にしては端的すぎる返事だった。少し胸がざわつくのを感じながら、何時に最寄りのバス停につくか、たずねる。普段の倍ながく感じられるような数分間ののち、返事が返ってくる。

『ごめんなさい』
『バス乗れない』

 ブラムは急いでタクシー会社に電話を始めていた。
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