青赤ビートダウン

 レモラは充実していた。

 2カ月ほど前の流産をした直後、堕胎も考えた身ではあったが、ブラムの子を産んであげられなかったという罪悪感は彼女を酷く責め立てた。
 それでも、医師からの軽々しくも細やかな励ましや、何よりもブラムが以前と変わらない距離感で自分を見守ってくれていたことを助けに、徐々に目の前の日常へと立ち返っていった。
 一方で、2ヶ月ほどサボっていたブラムへの愛情表情について、日頃どうやっていたかを身体はすっかり忘れてしまっていた。今のところスキンシップから始めてみているのだが、毎回ブラムがびっくりした顔をしている現状、まだまだ試行錯誤を重ねる必要があるようだった。それでいて、彼の意表を突かれて動揺した顔や、情欲混じりの凶悪な目を頑なに隠そうとするその様子を楽しんでいる自分も、少なからずいた。

 そんな折、今日は友人と映画を観に行く予定だった。ただし、前日に彼女から急な仕事で行けなくなったと詫びの連絡があり、結局今日はひとりである。こういう日があってもいいと思ったし、そもそもブラムと暮らす以前は、休日はひとりで過ごすことも多かったのだ。
 事務所の最寄りからバスで10分程度、映画館のある商店街は休日なのに少し閑散としていて、臨時休業!という貼り紙もちらほら見える。そういえばプロチームのナワバリバトル大会がある日だった。こういう大きなイベントの日には、裏での大きな動きもつきものである。先週ブラムとまとめた山のような調査報告書を思い出し、急な仕事と言うのも仕方なかったのかもしれないと、この街のどこかを駆け回っているであろう彼女に思いをはせていた。

 人がまばらな商店街を、雑貨屋や花屋の店頭の極彩色に目を奪われながら歩く。ここ最近事務所の床ばかり見ていた目にはすべてがきらびやかに見えて、楽しい。やがて見えてきた映画館の外壁には上映作品のポスターがいくつか貼り出されていた。ジャンルごちゃまぜの群れを流し見ていると、そのひとつに思わず目が留まる。「リバイバル上映中」とステッカーの貼られたそれは、幼少期に何度も観た古い恋愛映画だった。
 懐かしい、という感情とほぼ同時に、かつての家族の顔がちらつく。やんちゃだけど面倒見のいい3歳下の妹、私のゲソ留めをいつも欲しがる下の妹、私がいなければ夜寝つけない小さな弟、笑顔が誰よりかわいい産まれたばかりの末の妹。そして外出先では仲睦まじく、家では一言も喋らない両親。小遣いで買ったフリルのスカートをいやらしいとハサミで切り刻みながら、客人の前では良い子でいつも助かっていますと自慢げに笑っていた母。彼らの面影は、自分が15歳で家を出された頃で止まっていた。
 下のきょうだいたちの世話をするのは好きだったが、ときに面白くないこともあった。そういうときに見ていたのが、この映画だった。家の一角に、父がきまぐれに買ってくるレンタル落ちのDVDの山があって、その中から何の気なしに取り出して観たそれは、10歳そこらの少女には衝撃的だった。学校でいじめの標的にされる美少女の主人公に転校生のイケメンが猛アピールをして、いくつかの三角関係を交えつつ最終的にふたりは結ばれるという、王道の恋愛劇。合間にあるキスシーンは目を覆いながら何回も巻き戻して観た。ただ一人に向けて叫ばれるまっすぐな愛は、たとえそれが観客である自分に向けられたものでないと知っていても、長女として精一杯生きてきた少女のうぶな乙女心を揺さぶるには十分すぎた。きょうだいたちの我が儘に腹がたったときも、両親の矛盾に心がねじ曲がりそうになったときも、その甘い夢の世界はいつでも自分を優しく受け入れてくれた。
 そうしてヒト形態が保てるようになったある日、両親に借金返済のために働いてほしいと懇願され、連れていかれた先が例の風俗店である。

 観てやろう、と思った。あの頃の純真な自分を支えていた儚い幻を、もう一度はっきり確かめたい気持ちが強かった。チケットを買い、次の上映時間を窓口にきくと、今日は他に客もいないからすぐ始めようかとオーナーのクラゲが気を利かせてくれる。急な提案に驚きながら、その好意に甘えることに決め、売店の作り置きのポップコーンとともに席に着いた。観客は自分だけだった。
 やがて場内は暗くなり、目の前の銀幕が輝きだす。ああ、あの頃も、テレビ画面に毛布をかけながら親に隠れてみていたっけ、とふと思い出す。最近はもう見ない配給会社のロゴ、原作漫画の作者への謝辞、海鳥の群れを見ている主人公の後ろ姿のシーン、すべて覚えていた。懐かしかった。
 そうして、湿けたポップコーンをつまみながら進む物語を見届けた。改めて見ると、あまり出来のよくない映画だった。ヒロイン役の演技は素晴らしいのだが、ヒーロー役は見目の良さと裏腹に台詞回しの不慣れさが目立つ。あと監督の趣味なのか男性陣の口元のアップが明らかに不必要なレベルで多く、映るたびに、ああまたか、という気分にさせられた。こんなもんか、と正直拍子抜けしながら、むしろ作品としてのアラを探すのが面白いくらいだった。当時あれだけドキドキしたキスシーンも、今見ればとりたてて劇的でもなく、その後の展開も、浜辺で花火をしながら告白するラストシーンまで、今の自分の心を震わせるようなものではなかった。
 ただ、それでも、ハッピーエンドを見届けられてよかった、と思った。レモラには経験はないが、昔の友人が結婚したと聞いたときの気持ちは、きっとこうなのだろうというような、穏やかな感情だった。そして。

「……いいな」
 みじめだった。自分がひどく、みじめだった。

「……いいなぁ……どうして……?」
 エンドロールの流れる暗い銀幕の前、レモラはひとりぼろぼろと、2カ月ぶりの涙を流していた。
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