青赤ビートダウン

 ブラムは苦悩していた。
 彼は今、自室のパソコンで先日の調査の報告書をまとめ上げ、推敲のために少し時間を置こうと背伸びをしたところである。伸び、脱力して、背もたれにギィと身を預けて天井をぼんやりと見る。

 2ヶ月ほど前、見事に引き当てた0.001%によってパートナーを妊娠させてしまった彼は、結論を避けていた彼女との関係性について互いに話し合い、彼女からのYESを引き出した。その後の数日間は普段通りに、ともすればそれまでより丁寧な生活を心がけていたはずだったが、ある時彼女がトイレから血相を変えて出てきたのを最後にそれは終わった。電話越しの医師からの指示で流さずにいた液体を掬い上げ、検査の結果、その固体ですらないものが”そう”だと確かめられたのだった。妊娠初期でしかも交雑児にはよく起こる、こればっかりはどうしようもないと言う医師からの言葉に、レモラはただ寂しげに笑っていた。
 その後彼女はしばらく元気のない様子でぼうっとしている日が多かったが、ここ最近は調子が戻ってきたように見える。いつまでも甘やかさないで!と言って来客の対応に率先して出向いたり、事務所内での簡単な作業をするようになっていた。沈んでいた表情に穏やかな笑顔が見られるようになり、ブラムに対してどうしても気まずそうにしていたのも、最近は自然な距離感に戻ってきていた。というよりむしろ、ふと人肌恋しそうにくっついてきたり、脈絡もなく抱きしめて欲しいとねだられることが、妊娠以前に比べても明らかに増えた。就寝時もなんとなく距離をとって眠っていたはずが、朝起きるといつの間にか彼女の抱き枕にされていることが、最近は本当に多い。
 彼の苦悩の原因はそこだった。流産して以来そういったことをしていないパートナーに、どのタイミングでそういうことを切り出していいものか、ブラムは苦悩していた。これまでになく過剰なスキンシップも彼の苦しみに拍車をかけている。言ってしまえば、溜まっているのである。

 まだ日の高い午後、レモラは友人と遊びに行くと言っていたので夕方まで不在にしている。今抱えている急ぎの仕事は眼前のほぼ完成した調査書以外は残っておらず、完全にスイッチの切れたブラムは半開きの口からため息を吐くばかりだった。コーヒーでも淹れたほうがいい、しかし脚は貧乏ゆすりを続けたままでその一歩を踏み出す気配がない。背もたれの頂上にだらしなく頭を預けたまま、昼過ぎに見送った彼女の、歩くたびタイトスカートから見え隠れする膝裏の映像が脳内で何度も再生されていた。
(よくない……これは、非常によくない……)
 暇を持て余して下世話な堂々巡りを続ける頭を、誰か思い切りぶん殴ってくれないか。このままでは夕方帰ってきたレモラ相手に何をしでかすかわからない。きっとこの前公開した恋愛映画を観に行ったのだろう、いつものように少しはにかみながら、あのシーンの表情が良くてとイケメン俳優の讃美などされた日には、今日ばかりは我慢がききそうにない。それは双方にとって最悪以外のなにものでもなかった。

 ふと思い立って、デスク脇に立てかけてあるノートパソコンを引っ張り出し、キーボードを押しやってできたスペースに開く。先ほどまで作業をしていたデスクトップPCは、機密データ(調査記録や私的なレモラ盗撮データなど)を扱うためオフラインで使っており、ネット上の情報収集はこちらのノートPCで行なっている。
 ただし、ブラムが今欲していたのは有益な情報ではなく、ゴミがゴミをゴミと嗤ってくれる環境だった。ネット掲示板へアクセスした彼は、普段なら回答者側にまわるはずの人生相談スレッドへ、『セリオ:2カ月レスの嫁を今更誘うのってどうすりゃいい?』と書き込んだ。セリオ、とはここでのブラムの名前である。
 えっセリニキどうした、また盗撮バレか、続きは法廷で、詳細はよ、まじかよファン辞めます、などと池の鯉のように飢えた返信が溢れかえる。ただしその心地よい雑踏も、嫁が婦人系の手術を受けたからお互いそれどころじゃなかった、などと書き込んでみれば一気に静まり返ってしまった。生き残ったのは回答者勢として肩を並べることの多いいつもの顔ぶれと、否定的なワードを書き込み続ける荒らしのみである。そうなってしまえば後は思考の似た有識者同士、いい雰囲気の時に嫁の身体を気づかうポーズを取りながら誘うのが丸いのでは?という無難な結論に落ち着いた。
 いまいち盛り上がりに欠けた展開に、馬鹿正直に重たい話題を投げ入れることはなかったなとブラムは小さく溜め息をつく。ただ煩悩は完全に紛らわされた、簡単にお礼だけして締めようと画面に目を戻したと同時に、件の回答者の一人からコメントが飛んでくる。
『俺もついでに聞いとこ。今度プロポーズしようと思うんだがここにしとけ的な店知らんか』
 ブラムのキーボードを打つ手は完全に止まってしまった。
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