青赤ビートダウン
去っていくクラゲたちの姿が見えなくなってからも、ブラムとレモラは石のベンチに座ったままでいた。レモラは紙コップの水を少しずつ飲みながら、頭上でさわさわと揺れる枝葉を眺めている。控えめな日差しは透き通った緑を薄く照らし、涼やかな風がそれを撫でては通り過ぎていった。
「……子供のことですが」
口火を切ったのはブラムだった。
「ええ」
「僕は欲しいです」
「え」
「君との子供だったら、欲しい」
レモラは驚きを隠せないでいた。ブラムがこんなにも直球の言葉を使ってくるとは思いもよらず、思考が止まってしまう。彼はきっと、その左目と一緒に家族をもうける選択肢を失くしてしまっただろうと、やはりなんとなく、そう思っていたから。
隣でくるくると、紙コップの中身を回しているブラムは明らかに落ち着かない様子で、空いている方の手で膝に頬杖をついていた。明後日の方向を向いたまま微動だにしない顔は、時々きょろきょろと視線を泳がせている。柄にもなくストレートな告白をして所在なさげな彼の姿に、レモラは自分の顔がほてっていくのを感じていた。
「そう、だったんですか」
「……まあ、その」
「ブラムさん、全然そんな感じしなかったし」
「……ですね」
「もっと早く聞けばよかった」
「……」
「って、こっちから切り出せるような話題じゃなかったんですけど」
「……ギ」
次々と畳み掛けられる言葉に、ブラムはついにオクトリング特有の声を漏らす。これは彼が相当追い詰められている時にしか出さない声で、面白半分で追求していたレモラも、おっと、とその口を止める。止めて、静かに自答する。自分も、彼に正直な思いを聞いてもらいたい。
「……私は正直、実感がわかないというか。……怖いんです」
「……!」
やっと漏れ出たレモラの弱音に、ブラムは顔を上げてその横顔を見据える。
「怖い、ですか。不安というよりも?」
「あ……」
ブラムに繰り返されて、レモラ自身も変だなと思う。怖いというのはまるで、その先に恐ろしいものが待ち受けているのを知っているかような言葉だった。子供の誕生という喜ばしいことに、それに問題と思われていたブラム自身も、それを望んでいると言っているのに?
空の紙コップをぺこぺことへこませながら、思いつくまま、レモラは口を開く。
「……さっき、クラゲの子がお水をくれて」
「ええ、優しい子でしたね」
「……うん」
「……」
「私、あの……」
「……」
「……ちょうど、あ、あれくらいの、……にくが、食べやすくて。……よく、買って、た」
レモラの目には涙はない。今までの彼女からはおよそ聞いたことのない、極度の緊張でうわずった声。彼女の手元の紙コップが、その細い指で丁寧に、丁寧に潰されていくのを、ブラムは隣で見ていた。
「そうなの、私……。私が。
……ふふ、一頭買いとか、するの。欲しいとこだけ、……そう、丸ごと届くから。開いて、使いやすく……つかい、やす、い……サクに、切って……。
……残りは、引き取ってもらうの。別のひとが欲しがるの。そういう……」
気でも触れたように延々と喋ってから、レモラはそこで言葉を切った。ブラムは表情を変えずにただ見ている。彼女にいじめられ続けた紙コップは棒切れのようになっていた。
「……なのに、お水をくれたの」
ぽつりと、彼女は漏らした。さっきまで枝葉と遊んでいた風はもう去ってしまっていた。
「そうですね、倒れた君を心配してくれましたね。僕も嬉しかった」
「……ーーーゥ」
堰を切ったように、彼女の目から涙が溢れる。喉の奥から細い叫び声をあげて、たまに溺れているような荒い息継ぎをして、涙を何度も指で拭う。
ブラムは腕と腕が触れ合う距離に座りなおして、膝の上で紙コップを握ったままの彼女の手に、彼の手を重ねる。幼い少女のように泣いているレモラに、ブラムは穏やかに語りかける。
「彼らは知らないんです。誰も、君の過去を彼らに知らせてはいない。でもそれは彼らをだまし討ちするためじゃない。できるなら彼らと友人になりたい。そうでしょう?」
レモラは少しずつ息を整えながら、何度も小さく頷く。ひしゃげた紙コップを手放して、ブラムの手を強く握り返す。
「君は彼らを殺す気なんかない」
「……ーーーッ、う、ん、ゴホッ、うん」
「もし君の過去が知られたとして、僕らがどう扱われるか、決めるのは彼ら自身です」
「……う、ん」
「それで十分でしょう」
短い呼吸を繰り返し、まだ細く涙を流すレモラに、ブラムは握り返された手を見つめながらそう言った。レモラが少し落ち着きを取り戻したのを見て、ただし、とブラムは続ける。
「僕らの商売のせいで、平穏な日常を奪われるひとは、必ずいます」
今朝、アレイナにも言われたことだ。クラゲの死体を冒涜しないと誓ったところで、それ以上の外道などごろごろしている。自分たちはその上で生きている。
レモラは一瞬ひるんだ様子だったが、深呼吸をひとつして、濡れた若葉色の瞳でブラムを見据える。
「……っ、そう、ね」
「バイユーにもヴァシオにも恩があります、逃げきるのは不可能でしょう。そもそも僕は、これまでの自分の行いを正当化するつもりはありません、やくざな商売でしか生きていけないクズですから」
「そ、れは……んっ、わたしも、そう、で」
「ああ……うん、ついでに言えば」
レモラの手を取るブラムの手が、一層強く握られる。
「……僕は確実に君より早く死ぬ」
レモラの目が見開かれる。彼はごく当たり前のことを言っていた。だからこそ、ブラムの右目は強く訴えかけるように鈍く光りながら、しかしどうしようもないほどの深い悲哀に沈んで見えた。
「そう、君みたいな若くて美しい女性を、僕みたいな半端物が捕まえて……子供を産んでくれなんて、言うべきじゃあないんでしょう。
さっき君は怖いと言いましたね。……僕も、君はいつか目を覚まして、僕と居たせいで若い時代を浪費してしまったと、後悔するんじゃないかと、……僕はそれがずっと怖かった」
「……そんなこと」
ブラムさんでも思うんですかと言いかけて、レモラはやめた。純粋な驚きからの言葉ではあったが、今この場では彼の過去を咎める皮肉にしかなりそうになかった。
ついでにと言っておきながら、おそらくずっと心に抱えていたであろう彼の核心を、ブラムは必死に自分を説得しながら引きずり出そうとしている。それはレモラへ向けた言葉と言うより、ブラム自身が覚悟を決めるための独白だった。
「僕なんかじゃなくても……まだ若くて美しい君を、好いて、真っ当な世界へ連れ出してくれるひとはきっとたくさんいるでしょう。僕は、そういった日向のひと達に太刀打ちできるような男じゃない。それこそ……」
ブラムの言葉が止まる。開いたままの口の奥から、ア、とか、グ、とかいった小さい音が時折漏れてゆく。ざ、と木々を鳴らしはじめた風を鼻で一度深く吸い、彼はようやくそれを言う。
「……君に、愛してもらえていることぐらいしか」
は、と口だけその形のまま、レモラの喉が詰まる。この男はなんてことを言うのだろう。自分には何もない、愛を勝ち取れるだけの素質がないと散々並べ立てておいて、それでも、私が彼に向ける愛によってその資格を持つと、堂々と宣言してみせた、このペテン師のような男。……狙っているのかと思うほど、私が本当に欲しがっている言葉をくれるひと。
「レモラ」
何度目だろう、今日だけでもう一生分呼ばれた気がする。彼が私を見ている証拠、その声。
私の手を取るために乗り出していたその上体は、気づいてみれば驚くほど近くにあって、影のように迫ってくる。風が分厚い雲を連れてきたせいか、暖かい陽光はもう私たちを照らすのを諦めてしまったようだった。
「僕の破滅に、君を巻き込んでも、いいですか」
いいですか、とたずねる声とともに、ふっとブラムの手の握る力が緩む。しがみつくのをやめ、柔らかく重ねられた手のひらが、はやくお逃げと言っていた。しかしレモラを見据える一つ目は、逃げられると思うなと、日の差さない暗がりからじっと獲物を捉えている。さっきまで信じると豪語していたはずの愛を、この期に及んでも正面から奪い取ることができない彼が、レモラはいっそ哀れで、愛おしかった。
重ねられた温かい手をするりと抜け出し、自分をかどわかす悪魔の頬を両手で挟んで、静かに口づける。互いの薄い息だけが聞こえる暗闇にしばらく佇んで、ゆっくりと離れながら目を開く。望みが叶ったはずなのに、眼前の男はどこか戸惑ったような表情で自分を見つめ返していた。
レモラは少し腰を持ち上げて、彼の首に腕を回してその背を抱き寄せる。
「私たち破滅するの?」
「……少なくとも、穏やかに死ぬことはできないのでは」
「……そっか」
言いながら、身体を離す。ストン、と元の場所に腰を降ろしてから、レモラはブラムの両の手をかき集めて、温めるようにその手で包む。
「じゃあ子供には、早めに独り立ちできるように、いろんなこと教えてあげなきゃ」
涙の跡が残る頬に微笑みを浮かべて、レモラは子供のいる未来を初めて語った。
もう陽の差さない木陰で瑞々しくきらめく彼女を、ブラムは何度も瞬きしながら見つめていて、やがて音を立てて鼻を一度すすり、はあっと息を吐く。そうして諦めたように目を閉じながら笑って、レモラの肩を静かに引き寄せてから、優しく抱きしめた。
レモラが流産したのはそれから9日後のことだった。
「……子供のことですが」
口火を切ったのはブラムだった。
「ええ」
「僕は欲しいです」
「え」
「君との子供だったら、欲しい」
レモラは驚きを隠せないでいた。ブラムがこんなにも直球の言葉を使ってくるとは思いもよらず、思考が止まってしまう。彼はきっと、その左目と一緒に家族をもうける選択肢を失くしてしまっただろうと、やはりなんとなく、そう思っていたから。
隣でくるくると、紙コップの中身を回しているブラムは明らかに落ち着かない様子で、空いている方の手で膝に頬杖をついていた。明後日の方向を向いたまま微動だにしない顔は、時々きょろきょろと視線を泳がせている。柄にもなくストレートな告白をして所在なさげな彼の姿に、レモラは自分の顔がほてっていくのを感じていた。
「そう、だったんですか」
「……まあ、その」
「ブラムさん、全然そんな感じしなかったし」
「……ですね」
「もっと早く聞けばよかった」
「……」
「って、こっちから切り出せるような話題じゃなかったんですけど」
「……ギ」
次々と畳み掛けられる言葉に、ブラムはついにオクトリング特有の声を漏らす。これは彼が相当追い詰められている時にしか出さない声で、面白半分で追求していたレモラも、おっと、とその口を止める。止めて、静かに自答する。自分も、彼に正直な思いを聞いてもらいたい。
「……私は正直、実感がわかないというか。……怖いんです」
「……!」
やっと漏れ出たレモラの弱音に、ブラムは顔を上げてその横顔を見据える。
「怖い、ですか。不安というよりも?」
「あ……」
ブラムに繰り返されて、レモラ自身も変だなと思う。怖いというのはまるで、その先に恐ろしいものが待ち受けているのを知っているかような言葉だった。子供の誕生という喜ばしいことに、それに問題と思われていたブラム自身も、それを望んでいると言っているのに?
空の紙コップをぺこぺことへこませながら、思いつくまま、レモラは口を開く。
「……さっき、クラゲの子がお水をくれて」
「ええ、優しい子でしたね」
「……うん」
「……」
「私、あの……」
「……」
「……ちょうど、あ、あれくらいの、……にくが、食べやすくて。……よく、買って、た」
レモラの目には涙はない。今までの彼女からはおよそ聞いたことのない、極度の緊張でうわずった声。彼女の手元の紙コップが、その細い指で丁寧に、丁寧に潰されていくのを、ブラムは隣で見ていた。
「そうなの、私……。私が。
……ふふ、一頭買いとか、するの。欲しいとこだけ、……そう、丸ごと届くから。開いて、使いやすく……つかい、やす、い……サクに、切って……。
……残りは、引き取ってもらうの。別のひとが欲しがるの。そういう……」
気でも触れたように延々と喋ってから、レモラはそこで言葉を切った。ブラムは表情を変えずにただ見ている。彼女にいじめられ続けた紙コップは棒切れのようになっていた。
「……なのに、お水をくれたの」
ぽつりと、彼女は漏らした。さっきまで枝葉と遊んでいた風はもう去ってしまっていた。
「そうですね、倒れた君を心配してくれましたね。僕も嬉しかった」
「……ーーーゥ」
堰を切ったように、彼女の目から涙が溢れる。喉の奥から細い叫び声をあげて、たまに溺れているような荒い息継ぎをして、涙を何度も指で拭う。
ブラムは腕と腕が触れ合う距離に座りなおして、膝の上で紙コップを握ったままの彼女の手に、彼の手を重ねる。幼い少女のように泣いているレモラに、ブラムは穏やかに語りかける。
「彼らは知らないんです。誰も、君の過去を彼らに知らせてはいない。でもそれは彼らをだまし討ちするためじゃない。できるなら彼らと友人になりたい。そうでしょう?」
レモラは少しずつ息を整えながら、何度も小さく頷く。ひしゃげた紙コップを手放して、ブラムの手を強く握り返す。
「君は彼らを殺す気なんかない」
「……ーーーッ、う、ん、ゴホッ、うん」
「もし君の過去が知られたとして、僕らがどう扱われるか、決めるのは彼ら自身です」
「……う、ん」
「それで十分でしょう」
短い呼吸を繰り返し、まだ細く涙を流すレモラに、ブラムは握り返された手を見つめながらそう言った。レモラが少し落ち着きを取り戻したのを見て、ただし、とブラムは続ける。
「僕らの商売のせいで、平穏な日常を奪われるひとは、必ずいます」
今朝、アレイナにも言われたことだ。クラゲの死体を冒涜しないと誓ったところで、それ以上の外道などごろごろしている。自分たちはその上で生きている。
レモラは一瞬ひるんだ様子だったが、深呼吸をひとつして、濡れた若葉色の瞳でブラムを見据える。
「……っ、そう、ね」
「バイユーにもヴァシオにも恩があります、逃げきるのは不可能でしょう。そもそも僕は、これまでの自分の行いを正当化するつもりはありません、やくざな商売でしか生きていけないクズですから」
「そ、れは……んっ、わたしも、そう、で」
「ああ……うん、ついでに言えば」
レモラの手を取るブラムの手が、一層強く握られる。
「……僕は確実に君より早く死ぬ」
レモラの目が見開かれる。彼はごく当たり前のことを言っていた。だからこそ、ブラムの右目は強く訴えかけるように鈍く光りながら、しかしどうしようもないほどの深い悲哀に沈んで見えた。
「そう、君みたいな若くて美しい女性を、僕みたいな半端物が捕まえて……子供を産んでくれなんて、言うべきじゃあないんでしょう。
さっき君は怖いと言いましたね。……僕も、君はいつか目を覚まして、僕と居たせいで若い時代を浪費してしまったと、後悔するんじゃないかと、……僕はそれがずっと怖かった」
「……そんなこと」
ブラムさんでも思うんですかと言いかけて、レモラはやめた。純粋な驚きからの言葉ではあったが、今この場では彼の過去を咎める皮肉にしかなりそうになかった。
ついでにと言っておきながら、おそらくずっと心に抱えていたであろう彼の核心を、ブラムは必死に自分を説得しながら引きずり出そうとしている。それはレモラへ向けた言葉と言うより、ブラム自身が覚悟を決めるための独白だった。
「僕なんかじゃなくても……まだ若くて美しい君を、好いて、真っ当な世界へ連れ出してくれるひとはきっとたくさんいるでしょう。僕は、そういった日向のひと達に太刀打ちできるような男じゃない。それこそ……」
ブラムの言葉が止まる。開いたままの口の奥から、ア、とか、グ、とかいった小さい音が時折漏れてゆく。ざ、と木々を鳴らしはじめた風を鼻で一度深く吸い、彼はようやくそれを言う。
「……君に、愛してもらえていることぐらいしか」
は、と口だけその形のまま、レモラの喉が詰まる。この男はなんてことを言うのだろう。自分には何もない、愛を勝ち取れるだけの素質がないと散々並べ立てておいて、それでも、私が彼に向ける愛によってその資格を持つと、堂々と宣言してみせた、このペテン師のような男。……狙っているのかと思うほど、私が本当に欲しがっている言葉をくれるひと。
「レモラ」
何度目だろう、今日だけでもう一生分呼ばれた気がする。彼が私を見ている証拠、その声。
私の手を取るために乗り出していたその上体は、気づいてみれば驚くほど近くにあって、影のように迫ってくる。風が分厚い雲を連れてきたせいか、暖かい陽光はもう私たちを照らすのを諦めてしまったようだった。
「僕の破滅に、君を巻き込んでも、いいですか」
いいですか、とたずねる声とともに、ふっとブラムの手の握る力が緩む。しがみつくのをやめ、柔らかく重ねられた手のひらが、はやくお逃げと言っていた。しかしレモラを見据える一つ目は、逃げられると思うなと、日の差さない暗がりからじっと獲物を捉えている。さっきまで信じると豪語していたはずの愛を、この期に及んでも正面から奪い取ることができない彼が、レモラはいっそ哀れで、愛おしかった。
重ねられた温かい手をするりと抜け出し、自分をかどわかす悪魔の頬を両手で挟んで、静かに口づける。互いの薄い息だけが聞こえる暗闇にしばらく佇んで、ゆっくりと離れながら目を開く。望みが叶ったはずなのに、眼前の男はどこか戸惑ったような表情で自分を見つめ返していた。
レモラは少し腰を持ち上げて、彼の首に腕を回してその背を抱き寄せる。
「私たち破滅するの?」
「……少なくとも、穏やかに死ぬことはできないのでは」
「……そっか」
言いながら、身体を離す。ストン、と元の場所に腰を降ろしてから、レモラはブラムの両の手をかき集めて、温めるようにその手で包む。
「じゃあ子供には、早めに独り立ちできるように、いろんなこと教えてあげなきゃ」
涙の跡が残る頬に微笑みを浮かべて、レモラは子供のいる未来を初めて語った。
もう陽の差さない木陰で瑞々しくきらめく彼女を、ブラムは何度も瞬きしながら見つめていて、やがて音を立てて鼻を一度すすり、はあっと息を吐く。そうして諦めたように目を閉じながら笑って、レモラの肩を静かに引き寄せてから、優しく抱きしめた。
レモラが流産したのはそれから9日後のことだった。