青赤ビートダウン

 そうしてふたりはバイユーの送りの車両から降りた。診察室で合流してから、車両の中でさえもふたりは声を交わす事もなく、たまに視線が合ってはしばらく見つめ合い、他の団員から声をかけられるとそちらを向き、といった具合だった。車両はそのまま建物の向こうへ走り去っていき、後に残るのは見慣れた街並みである。雲間から覗く太陽に照らされてやっと目を覚ました街は、ひとびとの笑い声や言い争う声が当然のように溢れていた。
 以前もこんな風に、ここにふたりで降ろされた。クラゲ失踪事件の容疑者兼重要参考人としてレモラはブラムの監視下に置かれることになり、互いに深い疑念と、わずかな期待とをないまぜにしながらここに立った。今となっては遠い昔のように思えるが、今のふたりの間に流れる空気は、当時のものとまったく異質でありながら、それでいてよく似ていた。

 レモラは目の前のありふれた日常風景を、映画のように感じながらぼうっと眺めていた。と、視界の右端のブラムが動き、そちらに目を向ければ、彼は左の手のひらを差し出していた。
「……いきましょうか」
 いつもの仏頂面にほんの少しだけ照れを滲ませながら、彼は映画の中に立っていた。……今まで腕や肩を引かれることはあっても、ひと前で手のひらを繋いだことは無かった。
 朝起きてからずっと鈍く痛む頭が、気の利いた台詞の入った引き出しの前で狸寝入りを決め込んでいる。私は銀幕の前の観客だった。ならこの手は私に向いたものじゃあないし、映画館で声を出すなんて無粋すぎる。……それでいて心の底では、私にだけはそれが許されているということを知っていた。
 とくに言葉を返す事もなく、その手を取る。いつもより熱を持った指先に握り返されながら、その感触もどこか遠いことのようだった。自分を気遣ってか少しゆっくりと歩くペースに、訳もなくいらいらとしてしまう。……そんなことしてくれなくていいのにと。周囲で遊ぶ子供のきゃあきゃあと笑う声が耳障りで、ああこの映画はハズレだったかも、と思う。自分の右手に感じる指の熱だけが妙にリアルだった。頭痛はまだ治らない。耳の奥でごうごうと流れる血の音がやかましい。目の奥がぶわぶわと膨らんでいく。私は……。

 私はこれからどこに連れて行かれるの?

(お前が娘で良かったよ。向こうのひとの言うことをよく聞いて、頑張るんだよ)

「レモラ」
 名を呼ばれた気がして、視界に乾いた石畳が見える。重苦しい頭をやっと上げると、痛々しく顔を歪ませたブラムがこちらを覗き込んでいた。焦らないでいい、ゆっくり…、というブラムの声に合わせて、体が持ち上がる。いつの間にかしゃがみ込んでいたようだった。体が揺れた拍子に、額から鼻の頭に冷たい汗が伝う。
 ぼんやりとした耳の向こうで、探偵さん、彼女さん大丈夫? 乗せて行こうか? とどこか聞き覚えのある声がする。耳のすぐ近くでは、ありがとう、ちょっと様子を見ます、また後で、とそれらに一つずつ答える声がして、しばらくふわふわと歩いたあと、ゆっくりと座らされる。もも裏から背中にかけてひんやりした石の感触があり、首をおこせば風に揺れる枝葉が見えた。ああ、あの道にある石のベンチかな、などと考えているうちに隣にブラムが座って、長い長い溜め息が聞こえた。

「……そんな溜め息してたら、内臓ぜんぶ出ちゃいそう」
 薄く笑いながら口をついて出たレモラの言葉に、ブラムは静かに座る距離を詰め、彼女のおでこの辺りをなでる。
「……もうぜんぶ出た後ですよ」
「ふふ……ほんとに?」
「レモラ」
「……ごめんなさい」
 自分の名を鋭い声色で呼ばれ、レモラは謝罪を口にする。
「……なんで謝るんです」
 レモラはゆっくりとブラムへ顔を向ける。怒られちゃうなあ、と、彼の目の届く範囲でわざと他の男の子にちょっかいをかけた時のような、そんな期待をしていた。しかし彼から返ってきたのは糾弾の言葉ではなかった。
「なぜって、だって……ちょっと騒ぎになっちゃったし……?」
 レモラが来る前からこの地でほぼ裏組織専門の探偵業を営んでいたブラムは、実際、周辺住民に顔を覚えられるのすら嫌っていた。先ほどの騒ぎで、自分の意識が朦朧としていた時に聞こえたのは近所のひとの声だったように思う。聞こえた声の主以外にも、遠巻きに見ていた野次馬は多かったに違いない。そういうことをしてしまったとレモラには自覚があった。そしてやはりそれは、申し訳ないと思った。彼女が謝罪したのは決してその場しのぎのものではない。

 しかしそれを聞いて一層、ブラムは苦しそうに顔を歪ませる。ふいと顔をそらして、静かに言葉をこぼす。
「……僕はそんなに頼りないですかね」

 レモラはブラムの横顔を見ていた。見ているのが精一杯だった。座る膝に両肘をついて、手を合わせるように口元を覆う彼は、物思いに耽るようにじっと前を見たまま、悲しげな表情をしていた。レモラは指先から血の気が引いていくのを感じる。やってしまった、と、ただそう思った。彼を悲しませた、私が、彼を。その罪悪感が全身を支配していく。何か言わなければ、謝罪を、でも謝罪したからこうなったのではなかったか。それならどうやって。

「アノ……」
 およそ今の空気には場違いのモニュモニュとした声がして、ふたりは同時に顔を向ける。ふたりの座るベンチの前には、まだ幼いクラゲがひとり、その手に紙コップをふたつ持ってモジモジと残りの触手を全身でうねらせていた。その隣にはひと回り大きいクラゲがもうひとり立っている。
「ゴメンナサイネ、コノコガ、スゴクツラソウダカラオミズヲ、ッテ、キカナクテ」
 大きいクラゲはそう言って、プルプルと感じよく微笑む。呆然として話を聞いていたふたりは、そのまま同時に目線を下に向ける。急に注目を集めてしまった幼いクラゲは思わず飛び上がり、隣のクラゲを見上げ、にっこりと頷くその様子に安心したのか、ふたりに向き直ってその手の紙コップを差し出す。
「ドOUゾ……。Aon……ガンバx ET TN、ネ」
 緊張からか元からなのか、あまりにも拙いイカ語で懸命にさしだされる2杯の飲料水に、まず手を伸ばしたのはブラムだった。
「ありがとう、すごく嬉しいよ」
 普段よりも大きめに、ゆっくりと喋りながらブラムは紙コップを2杯とも受け取った。幼いクラゲはコップが手から離れた瞬間、ワッと短く叫んで大きいクラゲの後ろに隠れてしまう。レモラはそれを、驚きに固まった表情のままただ見ていた。
「レモラ、ほら」
 ブラムから差し出される、無垢な善意で満たされたそれに、レモラは時々ためらうように動きを止めながらも手を伸ばす。ようやく手にした紙コップは、水を入れてからしばらくそのままだったのか表面までしっとりとしていて、ひんやりと気持ちよかった。
「……ありがとう」
 両手で包んだコップを膝に乗せて、レモラはクラゲたちに微笑みかける。イイエェ、キュウニゴメンナサイネェと手を振る大きいクラゲと、その陰から幼いクラゲも小さく手を振ってから、彼らは去っていく。そうして手を繋いで家路につく彼らを、スタッフロールの終わりまで見届ける観客のように、ふたりはずっと眺めていた。

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