青赤ビートダウン

「あー堕ろすのはねー、わりといつでも大丈夫っすよ」
 医師が発した言葉は、先ほどとまったく変わらない明るさで、そしてごくごく端的だった。それは覚悟を決めて訊ねたレモラにはとっては意外なもので、拍子抜けしてしまう。医師の青年はカルテをわざとらしく取り上げて、目を滑らせながら続ける。

「インクとオクトの交雑児って安定しにくいって言いましたけど、ほんっとに安定しないんすよ! まじでいつまで経っても流産前提みたいな?
 んで、どのタイミングで流産しちゃっても母体はケロッとしてる事が多くてー、これは医療行為で堕胎させたときもほぼ同じっす。後遺症が残るーとかもあんまり聞かないっすね」
 軽い調子でつらつらと説明をして最後、ポカンとしたままのレモラを見ながら青年は爽やかに笑う。
「おねーさん珍しいっすよねー、インクリングってとりあえず産む!って方がほとんどっすよ? ブラムさんの面倒くせーのが移っちゃってんですかねー」
 やだわーあのひとホント固すぎー、とパートナーを目前に堂々と陰口を吐くタコの青年に、レモラも思わず吹き出してしてしまう。目が合うといたずらっぽく笑ってみせる青年に、レモラは一呼吸ついてから自嘲気味に笑う。
「ふふ、ほんと、なんでこんなにひとりで悩んでんだろ。……嫌になっちゃう」
 再び漂いだした彼女のよどんだ空気を、いや!と青年は声を上げて振り払う。
「いやぁー、俺から言っといてなんですけど! ブラムさんの事情知ってたら気まずくもなりますよ! まじ、パなかったっすよさっきの部屋の空気! 苦しい苦しい、窒息で死ぬかと! ね! おねーさんこと気遣われるべきなのにあのひとぁもう……あーやだやだ!」

 繊細なおっさんとかめんどいだけなのー!! と頭を抱えてみせる青年に、レモラもついに声を出して笑ってしまう。
「あっはは! ありがと、言いたかったこと全部代わりに言ってもらったような気分」
「あ、そうすか? でも自分で声に出したほうが絶対いいっすよ? 黙って飲み込んでたらいつか破裂しちゃいますよ」
「ええ……でももう、癖みたいなものだから」
 ヒト形態を習得してすぐに水商売の店に身売りされてから、いや、それ以前からだったかもしれない。自分は黙って笑っていればいい、そうすれば目の前のひとたちは機嫌よく金を落としてくれる。この処世術というにはお粗末すぎる癖は、ブラムと暮らすようになって久しい今でも気づけば表れている。……ブラムからあの時、″レモラとしての自分のすべて″を受け入れると言われてもなお、表れる。

「癖になっちゃってんなら尚更っすよ! 僕なら愚痴いつでも聞くんでー、あっ、連絡先交換しません? いや、あわよくばとか、ちょっとしか思ってないんで」
「ふふ、ちょっとだけなんですか?」
「いやー正直ブラムさんマジ怖なんすけどー、緊急連絡先ぐらいでどうっす?」
「クス、はいはい」 
 素なのか冗談なのかという調子に少し笑って、レモラは連絡先の交換に応じる。青年の取り出した端末はゴテゴテとステッカーが貼られていて、明らかに団体からの支給品ではなさそうだった。彼の気のおけない軽薄な調子が、今はありがたかった。

 あっそうだ、と青年は口を開く。
「ちなみにこれは交雑児に限らないんすけど、案外死産って多いもんですよ。気楽にねー、って俺が言ってるのはそういうのもあるっす。産んでみなきゃわかんねえレベルなのに、妊娠時にストレス感じてたら元も子もないっすからねー」
 コチコチと端末を操作しながら、目を上げることもなくそんなことを言う。単なる医療担当としか聞かされていない彼の、想像以上の″理解の良さ″にレモラは少し驚いた。
「さっきから思ってたんですけど、出産周りのこと結構詳しいんですね」
「そりゃだって、ウチの管理下の風俗店とか駆り出されるんで、ねえ?」
「ああー……そういう」
 そうなんすよー医療班まじ何でもさせられるんでー、と端末を叩きながら青年はこともなげに答える。と思えば急に顔をあげ、にっこりと笑って見せた。
「だからね、安心してほしいっすね! 後産処理とか俺ヨユーで慣れちゃってるんでー、もし産むってなったら俺行くんで」
 患者を安心させるには100点満点の笑顔に、レモラの顔も綻ぶ。この医師とは片手で数えられるぐらいしか会ったことはなかったのに、今日この場ですっかり打ち解けてしまっていた。
「えっそうなの? なんか、出てきたばっかりのこどもってどこから胎盤なのかわかんないレベルだって聞くんですけど、ホントに大丈夫……?」
「あーーーそうなんすよーーー、あれ目視で見分けるのはまず無理で、こどもが自分から動き出してくれるの待つしかないんですよー。でまあ、動かなかったら、残念ながらーっていうか」
 だからね、と医師はわざとらしく一呼吸置く。
 その両の赤い目が、一瞬だけ鈍く光って、薄く歪む。

「ご希望されるならそりゃあもう、うまく、うまーくやるんで。死産ならしょうがないっすもん、ね? しょうがない、ウンウン、こればっかりはね、誰も責められないから、ね?」

 不意に、部屋が一気に狭くなったように感じて、目の前の医師から目が離せなくなる。レモラは瞬時に、風俗店関係者のお産に関わるという彼の役割を悟る。そういう店の、そういう女性スタッフだ、彼は彼女らの″困りごと″を、ごくごく自然に解決してくれるのだろう。
 自分が過去いた風俗店でも当然そういったことはあった。ある嬢を見なくなって、しばらく休暇を取らせたと不機嫌に通達する店長。しばらくして復帰した彼女が時たまに人目を忍んで嗚咽しているのを、店の全員が知らないフリでいることもあった。当時の冷え切った、香水とカビの混ざったバックヤードのにおいが鼻をつく。堕胎について切り出したのは自分の方からだったのに、一切のブレもなく爽やかに笑っている目の前の彼は、別人のように感じられた。さっきまでの軽快な気分はすっかり消え失せ、嫌な汗が首を伝う。

「……ごめんなさい。まだどうしたいか、結論は、出てないんですけど」
「あっ、あっ、もちろんっすよ! すんません、選択肢はあるんだよーって言いたかっただけだったんすけど……!」
 動揺を隠せないでいるレモラに、医師は少し焦った様子で否定する。あちゃー、と頭を掻いてから、また優しい表情をして、少し身を乗り出して諭すように言う。
「いいっすかレモラさん、今言ったのは望むならって話です。俺はね、世間さまの道徳心に絡めとられて″諦める″ことができなかった末に、誰も彼もが不幸になっちまったってのを何回も見てきたんすよ。
 カミサマなんて居やしませんし、産まれる前の胎児に感情なんかありません。あるのはおふたりの意志と、システマティックな細胞分裂だけっす。んでもしおふたりの考えが釣り合わないなら、ちょっと打ちどころの悪かった悲しい事故だと思えばいい。あなたもブラムさんもまだまだ元気なんですし、なんも焦ることはないっすよ」
「それは……でも、私……」
「レモラさんはブラムさんとの子供、欲しい?」
 俯いていたレモラの顔がゆっくりと持ち上がる。診察室に入ってきた時は死刑囚のような顔をしていたが、今の彼女は夕暮れ時の別れを惜しむ初々しい恋人のような様相だった。青年は思わず、今すぐ彼女を抱きしめて濡れたウグイス色の目にキスでも落としてしまいたい衝動に駆られるが、それが自分の役割でないことも知っていた。
「……」
「簡単でしょ? 一旦ぜんぶ置いといて、欲しいか欲しくないかでね?」
「………」
 何度も視線を揺らしながら、唇を開閉させながら、レモラは医師のたった二択の問いに答えられずにいる。ブラムは今この場に居ないのに、自分の想いを口に出すことがどうしてもできずにいた。もっと昔の、そう、昔のブラムに初恋をして、顔を真っ赤にしながら告白した17歳の頃よりももっと、今の自分は臆病で、怖がりになっていた。……怖い? 何が?

 不意にゴンゴンと乱暴にドアを叩く音がして、ふたりは椅子の上で飛び上がる。待たせたなー大丈夫かー?とドア越しに響くアレイナの声に、医師は呆れた様子で立ち上がる。
 それを思わず目で追うレモラに、青年は視線を向けて、優しく微笑む。
「ね、自分の気持ちって、どんどん表に出さないと自分でもわかんなくなっちゃうんすよ? 俺いつでも話聞きますし……ブラムさんとも、頑張れる時に話してみてくださいね」
 そういって、アレイナたちを迎えるために診察室のドアに向かっていった。

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