青赤ビートダウン

 診察室をアレイナに引っ張り出されてから、ブラムは呆けた様子で歩を進めていた。と、後ろから彼の膝の裏が勢いよく蹴り上げられる。
「痛! なんです急に!」
 痛みに思わず振り返った先には、不快感を露わにこちらを見上げるアレイナの目があり、ブラムの背に悪寒が走る。日頃からひとを食ってかかった態度をとる彼女だが、こういった表情を見せることは滅多になく、付け加えれば冗談で暴力をふるうようなこともほとんどない。

「おーーーい、てめえのガキ孕んだ女になんてツラさせてやがったァ? ボケが」
 捻り上げるような視線と言葉でなじられる。診察室で痛々しく佇むレモラの姿が思い出され何も言い返せないでいると、チッと舌打ちが聞こえたのと同時に、胸の真ん中を裏手で軽く叩かれる。からっぽの胃に振動が響いて、ぐ、と声を漏らし、せき込む。思わずかがめた身とほぼ同じ高さから伸びてきた腕が、乱雑に顔の左半分のタコアシをかき上げ、その下の大きな傷跡を露わにした。目前に迫ったアレイナの顔に笑みはない。
「いつまでもてめえの事甘やかしてんじゃねーよ。目の前の女ひとり見えてねえんじゃ世話ぁねえぞ」
 ずるずると引っ張りあげられるアシの生え際に、ひきつった傷跡が爪を立てる。腐り落ちた左目の、もうなにもない空虚なそこへ、吐き捨てるようにアレイナは続ける。
「あー違うか、てめえの場合は見えすぎるんだよな。見えるし、気づける分、いらん心配ばっかりして、そうして一周回って目の前をおろそかにしやがる。なァ?」
 金色にギラつく両の目がこちらをうかがっている。強い力で掴みあげられたアシの繊維がプツ、プツと悲鳴を上げるのを感じる。頭一つ分は背の低い元上司の、しかし今は同じ目線にまで自分を引きずり降ろしている彼女の形相に、ブラムはただ睨み返すことでなんとか踏ん張っていた。

 目前のアレイナはため息をついてみせて、よし、はっきりさせようじゃねえか、と前置きしてから問う。

「レモラがお前のガキ孕んだってよ、嬉しくねえの?」
 思いがけず直球な言葉にブラムは面食らって、一瞬息を大きく吸って、吐き出す。

「う、れしいに決まってるじゃないですか!」

 変に力んで顔を赤くしているブラムに、さっきまで険しい顔つきだったアレイナは、一転していつものようにニヤリと笑う。
「そーれがなンで一番に出てこねえんだろうなァー、したらレモラももっといい顔してただろうに」

 そう言って、わし掴みしていたブラムのアシを手離す。解放されたブラムは無理に曲がっていた腰を軽く叩いてから、居心地悪そうにばらばらとタコアシをほぐしはじめた。アレイナは両手を上にやって、やれやれと背伸びをしながら言葉をつなげる。
「まあお前どーせ、昔自分を襲ったのが実の娘だったっぽいって事実だけ伝えて、将来ガキこさえる気があるかとか話すの避けてたんだろ」
「……」
「図星かよ。ッハハ! 40近ぇ男が20そこらの小娘相手に何やってんだか」
「……だからですよ」
 ん?とアレイナはブラムの方を見やる。ブラムは片手で頭をガシガシと掻きむしりながら俯いて言葉をこぼす。
「……子供の話題なんて出したら、もう逃げ場がなくなるじゃないですか」
「うわ、お前」
「彼女の! 僕はレモラ以外考えられませんけど、彼女は……」
「何だそりゃ。浮気でもされたか」
「そういう話では、ないんですが……」
 考えがまとまらないのか、歯切れの悪い言葉しか彼からは出てこない。アレイナはただ腕を組んで続きを待ち、やがてブラムはゆっくりと喋りはじめる。

「僕がいない間、彼女には歳の近しい友人がたくさんできて……そのひとたちといるレモラは本当に活き活きとしていて。ああ、彼女はまだ若い女性なのだと。あれが、彼女の本来あるべき姿なのではと、思う機会が本当に増えて。……僕といて時間を浪費するより、そちらの方が彼女にとって幸せなのではと、思いは、していて、それで」
 途切れ途切れに、しかしひと息に心情を吐露する男を、アレイナはただ見ていた。
 彼女に、とブラムは続ける。
「僕が子供をもうけたいと言えば、彼女は拒みはしないでしょう。でもそれは彼女の未来を、今度こそ僕への義務で縛りつけることになると、……そうなるのが怖い」
「ハ! あの女がお前を選ぶの前提かよ。偉くなったもんだなお前」
 小賢しいバカ同士ほんとお似合いだよ、とアレイナは呆れた様子で首をふる。自身の考えをばっさりと両断されたブラムは思わずそちらを睨み返す。が、言葉にしてみれば、自分の臆病さのためにレモラとの関係に結論を出していないだけだった。
彼女が何も言い出さないことをいいことに、不安の根本から目を逸らしたままその甘い肌に溺れ、結局は彼女の表情を曇らせている。彼女に惹かれる自分に戸惑い、結果レモラを置き去りにしたあの時から何も変わっていない。何事もなかったかのように果物を口に運んでいた今朝の彼女が思い返されて胸が痛かった。

 はあ、とアレイナは大袈裟にため息をついて見せて、しかしまたニヤニヤと下卑た笑みを浮かべてこちらを覗きこむ。
「さっきも言ったけどよ、お前は頭でっかちに先のことばっかり心配しやがる。”今”のお前らがどうしたいかじゃねえのか? ん?」
「……!」
 静かに響いてきたアレイナの言葉に、レモラと暮らすきっかけになった日々を思い出す。あの時自分が言った『自分が欲しいのはビビではなく、目の前のあなたとの未来だ』というレモラへの言葉が不意に蘇ってきて、今度は自分自身の背を押し返しているように感じた。と同時に、その時覚悟した、彼女の身に起きることは今度こそ一緒になって立ち向かうのだという決意も思い起こされる。
 ブラムはもう一度思い切り頭のアシを引っ掻き回して、深呼吸を一つしながらそれを手で後ろに流す。少し前に友人にも言われたことだ、彼女が自分を愛していると言った、その言葉をまず信じていればいい。そして今、もう一度互いに伝え合わなければならない、まずはそれからだった。

 と、そういえばさっきの話は。ふとブラムの口の端に呆れたような笑みが浮かぶ。
「……あれはレモラとふたりきりの時に言ったはずなんですが」
 持ち直した様子のブラムにアレイナはまたニタニタと笑って、もはや答える必要もなかった回答を平然と返す。
「心配すんなィ、音声データはもう削除してあっから」

 そう言ってから、ああそうだ、と言葉を継ぐ。
「もしレモラが無理でも、お前だけはガキに全力で向き合えよ。産まれてくるなら、そいつはお前らの分身じゃねえ、″ひとり″だ。これは絶対だ」
 いつものように笑いながら、しかし強く張り出した声で、そう言った。ビリ、と響く牽制するような語気に、ブラムは思わず背を正す。それはまるで、己の裁量をわきまえない者へ出される第一警告のようだった。
「親からの愛に触れられなかったガキが将来どうなるか。永遠に満たされない心と、失望への恐怖を一生抱えて、滅私奉公の末行きつく先は風呂の底か塀の中だ。……まあ、あたしらはそういう奴らを囲って“頑張って”いただいてんだがな」
 ケケ、とアレイナはいやらしく舌舐めずりしてみせる。ブラムは自分たちの生業が″そう″であることを改めて突きつけられ、同時にこれまでのレモラとの温かな日々を想起する。
「……矛盾してませんか。それならあなたは、自分の利益を減らすようなことを僕に忠告していることになる」
「矛盾ンーー? しねえよォ、簡単だぜ? あたしゃお前らのこと気に入ってんだもんよ」
 怪訝な顔を見せるブラムに、アレイナはあっけらかんとして答える。
「あたしの目の前にいんのは二種類、あたしがそこそこ気に入ってる奴らと、どうでもいい奴らな。どーでもいい奴がどーなろうと知ったこっちゃねえし。気に入ってる奴らには、てめえらが望んでるように生きてくれりゃあいいんじゃねえの、って思うだけよ」

 アレイナは事も無げに言う。例えば金欲しさに死地へ喜んで飛び込む者、いつでも命を投げ出す覚悟があると勝手に誓ってきた者、かつての仲間に追われるのを承知で袂を分かった者、……気に入ってる奴らにも色々いる。そして彼らすべてがその衝動に駆られたまま生き抜けばいい、そのゆく末をあたしは見たい。そう言うことを彼女は言った。
「んで、お前らはお互い″永く一緒に暮らしていたい″んだろ? だったらガキができたかもってだけでそんな、……クヒヒッ、なあ? 見てらんねーわまったく……ッカカカ」
 なにか急にツボにはまったようで、話している途中から耳障りな笑い声が混じる。主張も態度も粗暴な彼女に、諭されたのか小馬鹿にされたのかよくわからない。反論する気も失せて呆れ顔のブラムを見て、目の端の涙を軽くはじきながらアレイナは笑う。
「家族会議! ケッヘヘヘ、楽しみだなァー。ちゃんと話し合えよォー、色男がよォ」
「……会議の前に盗聴器の大捜索ですけどね」
「ッハ! そうかい、まあせいぜい頑張んな!」
 互いの戯言を軽くいなし合いながら、ふたりは診察室へと戻り始めた。


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