青赤ビートダウン

 レモラの分の祝詞の読み上げが終わると、ブラムはそのまま立ち上がって、シンクのすぐ隣にある裏口のドアを開きながら手招きする。誘われるままレモラは立ち上がり外へ顔を覗かせると、外は昨夜から続く雨が、土砂降りまではいかない程度にざあざあと降っていた。ブラムは軒先の端にある雨どいの終点にしゃがみ込み、マグカップに雨をあつめている。しばらくするとカップを引き上げ、雨が染みたのか痛そうに手を服にこすり付ける。そして口の中に指を差し入れ、ずるりと引き出した黒い塊の、彼のインクが滴り落ちるままのそれを、雨水で満たされたカップに沈めた。

「今日が雨で良かった。この後に及んでやり直しなんて格好がつきませんからね」
「雨水じゃないとだめなんですか?」
「僕の家では海水でやっていましたが、雨水が正統だというところもあります。多分、僕らが触って痛い水ならなんでも使えると思いますよ」
 ふーん、とレモラも軒先へ出ていき、カップの中を覗き込む。水底の黒石はとくに変わった様子もなく、沈黙していた。
「……ブラムさんの実家って、実はすごいとこだったりする?」
「さあ?」
 ぽつりと訊ねたレモラに、ブラムはわざとらしくはぐらかす。ふい、と軒先から部屋の中へ戻ってしまったのを、レモラは目で追う。
「……たまたま長く続いていただけの、拝み屋の皮を被った詐欺集団ですよ」
 そう言ってシンクの前に立ちながら、ブラムは石入りのをカップをカラカラと鳴らしていた。レモラは視線を少し下に外しながら、後ろ手に裏口のドアを閉める。
「そう……」
「……また今度、ゆっくり話しましょうか。ほら、おいで」
 気まずそうに萎縮してしまったレモラを、ブラムは静かに微笑みながら呼んだ。

 キッチンのシンクに並んだ二人の間、蛇口の真下に置いたカップの中へ、ブラムは大きめのスプーンを差し入れる。引き上げた石は相変わらず真っ黒だったが、箱から出してすぐの時は無かったはずの細かい粒子の色が見える。え、と声を漏らすレモラの隣、ブラムはそれに蛇口の水をゆっくりと当て、脇に広げていた布巾の上へ転がし、手にとって拭き上げる。簡単に水分を拭き取られただけであるはずの黒石は、雨空の薄暗さの中でもくるりと角度を変えるだけで、内部からうねるように深く煌めいていた。その輝く無数の粒子は、薄い青紫と、暗い赤紫、二人のインクの色である。

「……なにこれ」
「うん、この石は当たりだな。よかった……」
 凹凸に残る水滴を拭き取りながらそうこぼすブラムの、丁寧な手元をじっと眺めながらレモラは訊ねる。
「当たり外れがあるんですか?」
「それはもう、天然石ですから」
「あー……なるほど?」
「はずれの石は、この時点でもほとんど真っ黒のままです」
「あら」
「当たりが出るまで作り直す夫婦も少なくなかったですよ」
「え、あんな、すごい呪文言いながら作るのに?」
「あれを何回もやり直します」
「うわ……それもう完全にありがたみゼロでしょ」
「ふ、でしょう?」
 だから良かったんですよ、とブラムはレモラの手にその石を転がす。本当にこれがあの石だったのだろうかと、自分の記憶を疑うくらいに印象がまるで違う。それは黒というよりは、朝焼けの紫に沈む氷河の断片のようだった。目の前の窓の光に透かしてみると、暗い水底から見上げた時のような光線が、自分たちの色を通って差し込んでいる。ふと、寝付けない幼い弟のために作った手製のプラネタリウムと、それを喜んでくれたきょうだいたちの笑顔を思い出す。嬉しいとか、寂しいとかではない、あんなこともあったなと、ふと思い出した。それだけだった。

「で、これを指輪とかピアスとか、身につけるものにするんですが」
 そう言って石を取り上げようとしたブラムの手を、え、とレモラは反射的に避ける。
「あの、レモラ?」
「……じゃあこれ、割っちゃうんですか?」
「そうです、よ? 二人で身につけるものにするので」
 両手でしっかり石を包み、ブラムの手を拒否するその顔にはくっきりと、嫌、と書いてあった。レモラは数ヶ月に一度ぐらいのタイミングで、傍目から見るとどうでもよさそうなことを頑として譲らない時があるのだが、よりにもよって今それが来るか。ブラムは思わず苦笑する。
「加工して、磨いたらもっと綺麗ですよ?」
「んー」
「……それが気に入りました?」
 むくれた顔のまま、レモラはこく、と頷く。その様子にブラムは諦めたように笑って、シンクに寄りかかる。
「じゃあ、それはそれで、どこか飾っておきましょうか」
「!」
「指輪、か、何かは、今度一緒に買いに行きましょう、きみに似合うものを」
「わ」
 ぱ、とレモラの顔が明るくなり、手の中の石をまた光に透かし始める。子どものような反応に、口角をあげたまま小さくため息をつく。彼女はこんなにもわかりやすい女性だっただろうか? 2ヶ月前の、レモラの作り笑いに胸を痛め続けた男は、もういなかった。

「レモラ」
 ん?、と、満面の笑みでレモラが顔を向ける。
「結婚してください」

 しん、とした部屋に、外の雨音だけが響く。レモラの笑顔が消え、ぽかんとした表情で、紫の石を持つ手はゆっくりとシンクに降りていく。ブラムは穏やかな笑みを浮かべたまま、その透き通った瑪瑙の視線を注いでいる。
「何もかも、順序が逆でしたが」
 あ、と、気の抜けたような声がレモラから発せられる。ブラムは歩み寄って、目の前でぽろぽろとこぼれ落ちていく涙を拭うために、その目尻を優しくなぞる。
「できるだけ長く、生き延びてみましょう、お互いに」
「……はい」

 シンクの上に転がる青と赤の小さな宇宙が、窓からの光を受けて、その銀の舞台の上に星の河を映し出していた。

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