青赤ビートダウン
小箱にお行儀よく納まっていたのは、卓球の球よりひと回り小さいくらいの、ごつごつとした黒い石だった。表面にツヤがほとんど見えないのに、手に取ってみるとつるつるとした触り心地なのが、脳を少しだけ混乱させる。そしてその色は、夜よりも、悪夢よりも深い黒だった。
正直、銀に輝く指輪を期待していたレモラは予想外の光景に面食らったのだが、見れば見るほど不思議な魅力を放つその石は興味深く、物珍しそうに眺め回す。そうしていて、ふと思い出したようにブラムの方を見る。見れば、さっきのあれ?という表情のまま、彼は固まっているのである。なにかおかしい、さっきまでのドラマのような雰囲気に全く似合わない、戸惑いの空気。
「あの、ブラムさん? これって?」
「え……墨染石 、です。……が?」
聞きなれない単語にレモラは首を傾げる。明らかに狼狽しているブラムの顔には、こんなはずでは、とくっきり書いてあった。その絶望的な雰囲気に、嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、努めてレモラは明るい笑顔をつくってみせる。
「あー、えっと……ぼくせんせき、って、初めて聞くんですが、あの、不思議な石ですね?」
「グォ」
「え」
その言葉は決定打のようだった。みる間にブラムの顔が青ざめていく。
「……初めて、聞く?」
「……ええ」
誤魔化したところで何の足しにもならない。意を決して伝えた、知らないと言うレモラの回答に、今度はブラムが顔を両手で覆い隠す番だった。
「まじか……」
蚊の鳴くような声で漏れ出た彼の声は、日頃の洗練された口調からは想像もできないような、等身大の男の声だった。初めて見るブラムの無防備な姿に、レモラは胸が強く脈打つのを感じる。乗せていた脚を下ろし、項垂れる彼と膝を突き合わせる。
「ブラムさん、その……ごめんなさい。この石のことはよく知らないんだけど、これって、あの、そういうこと……?」
おずおずと訊ねるレモラの言葉に、ブラムは両手を半分滑らせて、口だけ覆ったままの格好で応答する。
「……すみません、なんでこう、ここぞという場面で毎回酷いことになるのか」
「あっそんな、わたしが知らないだけかもだし……!」
「変だと思ったんですよ。店の隅の方でやっと見つけたぐらいでしたし、……やっぱり素直に指輪にしておけば……」
「あー、えっと、そのー」
ぶつぶつと、カビでも生えてきそうな陰鬱さがブラムの周囲に渦巻いている。かわいい、なでまわして慰めてあげたいという衝動をレモラは必死に抑えつけ、言葉をつぐ。
「け、結局これってどういうものなんですか? なんか、あの、ちゃんと理由があって用意してくれたんでしょ?」
レモラからの必死のフォローの甲斐あって、ブラムは一度ため息をついて顔を上げ、ゆっくりと背筋を伸ばす。ポケットから携帯端末を取り出し、横並びでレモラに画面を見せながら操作する、それはごく普通のネット検索画面だった。
「……僕の育った地域では、結婚の時にこの石を使っていたんです。かなり古くからの風習だったそうで、……その、正直、僕自身の憧れもかなりありはしますが。多分、全く知られていないわけではないと思うので……」
すいすいと滑る画面の情報の中に、件の『墨染石』の文字を発見する。それは喜ばしいことに、結婚情報サイトでの様々な式の種類を紹介するページだった。
『石染式 …
一部のオクトリングに古くから伝わる、由緒正しい結婚の様式です。墨染石(ぼくせんせき)という特殊な鉱石を新郎新婦が口に含んで互いにインクを染み込ませ、ご両家の縁を結ぶ催しが特徴です。近年では墨染石の産出自体が減り、取り扱いのある式場もかなりレアですが、ご年配のご家族がいる方に特に喜ばれる格式高い結婚です。』
『ご年配の』
ちら、とレモラが目だけ向けると、右手で目を覆うブラムがいた。いっそ哀れなこの惨状に、レモラの庇護欲は更にくすぐられていくのだが、力なく端末をテーブルに置きうなだれるブラムの、かろうじて残っているであろう矜持の心をへし折る訳にはいかなかった。
「あの、な、なんか格式高いとか書いてあるし、きっと、素敵な式なんです、ね?」
「すみません……本当にもう……」
「いや、いや、あの、ね? この石も産出が減ってるって書いてあるし、手に入ってよかったじゃないですか!」
「僕はまた独りよがりなことを……優先すべきはきみが喜ぶかどうかだというのに……」
完全に意気消沈した様子のブラムはヒト形態を保つのがやっととでもいうような有様で、テーブルに突っ伏して小さくなってしまった。レモラは正直そこまで気にしてはいないのだが、見たこともないようなブラムの憔悴し様に動揺したのもあって、多少思い切った行動に出た方がいいのでは?という結論に至る。
「えっとー、とりあえず、これを口に入れたらいいのね?」
「えっ、あっ」
ブラムは勢いよく顔を上げ、レモラがひょいと口に石を放り込んだのを見て、にわかに慌てだす。
「ちょっ、待て、待って」
ブラムの焦りはレモラにも伝染する。えっ?と声を漏らしそうになるが、それを見咎めたブラムの手に、口を塞がれる。
「……すみませんでした。とりあえず、口に含んでいる間は、喋らないように。そういう、決まりです」
そう静かに諭すブラムにレモラは何度か小さく頷く。よし、と塞ぐ手を離し、また携帯端末を手に取ってなにか急いで入力し始める。
「祝詞があるんです、これをやる時の、呪文というか、決まり文句が。僕が先に言いますから、終わったら口移しで石を僕にください。そしたら君の分も言ってもらって、終わりです。ちょっと待ってください、すぐ書き起こします」
つらつらと聞かされる手順に目を白黒させながら、ふと、……なんか口移しとか言わなかった?とレモラは気づく。突っ込みたかったが、目の前で端末を操作するブラムの目は真剣そのもので、喋るなと言われたこともあり、意見する機会を完全に見失ってしまった。やがて文字起こしが終わったのか、ブラムは端末から目を上げて、一つ息をついてから、その両手でレモラの両手を包み、柔らかく力をこめる。
「『母なる大地、父たる天球へ、今日(こんにち)まで私たちを健やかに育んでくれたことを感謝いたします。すべてを産み出した始祖たる海原へ、私たちの巡り合わせをお許しいただいたことを光栄に思います。
私は彼女の武器であり、眼前の敵を打ち倒すことによって、彼女の平和を守ります。私の死はすなわち彼女の死であり、その先に続くすべての子孫たちの死であることを知っています。彼女らの平和が永劫となるよう、私は生涯をもってこれに殉じます』」
標準語ではない、朗々と響く聴き馴染みのない言語にレモラは圧倒される。それは年配のオクトリングでももう滅多に話さない古いタコ語で、すごみを効かせるような発音のそれを流暢に操るブラムの姿は、彼のルーツが自分とは全く違うのだということを、ある種の新鮮さでもってレモラに知らしめていた。
声がやみ、手の甲を軽くたたいてブラムが合図をする。完全に彼に見とれていたレモラは手順なんて意識の外で、急にきた合図にやっと我に帰ったようだった。地に足のついていないレモラの様子を見かねて、ブラムは彼女のあごに手をよせる。近づいてくる彼の顔にすべて思い出したレモラは、緊張感と羞恥とで目を閉じながら、口を大きく開けてそれを迎えいれる。
かろん、かつん、と、歯にぶつかる石を舌で送り出し、ブラムの舌がそれを絡めとるのに小さく息を漏らしながら、唇を離した。口の端に垂れた唾液を中指で拭う。ブラムは少し熱の灯った目でそれを見ながら、手元の端末をレモラに示す。画面にはまず『相手の手を両手で握りながら言う』『大筋が同じなら言いやすい言葉で良い』と書いてあり、その後にはイカ語ではあるものの小難しい言い回しの文章が続いていた。レモラはざっと目を通しながら端末ごとブラムの両手を包み、言葉を紡ぐ。
「……すべてを、覆い隠す終焉たる海原へ、未だ私たちをお目こぼしいただいていることを感謝いたします。海で産まれた祖先たちが海へ帰らないことを選んだように、私たちが歩む道のりを誰も止めることはできないでしょう。
私は彼の家であり、彼に生命の実りと安らぎを与えます。私の生は彼の生であり、その先に続くすべての子孫たちの始まりであることを知っています。彼らの戦いを勝利へと導けるよう、私は生涯をもってこれに、殉じます……
し、」
何か言葉を続けるレモラに、ん?、とブラムは顔を上げる。
「私も、あなたと一緒に戦います。……ていうか、戦闘なら私の方が強いわ?」
上目遣いで、挑むように笑うレモラに、ふっと軽く鼻を鳴らして、ブラムも頷いた。
正直、銀に輝く指輪を期待していたレモラは予想外の光景に面食らったのだが、見れば見るほど不思議な魅力を放つその石は興味深く、物珍しそうに眺め回す。そうしていて、ふと思い出したようにブラムの方を見る。見れば、さっきのあれ?という表情のまま、彼は固まっているのである。なにかおかしい、さっきまでのドラマのような雰囲気に全く似合わない、戸惑いの空気。
「あの、ブラムさん? これって?」
「え……
聞きなれない単語にレモラは首を傾げる。明らかに狼狽しているブラムの顔には、こんなはずでは、とくっきり書いてあった。その絶望的な雰囲気に、嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、努めてレモラは明るい笑顔をつくってみせる。
「あー、えっと……ぼくせんせき、って、初めて聞くんですが、あの、不思議な石ですね?」
「グォ」
「え」
その言葉は決定打のようだった。みる間にブラムの顔が青ざめていく。
「……初めて、聞く?」
「……ええ」
誤魔化したところで何の足しにもならない。意を決して伝えた、知らないと言うレモラの回答に、今度はブラムが顔を両手で覆い隠す番だった。
「まじか……」
蚊の鳴くような声で漏れ出た彼の声は、日頃の洗練された口調からは想像もできないような、等身大の男の声だった。初めて見るブラムの無防備な姿に、レモラは胸が強く脈打つのを感じる。乗せていた脚を下ろし、項垂れる彼と膝を突き合わせる。
「ブラムさん、その……ごめんなさい。この石のことはよく知らないんだけど、これって、あの、そういうこと……?」
おずおずと訊ねるレモラの言葉に、ブラムは両手を半分滑らせて、口だけ覆ったままの格好で応答する。
「……すみません、なんでこう、ここぞという場面で毎回酷いことになるのか」
「あっそんな、わたしが知らないだけかもだし……!」
「変だと思ったんですよ。店の隅の方でやっと見つけたぐらいでしたし、……やっぱり素直に指輪にしておけば……」
「あー、えっと、そのー」
ぶつぶつと、カビでも生えてきそうな陰鬱さがブラムの周囲に渦巻いている。かわいい、なでまわして慰めてあげたいという衝動をレモラは必死に抑えつけ、言葉をつぐ。
「け、結局これってどういうものなんですか? なんか、あの、ちゃんと理由があって用意してくれたんでしょ?」
レモラからの必死のフォローの甲斐あって、ブラムは一度ため息をついて顔を上げ、ゆっくりと背筋を伸ばす。ポケットから携帯端末を取り出し、横並びでレモラに画面を見せながら操作する、それはごく普通のネット検索画面だった。
「……僕の育った地域では、結婚の時にこの石を使っていたんです。かなり古くからの風習だったそうで、……その、正直、僕自身の憧れもかなりありはしますが。多分、全く知られていないわけではないと思うので……」
すいすいと滑る画面の情報の中に、件の『墨染石』の文字を発見する。それは喜ばしいことに、結婚情報サイトでの様々な式の種類を紹介するページだった。
『
一部のオクトリングに古くから伝わる、由緒正しい結婚の様式です。墨染石(ぼくせんせき)という特殊な鉱石を新郎新婦が口に含んで互いにインクを染み込ませ、ご両家の縁を結ぶ催しが特徴です。近年では墨染石の産出自体が減り、取り扱いのある式場もかなりレアですが、ご年配のご家族がいる方に特に喜ばれる格式高い結婚です。』
『ご年配の』
ちら、とレモラが目だけ向けると、右手で目を覆うブラムがいた。いっそ哀れなこの惨状に、レモラの庇護欲は更にくすぐられていくのだが、力なく端末をテーブルに置きうなだれるブラムの、かろうじて残っているであろう矜持の心をへし折る訳にはいかなかった。
「あの、な、なんか格式高いとか書いてあるし、きっと、素敵な式なんです、ね?」
「すみません……本当にもう……」
「いや、いや、あの、ね? この石も産出が減ってるって書いてあるし、手に入ってよかったじゃないですか!」
「僕はまた独りよがりなことを……優先すべきはきみが喜ぶかどうかだというのに……」
完全に意気消沈した様子のブラムはヒト形態を保つのがやっととでもいうような有様で、テーブルに突っ伏して小さくなってしまった。レモラは正直そこまで気にしてはいないのだが、見たこともないようなブラムの憔悴し様に動揺したのもあって、多少思い切った行動に出た方がいいのでは?という結論に至る。
「えっとー、とりあえず、これを口に入れたらいいのね?」
「えっ、あっ」
ブラムは勢いよく顔を上げ、レモラがひょいと口に石を放り込んだのを見て、にわかに慌てだす。
「ちょっ、待て、待って」
ブラムの焦りはレモラにも伝染する。えっ?と声を漏らしそうになるが、それを見咎めたブラムの手に、口を塞がれる。
「……すみませんでした。とりあえず、口に含んでいる間は、喋らないように。そういう、決まりです」
そう静かに諭すブラムにレモラは何度か小さく頷く。よし、と塞ぐ手を離し、また携帯端末を手に取ってなにか急いで入力し始める。
「祝詞があるんです、これをやる時の、呪文というか、決まり文句が。僕が先に言いますから、終わったら口移しで石を僕にください。そしたら君の分も言ってもらって、終わりです。ちょっと待ってください、すぐ書き起こします」
つらつらと聞かされる手順に目を白黒させながら、ふと、……なんか口移しとか言わなかった?とレモラは気づく。突っ込みたかったが、目の前で端末を操作するブラムの目は真剣そのもので、喋るなと言われたこともあり、意見する機会を完全に見失ってしまった。やがて文字起こしが終わったのか、ブラムは端末から目を上げて、一つ息をついてから、その両手でレモラの両手を包み、柔らかく力をこめる。
「『母なる大地、父たる天球へ、今日(こんにち)まで私たちを健やかに育んでくれたことを感謝いたします。すべてを産み出した始祖たる海原へ、私たちの巡り合わせをお許しいただいたことを光栄に思います。
私は彼女の武器であり、眼前の敵を打ち倒すことによって、彼女の平和を守ります。私の死はすなわち彼女の死であり、その先に続くすべての子孫たちの死であることを知っています。彼女らの平和が永劫となるよう、私は生涯をもってこれに殉じます』」
標準語ではない、朗々と響く聴き馴染みのない言語にレモラは圧倒される。それは年配のオクトリングでももう滅多に話さない古いタコ語で、すごみを効かせるような発音のそれを流暢に操るブラムの姿は、彼のルーツが自分とは全く違うのだということを、ある種の新鮮さでもってレモラに知らしめていた。
声がやみ、手の甲を軽くたたいてブラムが合図をする。完全に彼に見とれていたレモラは手順なんて意識の外で、急にきた合図にやっと我に帰ったようだった。地に足のついていないレモラの様子を見かねて、ブラムは彼女のあごに手をよせる。近づいてくる彼の顔にすべて思い出したレモラは、緊張感と羞恥とで目を閉じながら、口を大きく開けてそれを迎えいれる。
かろん、かつん、と、歯にぶつかる石を舌で送り出し、ブラムの舌がそれを絡めとるのに小さく息を漏らしながら、唇を離した。口の端に垂れた唾液を中指で拭う。ブラムは少し熱の灯った目でそれを見ながら、手元の端末をレモラに示す。画面にはまず『相手の手を両手で握りながら言う』『大筋が同じなら言いやすい言葉で良い』と書いてあり、その後にはイカ語ではあるものの小難しい言い回しの文章が続いていた。レモラはざっと目を通しながら端末ごとブラムの両手を包み、言葉を紡ぐ。
「……すべてを、覆い隠す終焉たる海原へ、未だ私たちをお目こぼしいただいていることを感謝いたします。海で産まれた祖先たちが海へ帰らないことを選んだように、私たちが歩む道のりを誰も止めることはできないでしょう。
私は彼の家であり、彼に生命の実りと安らぎを与えます。私の生は彼の生であり、その先に続くすべての子孫たちの始まりであることを知っています。彼らの戦いを勝利へと導けるよう、私は生涯をもってこれに、殉じます……
し、」
何か言葉を続けるレモラに、ん?、とブラムは顔を上げる。
「私も、あなたと一緒に戦います。……ていうか、戦闘なら私の方が強いわ?」
上目遣いで、挑むように笑うレモラに、ふっと軽く鼻を鳴らして、ブラムも頷いた。