青赤ビートダウン
遠くで降る雨の音で目が覚める。レモラは呼吸をひとつして身じろぎすると、右足がぶらりと落ちてしまいそうになり、慌てて起き上がる。彼女が起きたのは1階事務所の応接ソファーの上で、半分赤く染まっているゲソが視界の端でずり落ちていった。後ろの正面玄関からはさらさらと雨の流れる音がする。
「レモラ?」
奥のキッチンから、昨日の服を雑に着なおした様子のブラムが顔を覗かせる。そういえば今自分は何も着ていない、本来2階の寝室にあるはずの薄い毛布になぜかくるまっている、それだけである。
「……んん、ん?」
「おはよう。ちょうどお茶が入りますよ」
んー……と、まだはっきりしない頭で足元の靴を探す。ヒールのあるサンダルのストラップをぱちぱちと留め、毛布を簡単に身体に巻きつけながら立ち上がった。横目にその所作を眺めていたブラムは嘆息する。
「素晴らしいな……」
「……んぇ?」
いえ何でも、と短く切り上げて、ブラムはそそくさと引っ込んでいく。その微妙な不自然さにレモラは眉を少しだけ吊りあげる。彼のああいう、ふとした時に見せる生臭い情欲の切れはしが、鬱陶しくもあり、愛おしくもあった。
キッチンでは、ブラムがティーポットから茶を注いでいた。狭いテーブルの、背もたれのある方の椅子へレモラは腰掛け、横から湯気のたちのぼるマグカップが置かれる。カフェインを含まないその茶葉はまだまだ缶の半分くらい残っているのだが、控えめな香りがなかなかどうして心地よく、最近はブラムもよく淹れて飲むようになっていた。
「ありがと。わたし、昨日あのまま寝ちゃってました?」
「そうですね」
「全っ然覚えてない、これとか」
くい、と、胸元の毛布を引っ張って示しながら、ついでに谷間をちらつかせる。湯気にむせたのかブラムは急に2、3度咳き込んで、レモラは満足げに微笑んだ。
「その、きみを抱き上げて2階に運べるだけの、腕力が、僕にあればよかったんですが」
「あー、まぁ……」
「……なんです、その声は」
「え、言い出したの自分じゃないですか」
「自分で言うのときみに言われるのはわけが違うんですよ」
「ふふ、なにそれ」
くすくすと、カップの中身を飲みながらレモラは笑う。ブラムは諦めたように肩をすくめて、先に飲み干していたらしい自分のカップを蛇口の水ですすぎ始めた。
「まあ、ブラムさんもいい歳ですから」
「年齢は関係ないでしょう」
「ありますよぉー?、多分」
む、と振り返った彼の顔には反抗の色が浮かんでいる。蛇口の水を止め、テーブルの向かいにあった丸椅子を拾って、レモラの隣に置く。
「……まあ、そうですね」
「あら、認めますぅ?、おじさま?」
両肘をつき、カップを両手で持ったまま薄く笑うレモラの、すぐ右隣にブラムは腰かける。彼女の右手を掴み、自分の首の後ろへそれをひっかける。
「もし、僕がもう少し若くて、背も高かったらですね」
「あらまあ」
「君をこう、颯爽とお姫様だっこしてですね」
言うが早いか、毛布にほとんど隠れていない両足を、ぐるりと回して膝の上に引き上げる。きゃ、と小さく悲鳴をあげてから、レモラは妖しい笑みを浮かべて、左手のマグカップをテーブルに置く。空いた左手を彼の首元に這わせ、後ろで彼に誘導された右手と結びあわせた。
「んふふ……素敵」
その煽るような笑みに、ブラムはにやりと不敵な笑みを浮かべて、軽く口づける。何か空気の変わった様子に気づいた彼女の頭を、優しく撫でながら、耳元に囁く。
「……『いい加減オレを選べよ、昔の男なんか忘れさせてやっから』」
「えっ」
「ん?」
「……あっ、えっ!?!?」
聞き覚えのある響きに一瞬思考が止まり、次の瞬間には一気に頭に血がのぼる。目の前の男が口にしたのは、幼い頃繰り返し観た、なんなら昨日観た、例のあの映画のキスシーンの台詞だった。
「なん、そっ、えっ!?」
なんでその台詞を、と言いたい言葉が、充血した喉でつっかえて出てこない。勝ち誇ったように笑うブラムの顔は、映画の主演俳優とは似ても似つかない、悪魔のようなそれだった。
「昨夜観たんですよ、きみが寝てる間に。言ってしまえばきみの初恋の相手でしょう? どんな奴か見てやろうと。ネットの映像配信は本当便利で助かりますね」
「ぃ、ぁ、ぅえ、その」
「この前の連ドラに出てましたね、彼。軟派に見えつつ一途な性格の男性が好きなんでしょう? ああ、そういえばきみが粉をかける男はどいつもこいつも細身で背の高い奴ばっかり」
「やだやだやだごめんなさいまって」
自分の恥部を執拗に舐め回すような悪魔の声に、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。しかし、脚を取られ、肩に手を回されたこの体勢では、逃げ場などどこにもない。羞恥にめった撃ちにされたレモラは、真っ赤な顔を両手で覆い隠してちぢこまることしかできなかった。
その時不意に、ゴト、と何か重みのある音がする。違和感に気づき、おそるおそる目だけを覗かせたレモラの視界に映ったのは、テーブルに置かれた小箱だった。片手におさまるくらいの大きさの、ベロアの布地が張られた、どれだけ勘の悪いひとでも一発で″そう″だとわかるような、箱。
雨音だけが遠く響く部屋で、呆然と、顔を赤くしたままのレモラが見上げている。暖かな眼差しで彼女に微笑むブラムは、右手をそれへ差し向け、どうぞ、と無言で頷いた。促され、レモラは震える指でそれを取り、こぼれ落ちないように両手で包みながら、ゆっくりと開く。
その中には、真っ黒な小石が鎮座していた。
ん?、と疑問符の浮いた頭でレモラは視線だけをちら、と上げる。
ブラムは、……あれ?、と言う間の抜けた声が聞こえてきそうな、焦りの滲んだ顔をしていた。
「レモラ?」
奥のキッチンから、昨日の服を雑に着なおした様子のブラムが顔を覗かせる。そういえば今自分は何も着ていない、本来2階の寝室にあるはずの薄い毛布になぜかくるまっている、それだけである。
「……んん、ん?」
「おはよう。ちょうどお茶が入りますよ」
んー……と、まだはっきりしない頭で足元の靴を探す。ヒールのあるサンダルのストラップをぱちぱちと留め、毛布を簡単に身体に巻きつけながら立ち上がった。横目にその所作を眺めていたブラムは嘆息する。
「素晴らしいな……」
「……んぇ?」
いえ何でも、と短く切り上げて、ブラムはそそくさと引っ込んでいく。その微妙な不自然さにレモラは眉を少しだけ吊りあげる。彼のああいう、ふとした時に見せる生臭い情欲の切れはしが、鬱陶しくもあり、愛おしくもあった。
キッチンでは、ブラムがティーポットから茶を注いでいた。狭いテーブルの、背もたれのある方の椅子へレモラは腰掛け、横から湯気のたちのぼるマグカップが置かれる。カフェインを含まないその茶葉はまだまだ缶の半分くらい残っているのだが、控えめな香りがなかなかどうして心地よく、最近はブラムもよく淹れて飲むようになっていた。
「ありがと。わたし、昨日あのまま寝ちゃってました?」
「そうですね」
「全っ然覚えてない、これとか」
くい、と、胸元の毛布を引っ張って示しながら、ついでに谷間をちらつかせる。湯気にむせたのかブラムは急に2、3度咳き込んで、レモラは満足げに微笑んだ。
「その、きみを抱き上げて2階に運べるだけの、腕力が、僕にあればよかったんですが」
「あー、まぁ……」
「……なんです、その声は」
「え、言い出したの自分じゃないですか」
「自分で言うのときみに言われるのはわけが違うんですよ」
「ふふ、なにそれ」
くすくすと、カップの中身を飲みながらレモラは笑う。ブラムは諦めたように肩をすくめて、先に飲み干していたらしい自分のカップを蛇口の水ですすぎ始めた。
「まあ、ブラムさんもいい歳ですから」
「年齢は関係ないでしょう」
「ありますよぉー?、多分」
む、と振り返った彼の顔には反抗の色が浮かんでいる。蛇口の水を止め、テーブルの向かいにあった丸椅子を拾って、レモラの隣に置く。
「……まあ、そうですね」
「あら、認めますぅ?、おじさま?」
両肘をつき、カップを両手で持ったまま薄く笑うレモラの、すぐ右隣にブラムは腰かける。彼女の右手を掴み、自分の首の後ろへそれをひっかける。
「もし、僕がもう少し若くて、背も高かったらですね」
「あらまあ」
「君をこう、颯爽とお姫様だっこしてですね」
言うが早いか、毛布にほとんど隠れていない両足を、ぐるりと回して膝の上に引き上げる。きゃ、と小さく悲鳴をあげてから、レモラは妖しい笑みを浮かべて、左手のマグカップをテーブルに置く。空いた左手を彼の首元に這わせ、後ろで彼に誘導された右手と結びあわせた。
「んふふ……素敵」
その煽るような笑みに、ブラムはにやりと不敵な笑みを浮かべて、軽く口づける。何か空気の変わった様子に気づいた彼女の頭を、優しく撫でながら、耳元に囁く。
「……『いい加減オレを選べよ、昔の男なんか忘れさせてやっから』」
「えっ」
「ん?」
「……あっ、えっ!?!?」
聞き覚えのある響きに一瞬思考が止まり、次の瞬間には一気に頭に血がのぼる。目の前の男が口にしたのは、幼い頃繰り返し観た、なんなら昨日観た、例のあの映画のキスシーンの台詞だった。
「なん、そっ、えっ!?」
なんでその台詞を、と言いたい言葉が、充血した喉でつっかえて出てこない。勝ち誇ったように笑うブラムの顔は、映画の主演俳優とは似ても似つかない、悪魔のようなそれだった。
「昨夜観たんですよ、きみが寝てる間に。言ってしまえばきみの初恋の相手でしょう? どんな奴か見てやろうと。ネットの映像配信は本当便利で助かりますね」
「ぃ、ぁ、ぅえ、その」
「この前の連ドラに出てましたね、彼。軟派に見えつつ一途な性格の男性が好きなんでしょう? ああ、そういえばきみが粉をかける男はどいつもこいつも細身で背の高い奴ばっかり」
「やだやだやだごめんなさいまって」
自分の恥部を執拗に舐め回すような悪魔の声に、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。しかし、脚を取られ、肩に手を回されたこの体勢では、逃げ場などどこにもない。羞恥にめった撃ちにされたレモラは、真っ赤な顔を両手で覆い隠してちぢこまることしかできなかった。
その時不意に、ゴト、と何か重みのある音がする。違和感に気づき、おそるおそる目だけを覗かせたレモラの視界に映ったのは、テーブルに置かれた小箱だった。片手におさまるくらいの大きさの、ベロアの布地が張られた、どれだけ勘の悪いひとでも一発で″そう″だとわかるような、箱。
雨音だけが遠く響く部屋で、呆然と、顔を赤くしたままのレモラが見上げている。暖かな眼差しで彼女に微笑むブラムは、右手をそれへ差し向け、どうぞ、と無言で頷いた。促され、レモラは震える指でそれを取り、こぼれ落ちないように両手で包みながら、ゆっくりと開く。
その中には、真っ黒な小石が鎮座していた。
ん?、と疑問符の浮いた頭でレモラは視線だけをちら、と上げる。
ブラムは、……あれ?、と言う間の抜けた声が聞こえてきそうな、焦りの滲んだ顔をしていた。