青赤ビートダウン

 レモラの視線を受けとめながら、ブラムは目線をやや下にやりつつ自分のタコアシをまとめ始める。慣れた手つきで整えられ、見る間に出来上がったヘアスタイルは”当時”のブラムのものだった。それは顔の真ん中に垂れる壊死した一本と、左目の大きな傷が露わになっている。痛々しいその跡が嫌でも目に留まるようなかっこうで、普段見慣れているはずのレモラも直視するのに抵抗をおぼえた。ただそれは醜いものへの忌避ではなく、彼の心の傷に指を差し入れ、まだ湿り気のあるそれをこじ開けてしまうような、背徳感と征服欲への抵抗だった。

 ブラムは普段よりも口を固く結び、電球のオレンジ色の中で、冬空のような瑪瑙の目を揺らめかせている。彼はブラシを持ったまま、す、と両手をさしだしてみせた。その姿にレモラの鼻の奥がつんとする。それは恋人だった”当時”、睦み合った後の乱れたゲソを結いなおす前の、自分を迎え入れてくれる腕の動作だった。表情はやや固く、目にはまだほんの少しためらいをにじませながら、それでも眼差しは柔らかく向けられていた。レモラも腹をくくり、距離をつめてからくるりと背を向けて座る。背後の男を背中全体で意識しながら、少しあごを引いて、彼の手がゲソに触れるのを待つ。何度もされてきたことのはずなのに、膝の上で重ねた指は熱をもってどくどくと脈打っていた。

 しかし、しばらく待ってもゲソへの感触はなかなか訪れなかった。
「……ブラムさん?」
 少しだけ振り返ろうとした両肩に、後ろから静かに手を置かれる。頭を垂れているのだろう、ぺちょ、と後頭部のゲソに彼が染みていくのを感じる。身体の芯に刺しこまれるくすぐったさが、今だけは返事をはぐらかす甘言のように思えて、不快だった。
「……この手入れのときが」
 やっと聞こえた背後の声に、レモラは思わず目を見開く。消え入りそうなそれは、抑えきれない嗚咽に少し震えていた。
「僕は好きだった。僕の手で乱れきった後のきみが、今度はきれいに整えられていくのが、本当に、好きで……」
 ぐずぐずと、彼の体温が背中に溶けていく。自分の身体の奥底を刺激するこの生ぬるい痛みが、インクなのか、それ以外なのか、わからなかった。

「……すまない、やっぱり、君の顔は思い出せそうにない」

 やがて漏れ出た懺悔の言葉に、女は全身を震わせていた。少し首をひねって彼の頭をゲソごとずらし、少しだけ振り返ってみる。自分を見つめる男の目に涙はなかったが、その表情は初めて失恋を経験した少年のようだった。
「……思い出そうと、してくれたの」
「けど、だめだ。やっぱり無駄だった」
「……いいの」
 女はそう言って、背中を向けなおす。後ろ手に自分のゲソを持ち上げ、右手で一束にまとめていく。
「こう、このくらいの高さで、ひと結びにしてたの。……やって?」
 促す声に、背後の男が動く気配がする。幅広で量もあるゲソをまとめて結ぶのは慣れていないと難しいはずなのだが、やってみれば、男の手はあっさりとそれをやってのけた。ほう、と感嘆の息を漏らしながら、男は彼女のゲソを手の甲でなぜる。
「……もう少し、長かったような」
「えっ」
 急に振り向いた女は、驚きの表情で彼を見る。
「そう、なの。昔はもうちょっと長くて……先を炙って、巻いてたから」
「え……」
 意識せずに言った言葉を拾い上げられて、男も驚きを隠せない。女の顔を見つめて、しばらくすると我に返ったように視線をはずしてしまう。
「……なんで、切ったんです?」
 彼が話題をそらすように言ったその言葉こそ、核心だった。

「……全部捨てたかったから」

 苦しげに絞り出された声に、男の表情がこわばる。目を閉じ、深呼吸をして女に向き直った表情に、もう迷いはなかった。

「すまなかった」
 女の目をまっすぐ見て、そう言った。
「許さなくていい。事実、僕がやっていたことは最低だった。僕に好意をもった女性全員に、わざとどっちつかずの態度をとって、期待や不安を煽っていた。……顔も知らない実の娘に、明確な殺意を持たれるほど、最低なことをしてきた。自分の見栄のためにきみを遠ざけて、結局そのまま何年も経つことになった。……卑怯なやつだ、今日の今日まで、このことを話すのすら怖がって、君から逃げた」
 女はただ、静かに聞いていた。思い出の頃よりも老けて、当時の自信過剰なほどの快活さがすっかり失われた声だった。それでも目の前の彼は、間違いなく、″彼″だった。
「ビビ」
 昔の名だ、かつて死んでしまった彼とともに棄てた名だ。彼が私につけた店での源氏名だ、昔彼が飼っていたという熱帯魚の名だ。彼が私を支配する名。彼が私に初めて贈ってくれたもの。
 ゆっくりと、彼の手が私の背を抱く。

「きみが、ずっと好きだった」

 寸分の濁りもない愛の告白を前に、女は彼の胸に顔をうずめていた。

「……ほんとうに?」
「はい」
 真下から聞こえるくぐもった女の声に、男は穏やかに返事をする。
「いつから?」
「……きみと別れる2週間前くらいから」
「それまで付き合ってた2年間は?」
「正直、こんな感情は持ってなかった」
「サイテー」
「本当にすまない」
「……いいわ」
 彼の胸を軽く押しのけて、彼女は顔を上げる。互いに笑顔はない。
「今は好きなんでしょ?」
「心から」
「ほんと?」
「そんなに嘘に聞こえるかな」
「聞こえるの。この前科者」
 手厳しい、と男は苦笑する。女は不機嫌そうな顔で、その頬をぱちりと叩く。はたかれて、む、と真顔になった男は、しばらく見つめ合った後、軽く音を鳴らしてキスを落とす。
「……好きです。まだ足りない?」
 女は急な口付けに少し赤くなりながら、その挑むような表情は変わらない。

「そう、全然足りないの。……もう一回言って」
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