青赤ビートダウン

 覆いかぶさった体勢のまま、ブラムは硬直している。レモラ自身、わけがわからないほどに溢れてくる涙をどうすることもできずにいた。荒い息で胸を上下させながら何度も目をこすっていると、ゆっくりと上体を起こされ、彼の肩におでこが着地する。背中を一定のリズムで撫で下ろされ、やっと涙が止まった頃には呼吸も落ち着いていた。
「……本当に、すみません……言い訳のしようがない」
 苦々しく響いた謝罪の声に、肩の上で首を振ってみせる。嫌ではなかった、全然、むしろそのつもりでいたはずだった。すべてをむさぼりつくされそうな口付けを受けて、身体の奥底から安堵と喜びが湧き上がっている。しかし、それはまったく同じタイミングで黒々と塗りつぶされていた。あの日、かつて恋人として最後にすごした18歳の誕生日が、ヘドロのように奥底から噴き出して、今のレモラの脳裏をじくじくと侵食し、焦がしていた。

「……いってほしくなかったの」
 絞り出すような細い声に、ブラムは身体をはなし、両手を握って語りかける。
「ええ、ずっと居ますよ」
 泡菓子のような優しい約束の言葉に、のどの奥がざわめきだす。ぎっと、目の前の男を見据えて、万感の思いをたたきつける。
「……ーーーッ、ちが、う、本当は! 別れたくなかったの!」
 痛々しい悲鳴のような叫びだった。別れた、という単語に、ブラムの目が見開かれる。
「レモ……、きみは……」
 握られたままの彼女の両手が、ぶるぶると震えている。恐怖や悲哀ではない、彼女の全身を駆け巡っていたのは、眼前の愛する男への、忌々しいほどに憎い男への怒りだった。

「あなたが、すき好んで私をほったらかしたんじゃないって、もう聞いたから、知ってる、けど……けど、でも……! それなら……それじゃあ、わたしが」
 傷つけたくない、こんなことを言って今更何にもならない。わかっていた、わたしはこう見えて物分かりがいいから。だから、あの時だって、笑ってあなたとの別れを受け入れてみせた。

「わたしが……! あ、あなたに捨てられたと、思って、ずっと……、ずっと苦しかったのを、わたしはどう、どうしたらいいの!!」

 ブラムは愕然として、固まっていた。ぼろぼろと、また涙が溢れて止まらない。涙も、感情も。この男のせいで。
「あなた、わたしとのことを、きれいな思い出みたいに語るけど……! そのときわたしが、どんな、気持ちで……」
 わたしだって、いっそ忘れてしまいたかった。実際、忘れようとした。強盗騒ぎに乗じて店を抜け出して、新しい名を名乗って、新しい男を何人もつくった。それなのに、あろうことかあなたは生き返ってしまった。
「責任を取れ、とか、そういうんじゃないの……! わた、わたしは、
 あなたが、あの時! わたしや、店のねえさんたちや、……元カノとその子供まで! 捨てたのを! ……もう終わったみたいな顔で、わたしに優しくして、くるのが、腹が立ってしかたないの!
 あなた、自分の足元に、どれだけあなたを想って、黙って身を引いたひとがいたか、知らない! 見向きもしない! それがずるい……!!」
 あんな男に捕まるなんて、あのころの私はどうかしていたと、苦い思い出にできていたはずだったのに。……今ではあのころの私が羨ましくてしかたない。あなたからの愛をあの頃のように鵜呑みにできてしまえたら、今こんなにも苦しむことなんてなかった。
 もう一度、心からあなたを愛したいのに、あのころ傷ついてしまった少女のわたしが、怒り狂う化け物となって、彼への想いを募らせる私をけして許してくれないのだ。

 ……それでも、あの頃の悪夢こそが、今の私の欲しがる、幸せそのものだった。

「嫌い、あなたが……。あなたみたいな最低な男と、幸せになりたいなんて、思ってる、私も、嫌い……」

 積年の恨み事と、嫌い、という拒絶の言葉を突き付けられて、ブラムは沈痛な面持ちで沈黙していた。怒りに震える手を終始包んでいた両手に力がこめられ、ぐしゃぐしゃに顔を歪ませたレモラに、彼は何か決意したような目で言う。
「ちょっと待っててください。逃げません、すぐ戻ります」
 そう短く言って、ブラムはソファーを立つ。レモラは咎めたりすることもなく、離された両手の震えがおさまるのと同時に、大雨の空気の冷たさが染み込んでくるのを感じていた。
 なにかが終わってしまったような、背中全体が無力感に覆いかぶさられたまま、ゆっくりと横倒しに、ソファーの背もたれにしなだれかかる。つやのある黒い革にぼたぼたと落ちる涙の音を聞きながら、ああ、さっきまで口をついて出た言葉は私の本心だったのだと思い知らされた。
 彼に愛されていること、子どもを望まれていること、そのすべてが嬉しくて、怖かった。自分が生きているのは暗いヘドロの底でしかなく、そこへ彼と、運よく産まれた子どもまで引きずり込んでしまうのが、途方もなく恐ろしかった。……正直、流産がわかったときは、ほっとした。子どもを不幸にさせずに済んだと、医師に堕胎なんて汚れ役を押し付けずに済んだと。
 でも、許されるなら、産みたかった。ブラムに捨てられて化け物と化した、この胸の奥の海に沈む少女に、自分が手に入れたい幸せを許してほしかった。
 さっきまでブラムのことを散々罵倒していた自分だったが、実のところ一番嫌悪感を覚えたのは、自分の不幸を″よくあることだ″と誤魔化して、これ以上の幸福を全て拒絶してきた自分に対してだった。

 そうして考えを巡らせているうちに、思いのほか早く、ブラムは戻ってきた。彼は自身を落ち着かせるように呼吸をひとつして、彼女の前に腰をおろす。
 電球の灯りの中へ飛び込んできたその灰色の目が、まっすぐにレモラを捉えている。彼の手にはゲソアレンジ用のブラシが握られていた。
12/21ページ
スキ