青赤ビートダウン

 空は分厚い雲に覆われていたが、かろうじて雨は降っていない。タクシーで商店街のバス停付近に降りてきたブラムは、案外すぐにレモラを見つけられたことにひとまず安堵していた。壁に寄りかかってしゃがみ込んでいる彼女へ近づいていく。膝を抱く両腕に突っ伏している様子は迷子の子どものようだった。近づく気配に気づいたのか上げられた顔には、驚きと、どこかがっかりとしたような色とが混ざり合って見えた。
「……立てますか?」
 差し伸べる手に、彼女は見向きもせずひとりで立ち上がる。
「……ごめんなさい、大丈夫」
「……」
 また、自分と距離を置こうとしている。ふらふらと風で飛ばされてしまいそうな彼女へ、ブラムは持ってきていたバスタオルをその背にかけ、横並びでやや強引に肩を抱いた。
「え、ちょっと、ブラムさ」
 驚いた様子でレモラは抗議するが、自分の表情を見るなりハッとした様子で言葉を切り、居心地悪そうに視線を逸らしてしまった。歩みを進める先に、待たせていたタクシーが見えてくる。
「……バスで、何かあったんですか」
「……」
「言いたくなったら、また教えてください」
 タクシーの運転手と目が合い、小さく手を上げて合図する。まだ少し距離のあるその時、レモラが小さく口を開いた。
「……なんでもないの」
「うん?」
「『小さなお子様をお連れのお客様は〜』って、よくあるアナウンスがね、聞こえて。……それで」
「……」
「それだけ、だったんだけど、……なんか、だめだった」
 自嘲気味に薄く笑いながら、その肩は小さく震えていた。抱き寄せている手で二の腕あたりをさすってやる。開いたタクシーのドアにレモラを通し、自分は逆側の後部座席へ乗り込む。

 やがて発進したタクシーに揺られながら、ブラムは考えを巡らせていた。レモラは流産から立ち直ってなどいなかった。いや、ある程度立ち直ってはいるのだろうが、しかし以前と変わらない状態に戻っているはずがなかった。これまで何でもなかったことで不意に傷つくようになった彼女には、無茶な"配慮"を世間に求めでもしなければ、今後傷つかない保障などできないだろう。そういうことではないのだ。
 彼女が苦しむなら、その度に自分が支えればいい。今も、雨に打たれやしないかと持ってきたバスタオルで、明らかに血の気が引いた様子の彼女をくるんでやることができた。昔はできなかった当たり前のような気遣いができる、その距離に自分は居られることが、それだけがただじんわりと嬉しかった。流れる景色をぼうっと眺めているレモラを横目に見ながら、そう思った。

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 事務所兼自宅に到着し、裏口から中に入る。雨は降りださなかったものの、雲のせいで外はもう真っ暗だった。キッチンを抜け、事務所の応接スペースにレモラを座らせてから、正面玄関の戸締りを確認する。大急ぎで出したせいで傾いたままだった臨時休業の札を、まっすぐに直してから扉のカーテンを閉めなおす。振り向くと、背を向けて配置している3人掛けのソファーから、首だけひねってレモラがこちらを見ていた。生気のない、しかし背筋の凍るような強い光をたたえた、蛍火の両目がこちらを無機質にうかがっている。バス停近くで彼女を見つけたときの、どこか落胆したような眼差しも思い出されて、何か、彼女には言いたい事があるのだろうと、そう思った。

「映画はどうでした? この前言っていた新作の?」
 声をかけながら近づき、ソファー近くのスタンドライトを灯す。電球の暖かい光で照らされた彼女は、先ほどの冷え切った印象から打って変わって、儚げに微笑んでいた。
「……ああ、映画ね? うん、あれは観てないの。友達が今日来れなくなっちゃって」
「え、そうだったんですか」
「そう、だから別のを観たの。偶然、復活上映?みたいなのやってて、懐かしくて」
 隣にゆっくりと腰かけながらブラムはそのタイトルを聞かされたが、あまり覚えがない。主演が当時人気のアイドルだったためメディア露出は多かったかもしれないが、その程度の印象だった。
「……いろいろ思い出しちゃった。きょうだいのこととか、親とか」
 そう、遠い目で笑うレモラに、ブラムは何も言えなかった。彼女の親には会ったことがある、それこそ、売られた彼女の代金を手渡すのに同席していたのだ。おまえが娘でよかったと少女の頭を撫でながら、その目は妻のもつ現金入りの封筒しか見ていなかった、そんな人物たち。それを知った上で、当時まだうら若い彼女を捕まえて、いつか幸せな家庭を築こうなどと夢物語をしてみせた末、一方的に別れを切り出した自分。どの場面でも、記憶の中の彼女の表情は虚ろに削り取られたままで思い出せない。ただ、その身がまとっていた悲しげな冷たさだけは覚えている。彼女にとっては、親も自分も、悪人に違いなかった。
「……お茶でも、淹れてきましょうか」
 長期戦に備えようと考え、立ち上がろうとしたブラムの腕が、強く引き留められる。
「!」
 その腕の先にいたレモラは、見開いた目の、射貫くような視線でブラムを縫い留める。反射的に腕を掴んだらしい彼女は、自分の手があまりにも強く彼を握りしめていることに気づいて、自分自身に困惑した様子のまま、それでもその手を離そうとしない。震える口がゆっくりと開かれていく。電球の光をも押しのける蛍火の色が、不意にぐるりと景色を巻きこんだ。

「……いかないで」

「……ッ」
 涙は女の武器だったか、これが罠ならそれでも構わないと思った。ずっとくすぶり続けていた烈情が一気に燃え広がるのに任せて、ブラムはレモラの唇を奪う。鋭く鳴るその喉の奥まで舌をねじ込み、狭い口内を蹂躙しながら、彼女の身体をゆっくりとソファーに倒す。長い間探し求めていた甘い水を、その舌で夢中になって飲み干そうとしていた。
「ン、…グ、ぅ」
 不意に漏れ出した苦しげな声に、ハッと我に返って身体を起こす。レモラは泣いていた。組み伏せられたまま、両手で溢れる涙を何度もぬぐう姿に、ブラムは足元がぐらぐらと崩れ落ちていくように感じる。
「あ…… レ、レモラ……?」
 狼狽するブラムからの声に、レモラはぶんぶんとかぶりを振る。
「ご、ごめんなさ……。ちがう、っ、ちがうの……」
 いつのまにか振り出していた大雨の吠えるような音が、玄関を叩きつけていた。
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