青赤ビートダウン

 映画館を出たレモラはいつもの笑顔であった。窓口のオーナーに、思い出の映画だったので観られてよかったですと、手を振りながらお礼を述べていた。商店街の店頭のがちゃがちゃ並べられた商品が目障りで、それらには見向きもせず家路を急ぐ。薄く微笑みをたたえながら颯爽と歩く彼女の内心は、黒々とした感情が渦を巻いていた。それは妊娠が確定するしばらく前、もしかしたら……と不安を覚えた時のような、窒息しそうなほどに粘ついた不快なものだった。

 10年ぶりに見た大好きだった映画は、自分があの頃からどれだけ汚れてしまったかを嫌でも自覚させるものだった。昔、店に居たブラムを想っていた自分は、あの映画の登場人物たちのようにもっと純粋に彼に恋していたはずなのに、今となってはその感覚を思い出すことができなかった。
 ブラムが自分を置き去りに消えたあの日、彼に対しての無垢な恋心を、どす黒い嫉妬と怒りとで塗りつぶしてしまったあの時から。そうしてできた底なしの深海の、黒々と広がる底から湧き出る怪物に求められるまま、罪のないクラゲたちの肉を無心に咀嚼し、呑みくだし続けたあの時から。自分にはもう人並みの幸せな恋愛などする資格は無いはずだった。
 だから少女漫画が、特に王道な展開のハッピーエンドの物語が好きだった。漫画の中の主人公の、無垢でまっすぐな感情がうらやましくて、ささいなことからすれ違いが起こっていく展開が自分事のように悲しかった。その後必ず訪れる彼らの幸福に安堵して涙が止まらなかった。道を踏み外さなかった恋が紆余曲折を経て必ず報われることが、私には救いだった。私にはもう、望めないことだったから。あの店に入れられ、処女を売り、身体と時間を売り、恋い焦がれた男に身も心も捧げたのに、棄てられた。後にその理由を知り、彼を責めるのは酷過ぎると頭で理解はできていても、……棄てられたと思った当時の私が、どれだけ打ちのめされたか。

 そればかりか、悪魔に魂を売って生き返った王子様が選んだのは、化け物だった。
 嫉妬にかられ、美しくなりたいというエゴのためにクラゲたちの尊厳そのものを食らいつづけた化け物を、彼は選んだ。
 彼は化け物を選ぶために、追憶の中の少女を棄てた。精一杯の恋をしていた少女の頃の私に、王子様は迎えに来なかった。

 少女は永遠に、王子様に棄てられ続ける運命だった。

 ファン!と遠くからクラクションが聞こえて、レモラは顔を上げる。無心で歩いてバス停に到着し、考えを巡らせていた所に、バスが到着する。今このぐちゃぐちゃの思考のまま、ブラムの元へは戻りたくなかったが、かといって他に行くところもない。乗り込もうとドア横の手すりに掴まったとき、無機質な自動音声が聞こえてきた。

「小さなお子様をお連れのお客様は、足元に十分ご注意の上……」

 足が動かなくなる。違う、そんなつもりじゃ、とうわ言のように口走りながら、バスから離れていく。

 バス停から少し離れた建物の壁に背を預け、走り去るバスを見送る。
 さっき自分は何を思っていた? 王子様を待ち続ける少女でいたはずなのに、今の自分は、子供を無事に産めなかったことを責められたように感じていた。どうして隣にいないの?と、暗に責められているような、罪悪感。そんなつもりはなかった、産みたかった。堕胎も考えたのに? それは、だって。

 人一倍頑張って、誰よりもブラムさんを愛していた少女の私よりも、クラゲ喰いの化け物の私が幸せになるなんて、おかしいじゃない。

 まっすぐに恋をしていたあの頃の少女を差し置いて、彼からの愛を受け取っていいはずが、ないじゃない。

 今更、純情な真似をして、願って、求めて、彼への愛を叫ぼうとしても、あの塩辛いぐちゃぐちゃとした食感はいつまでも口内にこびりついたまま離れない。

 ようやく吐き出された愛の言葉も、この想いですら、きっと醜く歪んでしまっている。

 彼は優しいから、可哀想なわたしに同情しているだけ。

 お腹の子供を殺してしまったのも、この身体に巣くう化け物に違いない。

 クラゲを食べて、育てたこの化け物のせいで、彼の子供を何度も、これから何度も殺してしまう。

 彼の望み、私でなければ、私がごく普通のタコだったら、彼の望みも叶ったのに。

 この、醜い、狂暴な、化け物。

 化け物は、充たされない空腹を訴えながら、誰も居ないヘドロの深海で吠え続ける。

 化け物は、

 嫉妬と寂寥に泣き叫ぶ、うら若い少女の顔をしていた。
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