青赤ビートダウン

 薄曇りの朝、窓から入ってくる光はいつもよりどこか頼りなげだった。その光の中、ガスコンロの青い火に赤いケトルを置いてから、ブラムはコーヒーフィルターの口を開く。昨晩は尾行調査の業務が一件あり、事務所に戻ってから報告書をまとめ上げたころには夜明け前になっていた。そこから軽い仮眠だけとるつもりが、さすがに疲れていたのかやや寝すぎたようで、今は朝食をとるには遅めの時刻である。ブラムはあくびを噛み殺しながら、沸いたケトルの湯をフィルターの粉に注いでいた。
 同居人のレモラとは尾行に出たきり顔を合わせておらず、2階の寝室で寝ているはずなのだが、まだ起きてこない。朝の弱い彼女は正午まで起きてこないことも珍しくなかった。コーヒーの出来上がりを待つだけになったブラムは階段を上がっていく。

 とくにノックもせず寝室に入ると、ベッドの上にはこんもりと、掛け布団と長い青紫のゲソとが絡み合った物体が鎮座していた。いつも通りのひどい寝相にブラムは軽く咳払いして、ギシ、と寝台に膝をつき、打ち捨てられたゲソのひとつを拾って大げさな口づけを落とす。塊の中からは小さく喉の鳴る音がして、大きく動いてできた布団の隙間と目が合った。
 奥でうごめく同居人の顔を見て、柔らかかった口元が一転、固く引き絞られる。彼女の薄く開かれている目にはいつものつやがなく、引き潮に取り残されて暗く沈んだ狭い海のようだった。ブラムはいつもより強引に布団を押しのける。薄曇りの陽光に曝されたレモラは、熱っぽいというよりは静かに何かを耐えているようだった。

「すみません起こして。どこか痛いところは?」
 2、3、ゆっくり瞬きした彼女は、うーんと沈んだ声を漏らしながら目線をそらしていく。
「痛くはない……。けど、ちょっとだるい……」
 今ひとまずは重篤でないことにブラムはほっと息をつく。丸まっている身体に布団をかけなおして、上から手でとんとんと軽くならす。
「なにか、軽く食べたほうがいいでしょう。果物を切りましょうか」
「ん……」
 返答にしては心許ない小さな声にブラムは少し戸惑う。とりあえず準備してしまおうと寝台から立ち上がり、部屋を後にする。

 これまでレモラが体調を崩した時は、深酒であったり、やっかいな案件に当たったりと、その前日に何かしら明確な要因があった。しかし今朝はそうではない。何より昨晩は別行動だったこともあって、不明瞭な状況にブラムは内心穏やかではなかった。ちょっと体調が悪いくらいで大げさなのかもしれないが、今、レモラとの暮らしをやっと手に入れた彼は、どんな小さな不安も楽観視する気にはなれないでいたのだった。
 やわらかめの果物を小さく切って盛り、自分のコーヒーと、レモラには水だけ入れて、寝室に戻る。レモラは上体を起こしていて、入ってきたブラムを視線で迎え入れた。いつもの寝起きのぼんやりした印象に加えて、今日は一層覇気がないように見える。寝台に近づきながら、ブラムは言う。
「少しでもいいから食べて、そしたらバイユーに行きましょう」
 バイユーはブラムが以前所属していた組織で、現状、最大の顧客である元上司、アレイナの根城である。実際、レモラとブラムの今の生活は彼女の力添えなしでは存在しえなかったもので、また、表舞台に出られない二人への医療処置も引き受けてくれていた。二人にとっては仕事のスポンサーであると同時に、病院でもあると言って過言でない。
「ええ……? アレイナさんのとこ?」
 レモラは彼女が苦手である。ブラムも得意ではないが。
「そこ以外ないでしょう」
「でも……今日は確かクライアントとの打ち合わせとか……」
「そんな調子じゃ逆に不安にさせるだけですよ、ずらしてもらいましょう。ほら」
 渋る声をなだめながら、ブラムは食事を乗せたトレーをベッドの隅に置く。レモラは観念した様子で、身を乗り出して果物の皿に手を伸ばす。

 次の瞬間、んっ、と顔を歪めてレモラは素早く身を引いた。
「えっ」
 急なことにブラムは慌ててそちらを見やるが、レモラはごまかすように軽く咳をして、やわらかく笑顔を作って見せる。
「あっ、ごめんなさい、なんかむせちゃって」
 それだけ言ってぱたぱたと顔の前で手をふり、何もなかったように皿を手に取り、果物を口に運ぶ。……今のは、一体なんだったのか。ブラムの眉間にはみるみるうちに溝が刻まれていったが、レモラは視線をそらして食事を続けていた。
「……引きずってでも連れていきますからね」
 自分でも驚くほど低かった念押しの声に、はーいとレモラはおどけた調子で返事をした。その口元に微笑をたたえたまま、目線をこちらに向けることはない。

 ブラ厶は内心、しまったなと思っていた。ここ最近感情を露わにすることが増えたとはいえ、彼女は昔から自分に起きた問題を巧妙に取り繕ってしまう女性だった。本人もほぼ無意識といっていい、今の反応は、レモラ自身もこの不調に戸惑っていることの証左に他ならない。慎重に探るべきだった。
 ただ同時に、レモラにとってまだ自分が遠慮の残る相手なのだと突きつけられたようで、その悔しさで胸が痛む。出発するまではもう、彼女は自分の前で"ボロ"を出すことはないだろう。にこにこと朝食を頬張る横顔を見ながら、細く長くすするコーヒーは何の味もしなかった。
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