レモラ、ブラムSS
※ストーカー行為の表現あります。苦手な方ご注意ください※
『炎の中の記憶』
気づくと、ブラムの目の前には見慣れたドアがあった。
背後からの朝焼けで赤く染まる風景は、自分が“現在 ”身を置いている店からそう遠くない、安いアパート群の一角だった。
(ええと……、何をしに来たんだったか)
ブラムはなぜ自分がここにいるのか、皆目見当がつかないでいた。しかし、なぜだろうと考える間に、気づけば腕が目の前に伸びてゆき、流れるような動作でドアベルを押す。
自分の思考とは切り離された状態で、自分の身体が勝手に動いている。奇妙な光景だとは思ったが、不思議と不快感は覚えなかった。そして部屋の中から足音がひとりぶん、近づいてきたかと思うとすぐに扉が開いた。
「ブラムさん……!」
出てきたのは、最近特別目をかけている嬢だった。
彼女は見るからに、********と言いたげな表情をしていて、こちらも口角が上がってしまうのがわかる。今日は彼女の方が、自分よりも早く退勤したのだ。きっと部屋を見て驚いたことだろう。
「ビビ、なかへ」
「はい」
自分が発したはずの声が、背後の朝焼け空から降ってくるようだった。ブラムの声帯はいま、出迎えた女性をビビと呼んだ。
(ああ、道理で顔が見えないはずだ)
ブラムはもう長い間、彼女の顔がわからないでいた。
煙草が落ちて焦げた写真のように、割れて接続の途切れた液晶画面のように。今も彼女の顔に当たる部分は真っ黒な虚ろのままだ。それが悲しくないと言えば嘘になるが、もうこの光景に動揺しない程度には、彼は年齢を重ねていた。
控えめに開いたドアの隙間へ、隠れるように身体が自動で滑り込んでいく。店にこの関係を隠しながら、互いの終業後に逢瀬を重ねるようになってずいぶん経った。
(……ああ、そうだったか。これはそういうものか)
身体が勝手に動き、どうしてそう動くのかを同時に思い出し、納得する。彼女に手を引かれ、1Kのキッチンを抜けて奥のワンルームを目指す。違和感はまったくなかった。しかし、ああ、この後のことを思うと心なしか歩みが重たくなっていく。部屋を仕切る引き戸の前で振り向いた彼女は**************。
「ブラムさん、サプライズは嫌いって言ってませんでした?」
「されるのは苦手だな、って言っただけだよ」
重い心とは裏腹に、自動で言葉を発する口が彼女をからかう。もう!と*******彼女に思わず破顔してしまう。
(困ったな)
どんなにつらい時でも、笑顔だけ無理やり作ってしまえば精神はそれに引っ張られるものだと、いつだったかアレイナが言っていた。笑顔を浮かべたのは“現在 ”の自分の身体のせいかもしれなかったが、どちらにしろ少し気分は軽くなった、ように感じた。
そうして笑みを浮かべたまま、いいから、と口はつぶやいて、彼女の肩を抱くように腕が伸びる。引き戸を開けると部屋の全貌が見え、殺風景な部屋の中央、手狭なテーブルの上を占拠する高級ブティックの箱があった。何を隠そう、あれは自分が夕方、彼女の出勤している間に合鍵で忍び込んで設置したものだ。
「寝ずに待っていてくれたのかな?」
「やだ、さすがに無理ですよ! ちょっとだけ仮眠とりました」
「ふ、嘘でも『楽しみで寝られませんでした』とか言ってくれれば可愛いだろうに」
「だってブラムさん、そういうの全部嘘だってわかっちゃうじゃないですか、嫌ですよ」
「すぐばれる嘘を、一生懸命とりつくろっているのが可愛いんだよ?」
「もー、何言っても馬鹿にする……ほんっといじわる……」
(ああ、好きだ)
瞬間的に思う。いつからだったかは分からない、僕の仕掛ける行動でくるくると表情が変わるのがたまらなく愛おしい。今も僕の言葉が面白くなかったのだろう、*************。店にいる間はまず見せない表情だ。それが引きだせている優越感もたまらなかった。
他の嬢やボーイではだめなのだ、彼らを同じように誘導できても仕事の達成感に似たものしか味わえない。喜んでくれてよかった、というような、じんわりと広がる安堵のような感情は、彼女としか芽生えない。
(彼女でなければ、だめだ)
この情はなんなのだろうと、悩んだこともあった。彼女が15であの店に身売り同然で連れてこられた時から、一から十までをこの手で叩き込んできた。持ち前の利発さもあってメキメキと頭角を現しつつある彼女を、手間暇かけて磨き上げた作品のように愛しているのだろうと考えたこともあった。でもそれはおそらく違う。“現在 ”僕が愛おしく感じたのは、僕が教えたように作られた表情ではなかった。ごくありふれた、年相応に*****彼女の無邪気な**だったのだから。
(“この時 ”の僕は、この結論にはまだ辿り着いていなかった)
ブラムは追憶する。しながら身体は自動で動いて、“この時”あった通りにビビを後ろから抱きしめる。急なことに驚いて少し固まっていた彼女は、やがておずおずとその手を伸ばして、自分の前に回されたブラムの両腕に触れる。
「……あたし、こんなに幸せな誕生日、初めてかも」
「……」
「……ブラムさん?」
こちらからの反応がないことに戸惑うビビの声がした。その時は近づいていた、後はこの腕を解いて、言わなければならない。
別れを。
いつ来るかわからない迎えを待っていろという、あまりにも残酷な命令を。
極度に緊張したとき特有の、いやな熱と重さが胸に渦巻いていく。これは記憶の再演だと察しはついているはずなのに、こんなに苦しい思いを何故またする必要があるのだと、原初の神を呪うほどの感情が湧き上がる。
何故また言わなければならない? 何故こんな思いをしてまで、生き延びなければならない?
ビビに別れを告げた先に一体なにがあった?
面識のなかった娘に殺意を向けられ、救いたいと願う猶予も与えられないまま死なせ、その母親も知らぬ間に亡くしていたと知った。
唯一、心の拠り所だったビビも行方知れずとなり、それでも死にきれず、善良な市民を裏で貶めて得た金でのうのうと生きながらえてきた、この姑息な生 の果てに。一体なんの価値があるのだろうか?
「ブラムさん」
呼ぶ声にハッとして、ブラムは抱きすくめていた腕を解く。
どろどろとした思考から引き上げるように、奥底の自分をまっすぐ捉えたその声の主は、ついさっきよりもいくらか背丈が伸びていて。
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「レモラ……?」
「起きました?」
薄く開けた視界にぼんやりと、こちらを覗き込むライトグリーンの目が映る。
無意識に鼻から深く吸い込んだ空気に、丸まっていた背中が伸びていく。そこは探偵事務所1階の、パソコンデスクの前だった。少し心配そうに、傍らのレモラが話しかける。
「大丈夫です? なんか、うなされてたから」
「ああ……」
うまく声の出ない喉で生返事をしながら、あたりを軽く見まわしてみる。
パソコンで作業をしていて、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。昼食を終えたばかりのはずだったが、すっかり日は傾いている。レモラの今日の調査業務は順調に進んだのだろう、予定していたよりも早く戻れたようだった。
「はい、とりあえず飲んで」
いつの間にかキッチンを往復してきたレモラがそう言って、水入りのグラスをキーボード近くに置いた。まだ目の醒めきっていないブラムはろくに返事もできず、一息にそれを飲み干して、椅子にもたれかかる。
「はっきりしてきましたー?」
「うん……」
「お昼、なに食べたか覚えてます?」
「パスタ、の、大盛り……」
「だけ? えっ、どこか悪いんじゃあ」
「と……サンドイッチを、5つ……」
「なんだ、それなら身体壊したわけじゃないですね」
やれやれ、と肩を下げて見せたレモラは、置きっぱなしだったコーヒーのマグを、空のグラスと一緒に下げていこうとする。
「レモラ」
「はい?」
呼び止められて、彼女がこちらを見下ろす。ただ呼び止めたものの、何か用事があったわけでもなかった。
「……」
無言で見つめたままのブラムに、レモラは少しだけ笑って、両手のカップをデスクに置いた。そうして後ろから椅子の背もたれ越しに、ブラムに腕を回して寄りかかる。
「どぉーしたんですかっ。 ……怖い夢みて寂しくなっちゃった?」
怖い夢。
言われてさっきまでの映像を思い出してみるが、もうすでに輪郭はぼんやりとしか残っていなかった。ただし、それが過去のある一場面だったことは、嫌でも頭にこびりついている。
「見慣れた夢でしたよ」
「え?」
レモラのまとう空気が、茶化したようなものから一転、緊張感を帯びていくのを感じた。彼女は問いかける。
「何回もみたことある夢がまた出てきた、ってこと?」
「そうです」
「……ブラムさん、あなた、うなされてたのよ。苦しそうだった、息が」
「うなされる夢だったとは、初めて知りました」
「そう……」
きゅ、と回された腕に力がこもる。その美貌を武器に多くのターゲットを篭絡してきた彼女ではあるが、その本質は情に厚く、ともすればひと並み以上に他者に感情移入できてしまう、そんな女性だった。
「……何回も嫌な夢みるとか、最悪じゃないですか」
「最悪、か……」
それは間違いなかった。自分の手で、もっとも愛したひとへ、もっとも傷つける言葉を突き立てる、そんな場面を再び演じる夢だ。
あんな思いは二度と御免だと、完治したはずの左目の痛みに耐えながら、それでもこの苦しみが彼女たちへの償いになるならばと、傷が治りかける度にまたそれを開いて、ぐちゃぐちゃに掻きむしる。そんな自分の心があの夢をみせるのだろうと、ブラムは思っていた。
(……?)
しかしふと、今日見た夢はこれまでと少し違ったのをブラムは思い出した。夢の最後、これまでは胸の奥でのたうつ苦しみに呼吸が止まり、気絶するような感覚と同時に目が覚めていた。
そういえば、さっきの夢は違ったのだ。最後に見たのは、涙を流すレモラだった。
それに、あの夢に顔のある人物が現れたのは、あれが初めてだった。
「……今日の夢は、いくらかましでしたよ」
自分の代わりのように強張る腕を、なだめるように優しく撫でながら、ブラムはそう言葉を投げかける。背後のレモラは少し身じろぎして、長めの呼吸をひとつした。
「……まし、って?」
「最後の方の内容が、少し違ったんです」
「それだけ? 最後だけ?」
「だけ、とは言いますけどね、きみ」
このゴミ溜めのような生 の果てに何があるのかと、苦しんだ先に見えたものが、きみだったんですよ。
そう、ブラムは告白しようとしたが、それよりもレモラの声の方が速かった。
「最後だけよくなったとしても、……それまでがずっと嫌なままだったのは、変わらなかったんでしょ?」
(……!)
寂しげに、レモラは言った。それは何よりも、さっきまでの悪夢よりも深く、ブラムの奥底に刺さったかもしれなかった。彼女は果たしてそれに気付いているのか、ブラムを抱きしめたまま、静かに言葉を続ける。
「嫌なことに慣れるなんて……ないもの。慣れたって思えたとしたら、それは一生分苦しみきった心が、それ以上苦しむことに飽きちゃっただけだわ」
ブラムは呆然として、相槌を打つこともできないまま、上から降ってくるレモラの声を浴びていた。
……それはきみのことじゃあないのか?
「ましだから、とか、強がらないで。つらかったことをちゃんと、つらかったって言って? 私の前でくらい、……そう、してほしいの、ブラムさんには」
「……レモラ」
きみの優しさにつけこんで、僕がこれを言わせているんじゃあないのか?
一生醒めないと諦めていた悪夢の果てに、きみがいた。ついさっき、それに気づいたとき、こんな自分に訪れた救いなのかもしれないと夢想した。恥知らずにも、してしまったのだ。この苦しみが終わることを、やはりどこかで願っていたのかもしれない。
きみの存在が救いだなどと、口走ってしまう前で良かったと、今は思う。僕は救われるかもしれない、レモラ、きみの慈愛に手放しで浸ってしまえば。
でも、きみは? きみの苦しみの元凶は、過去の僕だ。今、僕たちがこうして恋人として共に暮らしているのは、“過去のビビと、現在のレモラは別人だ”という、壊れ物みたいな暗黙の不文律を二人が必死に守ることでやっと成り立っているのだ。
今の僕では、きみが“過去のビビ”だった頃に受けた傷に触れることができない。触れれば、今の通りではきっといられない。
今ある張りぼての安寧を棄ててまでそこに踏み込む勇気が、臆病な老人に成り果てた僕にはなかった。
僕の救いであるはずのきみが、僕の前で流す涙を、拭ってやることができない、のだ、……僕は。
「……恨んでいませんか」
「え、っ?」
「僕のことを、恨んでいませんか?」
およそ、支えたいという彼女に問うべき言葉ではないだろう。レモラも突然の問いに驚いている様子だった。
「それは、嫌な夢に関係あることなの?」
「……そうです」
もう、悪夢の内容を白状しているようなものだった。レモラは少し思案してから、椅子の横で膝を抱えるようにしゃがんで、ブラムを見上げた。
「……あのね、ブラムさん。最初あなたたちに捕まって、監視がてら一緒に住めって話になったとき、私の携帯に電話かかってきたでしょ? あれ、例の半グレ集団の幹部仲間からだったの」
「ああ……、そうでしょうね」
若い男性の声だった。電話口でレモラからママ呼ばわりされて、怒り狂う声がこっちにまで響いていたが。
「やろうとすればね、あのタイミングでいくらでもサインは出せたじゃない。もし私が電話口で、拉致されたことを少しでも匂わせれば、あのひとたちならすぐにでも乗り込んできたわ、絶対に。それであとは……まあ、なんだかんだで私を解放させるところまでいくのよ、どうせ」
「なんだかんだとは、また要領を得ない」
「そういう集団 だったの! どこからどう見ても無謀な計画なのに、なぜか最後にはギリギリのところで目的を達成してるような。……今思い出しても、マジであれ、わけわかんないんだけど」
「それは……もし、バイユーと全面戦争になったとしても?」
「きっとね。最重要な目的だけは、きっと」
「ずいぶんな評価ですね」
「あそこの“頭”はね、なんか、そういうひとだったから」
かつての古巣を語りながら、レモラは膝を抱いて前後にゆらゆらと揺れていた。そして、ぴた、と止まったかと思うと、もう一度真正面からブラムをまっすぐに見つめた。
「だからね、あの……、本っ当ぉーーーに!、ブラムさんのことを心の底から恨んでて、もう顔も見たくないぐらいだったら。……私、今ここに居ないの」
「……ええ」
僕は、やはり卑怯者だ。最初から、これが聞きたかったのかもしれない。寝起きでぐずる子供のような真似をしておいて、おそらくは。
「私は、私がブラムさんと居たいから、居るの。……それじゃ駄目?」
「駄目なわけがありますか」
「あ…!? あ、あなたが訊いてきたんじゃない!」
即答したブラムに拍子抜けした様子で、レモラから抗議が飛ぶ。
本当に、一体この問答の答えとはなんだったのか。いつの間にか、いつもの静かな笑みが戻ってきたブラムの右目は穏やかに細められる。
「恨んでいませんか、と僕は訊いたんですが」
「……あー、それはノーコメント♪」
くっ、と笑いをこらえて喉が鳴る。彼女の返答は絶妙だ、過去を切り離してしまっているようにも、まだ保留しているようにも取れる。
(まだ、今のまま僕と居てくれるのだね)
この張りぼての幸せを維持し続けることを。
パートナーとなるなら全てをきれいに精算してから一緒になるべきだ、というひとの方が世間ではきっと多いだろう。
しかし僕たちの幸せは、互いの大半のことに目を瞑らなければ、始めることすらできなかったのだ。
(思い上がりもいいところだ。彼女が自分の過去にどう向き合うかは、彼女が決めるべきなのに)
自分だけが救われた思いをするのが、彼女に申し訳ないような気がした。その後ろめたさを紛らわすために、彼女へ“救い”を押し付けるなど、ありがた迷惑にも程がある。
じっと彼女を見つめ返しながらそんなことを考えていると、レモラの方は痺れを切らしたように、ブラムの膝をつついて不適な笑みを浮かべる。
「なぁに、ご不満? なんだったらこれから徹夜で家中の隠しカメラをしらみっ潰しに探してさしあげてもよろしいのよ?」
「ああレモラ」
「えっ、ん、ーーーッ!」
レモラからの急な処刑予告に対して、ブラムの対処は速かった。
流れるような動作でレモラの方へ身をかがめたかと思うと、瞬く間にその唇を塞ぎ、彼女の敏感な部分を舌でゆっくりとこそぎとる。
「ッぷぁ、ちょっ、こんなので誤魔化そうったって」
「レモラ」
解放された口から抗議の声を上げる恋人の、今度は首元から片手を這わせて頭を掬い上げる。正面から抱きすくめるような姿勢で、ちょうど耳の近くにブラムは顔を埋めた。
「……愛しています」
「ーーーーーッ!?」
死の淵から引き上げられてこのかた、使う機会のなかったブラム歴戦の“本気でオトす声”だった。これまでレモラには、耳元ゼロ距離で囁いたことはなかったが、見るからに彼女は平静を失った様子である。
「こ、こら、やっぱりまた仕掛けてるんでしょカメラ!? なに今のっ、きゅ、急に!! 次、隠しカメラ見つけたら出ていくってこの前言いましたよね、私は!」
「そうですね」
「だから! 今からしらみ潰しにしてやるって言ってんンンンーーー!?」
いっそ清々しいくらい露骨なタイミングで、また深く口づける。口腔をしつこく蹂躙しながら、彼女を逃がさないよう両腕を這わせ、身体の弱点もゆるゆると刺激していく。
なすすべなくぎゅっと瞼をつむるばかりのレモラの顔を、ブラムは開いたその右目でじっとりと眺めていた。あるタイミングでぱ、と唇を離す。
「レモラ」
急な口づけで満足に呼吸ができず、やや混乱している様子のレモラに、ブラムは今度はどこか弱々しく、少し掠れた低い声で囁く。
「すみません……正直に言いましょう。あんな夢をみて、ひとりでいるのがいやに心細いんです」
「ひゃ、そ、それ、ちょっと」
「今だけ、……いいですか?」
同居してから何度か身体を重ねててきたが、ブラムがこの、“相手だけを完全にオトしにかかる”モードを彼女に見せるのは初めてだった。
……言ってしまえば、今まで伏せていたこの切り札を切る程度には、実際ブラムは窮地に立たされているのである。
いつものレモラであれば、一気呵成にブラムの悪癖を暴きだし、その鼻先に動かぬ証拠を突きつけることだってできただろう。
しかしブラムは、彼女が少女漫画のような振る舞いに滅法弱いことをよく知っていた。
「い、いや、じゃ、ない、ですけど……」
やや紅潮した顔で視線を逸らすレモラの様子を見るに、切り札を切った甲斐はあったようだった。しかし歯切れ悪くなにか言い淀むのが引っかかる。
(彼女の出す条件次第では、もう少し押す必要がある……)
この場のブラムにとって、色仕掛けは完全に手段の一つだった。家中を徹底的に捜索すると宣言された手前、一旦すべてを回収するまで、レモラが自由に動ける機会を持つと困る。多少強引にでも、恋人としても情につけ込んででも、それは排除しなければならなかった。
「でも?」
わざと、不安そうな声色で彼女に問う。レモラはちら、とこちらに目線を向けた。
「ね、寝る時間だけは確保させて……?」
それは困る。
「大丈夫ですよ」
ブラムはいよいよ椅子から降りて、足元でうずくまっているレモラをそのまま壁際に追い込む。彼らがいるパソコンデスクは応接スペースの一角ではあったが、玄関から離れている上にパーテーションで区切られている死角だった。
「さっき、徹夜で探すと言ってたじゃないですか。きみのタフさは僕も良くわかっていますよ、大丈夫」
そんな余裕を許してしまえば、僕が万一、眠ってしまった時にきみが野放しになってしまうじゃあないか。
「いや、あの、ほんとに! 明日は朝からクライアントが……!」
押し切ろうとするブラムを慌ててレモラは制止する。切実な様子に、ふむ、とブラムは考えるポーズをとる。まあ確かに、明日の日中に来客があるのは本当だ。
しばし考え、ブラムは結論を出した。
「善処しましょう」
「ちょ」
最近板についてきた、顧客向けの爽やかな笑顔で、卑怯者はそう言った。
「それ、善処されないやつ……?」
「レモラ」
口の端を引き攣らせるレモラを見下ろしながら、ブラムはふ、と薄く笑う。
「もっと僕に、色々な表情を見せてください」
だんだんと落ちていく夕陽の中、まだそこにある恋人の顔を両手で包みながらこぼれたその言葉だけは、真実だけでできていた。
『炎の中の記憶』おわり
『炎の中の記憶』
気づくと、ブラムの目の前には見慣れたドアがあった。
背後からの朝焼けで赤く染まる風景は、自分が“
(ええと……、何をしに来たんだったか)
ブラムはなぜ自分がここにいるのか、皆目見当がつかないでいた。しかし、なぜだろうと考える間に、気づけば腕が目の前に伸びてゆき、流れるような動作でドアベルを押す。
自分の思考とは切り離された状態で、自分の身体が勝手に動いている。奇妙な光景だとは思ったが、不思議と不快感は覚えなかった。そして部屋の中から足音がひとりぶん、近づいてきたかと思うとすぐに扉が開いた。
「ブラムさん……!」
出てきたのは、最近特別目をかけている嬢だった。
彼女は見るからに、********と言いたげな表情をしていて、こちらも口角が上がってしまうのがわかる。今日は彼女の方が、自分よりも早く退勤したのだ。きっと部屋を見て驚いたことだろう。
「ビビ、なかへ」
「はい」
自分が発したはずの声が、背後の朝焼け空から降ってくるようだった。ブラムの声帯はいま、出迎えた女性をビビと呼んだ。
(ああ、道理で顔が見えないはずだ)
ブラムはもう長い間、彼女の顔がわからないでいた。
煙草が落ちて焦げた写真のように、割れて接続の途切れた液晶画面のように。今も彼女の顔に当たる部分は真っ黒な虚ろのままだ。それが悲しくないと言えば嘘になるが、もうこの光景に動揺しない程度には、彼は年齢を重ねていた。
控えめに開いたドアの隙間へ、隠れるように身体が自動で滑り込んでいく。店にこの関係を隠しながら、互いの終業後に逢瀬を重ねるようになってずいぶん経った。
(……ああ、そうだったか。これはそういうものか)
身体が勝手に動き、どうしてそう動くのかを同時に思い出し、納得する。彼女に手を引かれ、1Kのキッチンを抜けて奥のワンルームを目指す。違和感はまったくなかった。しかし、ああ、この後のことを思うと心なしか歩みが重たくなっていく。部屋を仕切る引き戸の前で振り向いた彼女は**************。
「ブラムさん、サプライズは嫌いって言ってませんでした?」
「されるのは苦手だな、って言っただけだよ」
重い心とは裏腹に、自動で言葉を発する口が彼女をからかう。もう!と*******彼女に思わず破顔してしまう。
(困ったな)
どんなにつらい時でも、笑顔だけ無理やり作ってしまえば精神はそれに引っ張られるものだと、いつだったかアレイナが言っていた。笑顔を浮かべたのは“
そうして笑みを浮かべたまま、いいから、と口はつぶやいて、彼女の肩を抱くように腕が伸びる。引き戸を開けると部屋の全貌が見え、殺風景な部屋の中央、手狭なテーブルの上を占拠する高級ブティックの箱があった。何を隠そう、あれは自分が夕方、彼女の出勤している間に合鍵で忍び込んで設置したものだ。
「寝ずに待っていてくれたのかな?」
「やだ、さすがに無理ですよ! ちょっとだけ仮眠とりました」
「ふ、嘘でも『楽しみで寝られませんでした』とか言ってくれれば可愛いだろうに」
「だってブラムさん、そういうの全部嘘だってわかっちゃうじゃないですか、嫌ですよ」
「すぐばれる嘘を、一生懸命とりつくろっているのが可愛いんだよ?」
「もー、何言っても馬鹿にする……ほんっといじわる……」
(ああ、好きだ)
瞬間的に思う。いつからだったかは分からない、僕の仕掛ける行動でくるくると表情が変わるのがたまらなく愛おしい。今も僕の言葉が面白くなかったのだろう、*************。店にいる間はまず見せない表情だ。それが引きだせている優越感もたまらなかった。
他の嬢やボーイではだめなのだ、彼らを同じように誘導できても仕事の達成感に似たものしか味わえない。喜んでくれてよかった、というような、じんわりと広がる安堵のような感情は、彼女としか芽生えない。
(彼女でなければ、だめだ)
この情はなんなのだろうと、悩んだこともあった。彼女が15であの店に身売り同然で連れてこられた時から、一から十までをこの手で叩き込んできた。持ち前の利発さもあってメキメキと頭角を現しつつある彼女を、手間暇かけて磨き上げた作品のように愛しているのだろうと考えたこともあった。でもそれはおそらく違う。“
(“
ブラムは追憶する。しながら身体は自動で動いて、“この時”あった通りにビビを後ろから抱きしめる。急なことに驚いて少し固まっていた彼女は、やがておずおずとその手を伸ばして、自分の前に回されたブラムの両腕に触れる。
「……あたし、こんなに幸せな誕生日、初めてかも」
「……」
「……ブラムさん?」
こちらからの反応がないことに戸惑うビビの声がした。その時は近づいていた、後はこの腕を解いて、言わなければならない。
別れを。
いつ来るかわからない迎えを待っていろという、あまりにも残酷な命令を。
極度に緊張したとき特有の、いやな熱と重さが胸に渦巻いていく。これは記憶の再演だと察しはついているはずなのに、こんなに苦しい思いを何故またする必要があるのだと、原初の神を呪うほどの感情が湧き上がる。
何故また言わなければならない? 何故こんな思いをしてまで、生き延びなければならない?
ビビに別れを告げた先に一体なにがあった?
面識のなかった娘に殺意を向けられ、救いたいと願う猶予も与えられないまま死なせ、その母親も知らぬ間に亡くしていたと知った。
唯一、心の拠り所だったビビも行方知れずとなり、それでも死にきれず、善良な市民を裏で貶めて得た金でのうのうと生きながらえてきた、この姑息な
「ブラムさん」
呼ぶ声にハッとして、ブラムは抱きすくめていた腕を解く。
どろどろとした思考から引き上げるように、奥底の自分をまっすぐ捉えたその声の主は、ついさっきよりもいくらか背丈が伸びていて。
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「レモラ……?」
「起きました?」
薄く開けた視界にぼんやりと、こちらを覗き込むライトグリーンの目が映る。
無意識に鼻から深く吸い込んだ空気に、丸まっていた背中が伸びていく。そこは探偵事務所1階の、パソコンデスクの前だった。少し心配そうに、傍らのレモラが話しかける。
「大丈夫です? なんか、うなされてたから」
「ああ……」
うまく声の出ない喉で生返事をしながら、あたりを軽く見まわしてみる。
パソコンで作業をしていて、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。昼食を終えたばかりのはずだったが、すっかり日は傾いている。レモラの今日の調査業務は順調に進んだのだろう、予定していたよりも早く戻れたようだった。
「はい、とりあえず飲んで」
いつの間にかキッチンを往復してきたレモラがそう言って、水入りのグラスをキーボード近くに置いた。まだ目の醒めきっていないブラムはろくに返事もできず、一息にそれを飲み干して、椅子にもたれかかる。
「はっきりしてきましたー?」
「うん……」
「お昼、なに食べたか覚えてます?」
「パスタ、の、大盛り……」
「だけ? えっ、どこか悪いんじゃあ」
「と……サンドイッチを、5つ……」
「なんだ、それなら身体壊したわけじゃないですね」
やれやれ、と肩を下げて見せたレモラは、置きっぱなしだったコーヒーのマグを、空のグラスと一緒に下げていこうとする。
「レモラ」
「はい?」
呼び止められて、彼女がこちらを見下ろす。ただ呼び止めたものの、何か用事があったわけでもなかった。
「……」
無言で見つめたままのブラムに、レモラは少しだけ笑って、両手のカップをデスクに置いた。そうして後ろから椅子の背もたれ越しに、ブラムに腕を回して寄りかかる。
「どぉーしたんですかっ。 ……怖い夢みて寂しくなっちゃった?」
怖い夢。
言われてさっきまでの映像を思い出してみるが、もうすでに輪郭はぼんやりとしか残っていなかった。ただし、それが過去のある一場面だったことは、嫌でも頭にこびりついている。
「見慣れた夢でしたよ」
「え?」
レモラのまとう空気が、茶化したようなものから一転、緊張感を帯びていくのを感じた。彼女は問いかける。
「何回もみたことある夢がまた出てきた、ってこと?」
「そうです」
「……ブラムさん、あなた、うなされてたのよ。苦しそうだった、息が」
「うなされる夢だったとは、初めて知りました」
「そう……」
きゅ、と回された腕に力がこもる。その美貌を武器に多くのターゲットを篭絡してきた彼女ではあるが、その本質は情に厚く、ともすればひと並み以上に他者に感情移入できてしまう、そんな女性だった。
「……何回も嫌な夢みるとか、最悪じゃないですか」
「最悪、か……」
それは間違いなかった。自分の手で、もっとも愛したひとへ、もっとも傷つける言葉を突き立てる、そんな場面を再び演じる夢だ。
あんな思いは二度と御免だと、完治したはずの左目の痛みに耐えながら、それでもこの苦しみが彼女たちへの償いになるならばと、傷が治りかける度にまたそれを開いて、ぐちゃぐちゃに掻きむしる。そんな自分の心があの夢をみせるのだろうと、ブラムは思っていた。
(……?)
しかしふと、今日見た夢はこれまでと少し違ったのをブラムは思い出した。夢の最後、これまでは胸の奥でのたうつ苦しみに呼吸が止まり、気絶するような感覚と同時に目が覚めていた。
そういえば、さっきの夢は違ったのだ。最後に見たのは、涙を流すレモラだった。
それに、あの夢に顔のある人物が現れたのは、あれが初めてだった。
「……今日の夢は、いくらかましでしたよ」
自分の代わりのように強張る腕を、なだめるように優しく撫でながら、ブラムはそう言葉を投げかける。背後のレモラは少し身じろぎして、長めの呼吸をひとつした。
「……まし、って?」
「最後の方の内容が、少し違ったんです」
「それだけ? 最後だけ?」
「だけ、とは言いますけどね、きみ」
このゴミ溜めのような
そう、ブラムは告白しようとしたが、それよりもレモラの声の方が速かった。
「最後だけよくなったとしても、……それまでがずっと嫌なままだったのは、変わらなかったんでしょ?」
(……!)
寂しげに、レモラは言った。それは何よりも、さっきまでの悪夢よりも深く、ブラムの奥底に刺さったかもしれなかった。彼女は果たしてそれに気付いているのか、ブラムを抱きしめたまま、静かに言葉を続ける。
「嫌なことに慣れるなんて……ないもの。慣れたって思えたとしたら、それは一生分苦しみきった心が、それ以上苦しむことに飽きちゃっただけだわ」
ブラムは呆然として、相槌を打つこともできないまま、上から降ってくるレモラの声を浴びていた。
……それはきみのことじゃあないのか?
「ましだから、とか、強がらないで。つらかったことをちゃんと、つらかったって言って? 私の前でくらい、……そう、してほしいの、ブラムさんには」
「……レモラ」
きみの優しさにつけこんで、僕がこれを言わせているんじゃあないのか?
一生醒めないと諦めていた悪夢の果てに、きみがいた。ついさっき、それに気づいたとき、こんな自分に訪れた救いなのかもしれないと夢想した。恥知らずにも、してしまったのだ。この苦しみが終わることを、やはりどこかで願っていたのかもしれない。
きみの存在が救いだなどと、口走ってしまう前で良かったと、今は思う。僕は救われるかもしれない、レモラ、きみの慈愛に手放しで浸ってしまえば。
でも、きみは? きみの苦しみの元凶は、過去の僕だ。今、僕たちがこうして恋人として共に暮らしているのは、“過去のビビと、現在のレモラは別人だ”という、壊れ物みたいな暗黙の不文律を二人が必死に守ることでやっと成り立っているのだ。
今の僕では、きみが“過去のビビ”だった頃に受けた傷に触れることができない。触れれば、今の通りではきっといられない。
今ある張りぼての安寧を棄ててまでそこに踏み込む勇気が、臆病な老人に成り果てた僕にはなかった。
僕の救いであるはずのきみが、僕の前で流す涙を、拭ってやることができない、のだ、……僕は。
「……恨んでいませんか」
「え、っ?」
「僕のことを、恨んでいませんか?」
およそ、支えたいという彼女に問うべき言葉ではないだろう。レモラも突然の問いに驚いている様子だった。
「それは、嫌な夢に関係あることなの?」
「……そうです」
もう、悪夢の内容を白状しているようなものだった。レモラは少し思案してから、椅子の横で膝を抱えるようにしゃがんで、ブラムを見上げた。
「……あのね、ブラムさん。最初あなたたちに捕まって、監視がてら一緒に住めって話になったとき、私の携帯に電話かかってきたでしょ? あれ、例の半グレ集団の幹部仲間からだったの」
「ああ……、そうでしょうね」
若い男性の声だった。電話口でレモラからママ呼ばわりされて、怒り狂う声がこっちにまで響いていたが。
「やろうとすればね、あのタイミングでいくらでもサインは出せたじゃない。もし私が電話口で、拉致されたことを少しでも匂わせれば、あのひとたちならすぐにでも乗り込んできたわ、絶対に。それであとは……まあ、なんだかんだで私を解放させるところまでいくのよ、どうせ」
「なんだかんだとは、また要領を得ない」
「そういう
「それは……もし、バイユーと全面戦争になったとしても?」
「きっとね。最重要な目的だけは、きっと」
「ずいぶんな評価ですね」
「あそこの“頭”はね、なんか、そういうひとだったから」
かつての古巣を語りながら、レモラは膝を抱いて前後にゆらゆらと揺れていた。そして、ぴた、と止まったかと思うと、もう一度真正面からブラムをまっすぐに見つめた。
「だからね、あの……、本っ当ぉーーーに!、ブラムさんのことを心の底から恨んでて、もう顔も見たくないぐらいだったら。……私、今ここに居ないの」
「……ええ」
僕は、やはり卑怯者だ。最初から、これが聞きたかったのかもしれない。寝起きでぐずる子供のような真似をしておいて、おそらくは。
「私は、私がブラムさんと居たいから、居るの。……それじゃ駄目?」
「駄目なわけがありますか」
「あ…!? あ、あなたが訊いてきたんじゃない!」
即答したブラムに拍子抜けした様子で、レモラから抗議が飛ぶ。
本当に、一体この問答の答えとはなんだったのか。いつの間にか、いつもの静かな笑みが戻ってきたブラムの右目は穏やかに細められる。
「恨んでいませんか、と僕は訊いたんですが」
「……あー、それはノーコメント♪」
くっ、と笑いをこらえて喉が鳴る。彼女の返答は絶妙だ、過去を切り離してしまっているようにも、まだ保留しているようにも取れる。
(まだ、今のまま僕と居てくれるのだね)
この張りぼての幸せを維持し続けることを。
パートナーとなるなら全てをきれいに精算してから一緒になるべきだ、というひとの方が世間ではきっと多いだろう。
しかし僕たちの幸せは、互いの大半のことに目を瞑らなければ、始めることすらできなかったのだ。
(思い上がりもいいところだ。彼女が自分の過去にどう向き合うかは、彼女が決めるべきなのに)
自分だけが救われた思いをするのが、彼女に申し訳ないような気がした。その後ろめたさを紛らわすために、彼女へ“救い”を押し付けるなど、ありがた迷惑にも程がある。
じっと彼女を見つめ返しながらそんなことを考えていると、レモラの方は痺れを切らしたように、ブラムの膝をつついて不適な笑みを浮かべる。
「なぁに、ご不満? なんだったらこれから徹夜で家中の隠しカメラをしらみっ潰しに探してさしあげてもよろしいのよ?」
「ああレモラ」
「えっ、ん、ーーーッ!」
レモラからの急な処刑予告に対して、ブラムの対処は速かった。
流れるような動作でレモラの方へ身をかがめたかと思うと、瞬く間にその唇を塞ぎ、彼女の敏感な部分を舌でゆっくりとこそぎとる。
「ッぷぁ、ちょっ、こんなので誤魔化そうったって」
「レモラ」
解放された口から抗議の声を上げる恋人の、今度は首元から片手を這わせて頭を掬い上げる。正面から抱きすくめるような姿勢で、ちょうど耳の近くにブラムは顔を埋めた。
「……愛しています」
「ーーーーーッ!?」
死の淵から引き上げられてこのかた、使う機会のなかったブラム歴戦の“本気でオトす声”だった。これまでレモラには、耳元ゼロ距離で囁いたことはなかったが、見るからに彼女は平静を失った様子である。
「こ、こら、やっぱりまた仕掛けてるんでしょカメラ!? なに今のっ、きゅ、急に!! 次、隠しカメラ見つけたら出ていくってこの前言いましたよね、私は!」
「そうですね」
「だから! 今からしらみ潰しにしてやるって言ってんンンンーーー!?」
いっそ清々しいくらい露骨なタイミングで、また深く口づける。口腔をしつこく蹂躙しながら、彼女を逃がさないよう両腕を這わせ、身体の弱点もゆるゆると刺激していく。
なすすべなくぎゅっと瞼をつむるばかりのレモラの顔を、ブラムは開いたその右目でじっとりと眺めていた。あるタイミングでぱ、と唇を離す。
「レモラ」
急な口づけで満足に呼吸ができず、やや混乱している様子のレモラに、ブラムは今度はどこか弱々しく、少し掠れた低い声で囁く。
「すみません……正直に言いましょう。あんな夢をみて、ひとりでいるのがいやに心細いんです」
「ひゃ、そ、それ、ちょっと」
「今だけ、……いいですか?」
同居してから何度か身体を重ねててきたが、ブラムがこの、“相手だけを完全にオトしにかかる”モードを彼女に見せるのは初めてだった。
……言ってしまえば、今まで伏せていたこの切り札を切る程度には、実際ブラムは窮地に立たされているのである。
いつものレモラであれば、一気呵成にブラムの悪癖を暴きだし、その鼻先に動かぬ証拠を突きつけることだってできただろう。
しかしブラムは、彼女が少女漫画のような振る舞いに滅法弱いことをよく知っていた。
「い、いや、じゃ、ない、ですけど……」
やや紅潮した顔で視線を逸らすレモラの様子を見るに、切り札を切った甲斐はあったようだった。しかし歯切れ悪くなにか言い淀むのが引っかかる。
(彼女の出す条件次第では、もう少し押す必要がある……)
この場のブラムにとって、色仕掛けは完全に手段の一つだった。家中を徹底的に捜索すると宣言された手前、一旦すべてを回収するまで、レモラが自由に動ける機会を持つと困る。多少強引にでも、恋人としても情につけ込んででも、それは排除しなければならなかった。
「でも?」
わざと、不安そうな声色で彼女に問う。レモラはちら、とこちらに目線を向けた。
「ね、寝る時間だけは確保させて……?」
それは困る。
「大丈夫ですよ」
ブラムはいよいよ椅子から降りて、足元でうずくまっているレモラをそのまま壁際に追い込む。彼らがいるパソコンデスクは応接スペースの一角ではあったが、玄関から離れている上にパーテーションで区切られている死角だった。
「さっき、徹夜で探すと言ってたじゃないですか。きみのタフさは僕も良くわかっていますよ、大丈夫」
そんな余裕を許してしまえば、僕が万一、眠ってしまった時にきみが野放しになってしまうじゃあないか。
「いや、あの、ほんとに! 明日は朝からクライアントが……!」
押し切ろうとするブラムを慌ててレモラは制止する。切実な様子に、ふむ、とブラムは考えるポーズをとる。まあ確かに、明日の日中に来客があるのは本当だ。
しばし考え、ブラムは結論を出した。
「善処しましょう」
「ちょ」
最近板についてきた、顧客向けの爽やかな笑顔で、卑怯者はそう言った。
「それ、善処されないやつ……?」
「レモラ」
口の端を引き攣らせるレモラを見下ろしながら、ブラムはふ、と薄く笑う。
「もっと僕に、色々な表情を見せてください」
だんだんと落ちていく夕陽の中、まだそこにある恋人の顔を両手で包みながらこぼれたその言葉だけは、真実だけでできていた。
『炎の中の記憶』おわり
4/4ページ