レモラ、ブラムSS

『青赤コントロール-SuddenDeath』


がちゃりと事務所の勝手口が開く。入ってきたのは洋装の喪服姿を着た男女であった。
ふたりは特に言葉を交わすことなく、男は室内に入ってすぐに入口脇のシンクへ向かい、使い慣れた赤いケトルに蛇口の水を溜め始める。女は勝手口の鍵を閉めてから、そのドアにもたれかかった。

クラゲ人身売買グループを捕らえてから数日間、ブラムは彼らのアジトや関係者の洗い出しを、レモラは最終的な裏取りのための尋問に協力していた。そのため事務所に戻ってきたのは数日ぶりで、なんならふたりが顔を合わせたのもあの日以来のことだった。

容疑者としての尋問が完全に終了し、今後はブラムと生きると決めたレモラはこの日、地下鉄と電車を乗り継いで連れられた先で、彼の最も大きな忌み事の告白を受けた。そしてその足で、一ヶ月超にわたって音信不通にしていた彼女の古巣の組織へと、正式な脱退のために単身、その身を晒しに向かったのである。最悪命を奪われることも覚悟していたが、蓋を開けてみれば予想外に軽い処遇で済んだことに驚くことになる。
自傷要求もなくあっさりと彼女の脱退を容認した彼らは、外で待機していたブラムをその場へ呼び出させ、今後の情報売買などで取引をしたい旨を持ちかけてきたのだ。思いがけない大口顧客の獲得に喜ぶべきだったのか、しかし目の前に悠々と腰掛ける首領の、その野生交じりの眼光をもっと警戒すべきだったのか。ただあの場においてはもう、あからさまにこちらの要求通りなその契約を承諾する以外の選択肢などあるはずもなく、かくして五体満足のままでふたりは帰路についたのだった。


「長帳場で疲れたでしょう、楽にしててください」

陽の傾いてきた午後、そう言いながらてきぱきとコーヒーを準備し始めるブラムの姿は、レモラがここへ初めて連れてこられたときと重なって見えた。かつて自分を棄てた男が、今となってはもっとも恋焦がれた男として、そして自分を受け入れてくれた恋人として目の前に立っている。その事実がレモラは急にむずがゆくなって、ちょうどコーヒーの粉を掬い上げていた彼へ文字通り体当たりした。

「えっ! ちょっと、危な」
跳ねた粉が手にかかる、そのわずらわしさに構わず、レモラは彼の右腕にしがみつく。
「……ブ、ラム、さん」
「……」
「ブラムさん……」
か細い声で噛み締めるように自分の名を呼ぶ女に、ブラムは何も言わず、静かにケトルの火を止める。右肩に押しつけられている頭を撫でれば、彼女が震えているのがわかった。

「大変でしたね」
幼子を慰めるような優しい声色で、ブラムは青紫のゲソを撫でていた。大変だったというのは、はたからすれば今日一日のことを指す言葉に聞こえるが、しかしこの場に流れる空気はそれ以上のものだった。右腕を掴む力はまた強くなり、じわじわと、上着の袖に温かいものが染みていくのを感じる。目線の下、シンクに落ちる蛇口の雫が、ばた、ばた、と等間隔で落ちては、薄い夕日の光が落ちる銀の海に溶けていった。

「……あなたが無事でよかった」
「!」
何の気なしに、自然とこぼれた言葉だった。ブラムのその静かな声に、レモラは勢いよく顔を上げる。急な動きに驚いて目線を合わせた彼女の顔は、ブラムが思っていたよりも涙でくしゃくしゃに歪んでいて、固く結ばれた唇が何か言いたげにうごめいていた。
ぴり、とブラムの顔の傷がわずかに痛むのを感じる。彼女のその唇へ、……これまでの数年で開き方を忘れてしまったような、およそ自分の想像では計れないほどの苦しみに耐えてきたであろうそれへ、ブラムは自らの唇を寄せた。
さっきまであんなに引き絞られていたのに、触れてみれば自分よりも柔らかく温かな彼女の切れ端は、初めは戸惑った様子で少し逃げていたが、角度を変えて何度も押し当てられるもう一対の温もりに、段々と降伏したようだった。

やがてどちらからともなく離れ、静かに視線が絡みあう。そしてまたゆっくりと互いを求めようとしたとき、あ、とブラムが声を漏らす。
「……え?」
「あ、いや、そういえば、と思って……」
なに?と首を傾げるレモラに、少しだけバツが悪そうにブラムは目線を逸らす。

「その……こういう触れ方をしていいか、訊いてからにするべきだった、かな、と……」

少し頬を紅潮させて、思い切り顔を背けてそう言う男の姿に、レモラは面食らった。幼い自分の乙女心を手玉にとり、踏みにじってきたブラムという男と、触れるだけのキス程度で思考を堂々巡りさせているこの男は、あまりにも違って見えた。あまりの落差に可笑しくなって、ふっ、とレモラは小さく笑う。
「なに? ついこの前、無理矢理キスしておいて」
「ああそれ、それも……あります。多いに」
数日前、感情に任せて唇を奪ったことをブラムは気にしているようだった。この男は風俗店のボーイ時代から男女問わず、細やかな気遣いを嫌味なく滑り込ませる達人だったが、その癖が抜けないのか、そもそもがそういう性分なのかもしれない。ひと月前のレモラなら、またこの男は、と猜疑心にかられただろう。しかし今の彼女は笑みをたたえたまま、その柔らかく緩んだ唇をブラムの頬へ寄せていた。精一杯の優しい口づけの後、しかし、少し身体を離したレモラの顔には陰が差していく。

「どうしちゃったの。女の子を何十人も泣かせてきたあなたが、……こんな食人鬼なんか相手に」

さっきまでの甘い夢を冷たく吹き飛ばすような皮肉に、ブラムの目が見開かれる。それはともすれば、少し困った顔で笑う彼女自身の自戒にも聞こえて、男の表情には哀しみの色が滲んでいくいく。
「……こう、思ってしまうのは、僕がよほど身の程知らずだからなんでしょうが」
この世の空虚をすべて引き受けてしまったような、彼の薄いグレーのひとつ眼は、沈みかかってゆく夕陽の最期の赤を映して揺れていた。

「僕はこれ以上、あなたに傷ついてほしくないだけですよ」

「……っ」
その言葉を、眼差しを、レモラはただ全身で受け止めていた。自分の不安を誤魔化したいがためだけに、クラゲの遺体を捌き、切り刻み、そのにくを咀嚼し続け、果ては暴力集団の幹部にまで身を置いていた、この自分へ。眼前の男から降り注ぐ哀しみ混じりの感情は、屍体のように冷え切っていた身体に染み渡っていくようだった。

戸惑いをあらわに、レモラの視線はあちこちへ泳いでいく。何度か、息を吸う音に湿り気を持たせながら、目尻を軽く拭って、その蛍火の目をブラムへとまっすぐ向ける。
「……あの時怒鳴ったあなた、“私が今のあなたを見ていない”って怒ってたわ」
「……そうですね」
自分が“ビビ”であると、ずっと隠していたことが露呈したあの朝のことだ。激情に任せたあの日とは違う、水底の石を拾い上げるように、レモラは静かに言葉を繋ぐ。
「ずっと、あなたがわからなかった。あなたの理想になれなきゃ、また捨てられちゃうんじゃないかって。でもその理想がわからなくて、きっと、私はその理想にはほど遠くて、……怖くて」
しがみつくのをとっくにやめて、ひとり頭を垂れる彼女の手は、かたく握られて震えていた。ブラムは表情を動かさずに見守っていたが、でも、と続ける彼女の声に、眉がぴくりと反応した。
「でも今、あなたが私を、目に見えてこんなに、大事にしようとしてくれるのが、……同じくらい、嬉しい、の。それで、……だから」
ブラムの脳裏にいつかの光景がちらついていく。顔のない少女が踊る無声映画のようなそれは、ちりちりと白い火花を左目の奥に散らしていくが、そんなものはどうでもよかった。
今、右目に飛び込んでくる彼女の、夕陽が霞むほどに煌めく涙の眩しさに比べれば、もうどうでもよかった。

「あなたを、好きになって、いい?……ブラム、さん」
ポロポロと涙が溢れるその目が、真っ直ぐに自分を捉えていた。これまでのとりすました表情は見る影もなく、自身の感情をどう扱っていいかわからない様子で、レモラは唇を震わせていた。

おそらく、彼女は何も変わっていないのだ。狡猾な自分にいいように利用されてしまっていた頃から変わらない、その身の寂しさを人質に、あらゆる搾取に慣らされてしまった少女のままだった。他者に対しての“自分”があまりにも希薄で、誰かの意見や命令がなければ“自分”の居場所すら自分で選べないでいる。彼女の方こそ、波間を漂っていた頃の原種くらげの様だと、ブラムは感じた。
「レモラさん」
叱られた子供のように立ち尽くす彼女の、痛々しく握りしめられたその手を取る。そして努めて、優しく彼女に諭す。
「あなたに決めてほしい。これから僕と居てくれるのか、どうか。……僕はあなたが好きです。あなたが僕を選んでくれるなら、本当に嬉しく思います」
「……え、なに、え?」
「言ったでしょう、あなたも僕も、昔のお互いに囚われすぎているんだと。僕はあなたが良いんです。あなたはどうですか」
「そ、れは……」

また彼女は視線をそらしてしまう。前のめりになっている自分に気づき、ブラムは少し呼吸を置いた。今になって、この顔の傷を憎く思う。こんなかおでなければ、なぜ今、この肝心な時に、なぜ自分はあの頃の整った顔立ちでないのか。彼女の表情を安堵で柔らかくできないのか。
誘導された返事ではなく、彼女自身の答えを聞きたかった。そのために今の自分にできるのは、この数年と、この一ヶ月間で、ほんのわずかでも彼女の中のエゴが育っていることを信じることだけだった。
「言って欲しいんですよ、今、目の前のあなたから」
「……ッ」
「レモラ」
初めて呼び捨てで、彼女の名を呼ぶ。口に出すと、自分の耳で聞こえる分にもこんなに印象が違うものか、とブラムは内心驚かされる。目の前で俯いたままのレモラも、視線は逸らしているが、同じような様子だった。
レモラきみと出会って一ヶ月くらいですか。しかも四六時中一緒にいたでしょう。恋に落ちるなら十分じゃないですか?」

両手で彼女の右手を包みながら、ゆっくりとした口調でそう言うと、レモラの指は驚いたように少し跳ねた。俯いていた顔が上がり、潤んだ橄欖石かんらんせきの視線が、手探りで男の言葉の輪郭をなぞっていく。
「……恋?」
「そう、たとえば……動物が苦手なのに平気なふりを装っているときとか」
「へっ?」
「疲れて目元をほぐしてる時、何故か口が真横に伸びてくのが可愛らしいなあとか」
「えっ。あの、ちょ」
身に覚えがあるらしい。でもおそらくは、これまで意識したこともなかっただろう自分の仕草を語られて、レモラの頬が徐々に紅潮する。あからさまに慌てている想いびとの様子に、ブラムは破顔して、握る手を胸の高さに上げてみせる。

「そんなものですよ、恋に落ちるきっかけなんてものは」

そう言ってのけるブラムの明るい口調に、ぽかんと、レモラは口を小さく開けたままでいる。彼女自身ブラムに負けず劣らずというべきか、多くの男を籠絡してきたはずなのに、“恋”という言葉を、初めて知ったもののように反芻していた。
「きっかけ……」
「ええ」
促されて、考えているのだろう。少しの間逡巡してから、彼女はぽつりと呟く。

「……コーヒーを淹れてる時、が、かっこいいなあ、とか」
「えっ」
ブラムは思わず自分の左側を見、彼につられてレモラもそちらを向く。シンクの上にあるのは申し訳のようにフィルターが乗ったドリッパーに、開いたままのコーヒーの缶、その周囲に散乱するコーヒーの粉と、未だかつてなくひどい状態だった。
ふたりはその混沌を、しばらく呆然として見ていたが、やがて自然と視線を互いに戻す。無言のままブラムはシンクにもたれ、腕を組んだ。
「……なるほど」
そして急に顔を上げたかと思えば、わざとらしく溜め息をついて首に片手をやり、雑誌モデルのような画角で不敵に笑う。

「じゃあ、なんとしてでも淹れ続けるべきでしたね、僕は」
「ぶっ」
あまりにも完璧な彼のポーズに、レモラは盛大に吹き出してしまう。最初は必死に声を殺していたが、ツボにはいってしまったのか、そのまま彼女は声をあげて笑いだす。ばしばしと彼の胸をたたいて、何度か笑いを止めようとして失敗しながら、さっきまでとは明らかに違う種類の涙を浮かべる彼女に、涼しい顔で静止していたブラムも堪えきれず、遂に笑いだしてしまった。

その後やっと落ち着いた呼吸で、はあーーーと長い声を吐き出しながら、レモラはブラムの胸に身体を預ける。日頃からそうしているように、ごく当たり前のように、ブラムも手を回して一定のリズムでその背を優しくたたく。
「ご好評で何より」
「んっフフ、だめでしょあれ。好き」
「それはどうも」
「ほんと好き。むり。またやって」
「そんなに言われても安売りはしま、せん、……よ?」
軽口で返しながら、ん?、とブラムの手と思考が止まる。腕の中のレモラは背中に回した手にぎゅうと力をこめて、胸にうずめたその表情は見えない。

「好き。あなたが、好き」

きっかけさえあれば、それはひどく容易いことだった。




『青赤コントロール‐SuddenDeath』おわり
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