レモラ、ブラムSS


『儚い存在』


開店前のこの空気が嫌いだ。

バックヤードの化粧台で仕上げの口紅をなじませ、ぱ、と口を開く自分の滑稽な顔を、ビビはぼうっと眺めていた。
しばらくぽっかりと開けていた口を、ぱくぱくと鳴らして開閉してみる。毎日、毎日だ。ここで化粧をして、好いてもいない男に惚れている演技をして、鏡には映っていない方の口で他人の身勝手な期待を呑み込んで、よろこんでみせて、化粧を落として、また化粧をする。ただ毎日を生きることしかできない、死にかけの魚のようだとビビは思った。
そう、自分はもう古い魚なのだ。数年前に流行はやっているからと買われてきた熱帯魚。そのときは新品のヒレを優雅に揺らして飼い主の寵愛を一心に浴びていても、いずれ流行はすたれる。新しい魅力的な魚が次々と同じ水槽に投下され、老いた身のヒレはボロボロと白くなっていき、じきに自分の身体を支える力すらも失って、死んで水面に浮かんだときにやっと、飼い主の注目を再び集めるのだろう。その最期のときまで、生きることしかできないのだ。普通のひとはそうやって、老いて醜くなっていくのを受け入れるしかないのだろう。

(でも私は違うわ)

大きく開けた口を閉じ、ゆっくりと口角を上げる。艶のある唇、引き締まって見えるのに触れば驚くほど柔らかい肌、迎えたモノをじっとりと絡み取る内部、すべてが一級品だという自信がビビにはあった。事実、去年の暮れに彼女は19歳という驚異的な年齢で店での年間売上一位を勝ち取り、ほぼ丸1年が過ぎようとしている今も順位が揺らぐ様子は一切ない。年長の同僚から陰で嫌がらせを繰り返されても尚、彼女の立ち振る舞いが損なわれることは無かった。

それは当然、とビビは思っていた。
なにせ食べているもの・・・・・・・が違うのだから。

あれだけ法外な代価を払って、毎回吐き戻してしまいそうになるのを必死でこらえて、食べてきたのだ。効果がなければ困る。美しいままでいられなければ、ここまでした意味がない。

あのひとを見返してやるために。


「……ん?」
にわかに廊下が騒がしくなったのに気づき、ビビは後ろを振り返る。嬢たちの悲鳴と、ボーイたちの悪態がこだましながら、徐々に大きく聞こえてくる。と、バンッと勢いよく扉が開いて女性のイカが飛び込んできた。

「ビビ!! あなた……ッ、ああ……!!」
「な、なに、なにかあったの?」

その女性は入ってくるなり自分の両手をとって、膝から崩れ落ちてしまっていた。彼女の源氏名はギャレット、ジェリーとよく呼ばれ、ビビとは歳も近く店で最も仲の良い同僚だった。水商売をするには危ういほどに心優しい彼女が、涙をぼろぼろと握る両手に落としながらビビを見上げる。

「ぶ、ブラムさん、が……」

ぞ、と全身の血が引いていく。
ビビは反射的に、しっかりと握られた親友の温かい手から逃れようと腕を暴れさせる。
「い、いや、やめて、やめて、やめて」
「だめ、ビビ、ビビ! 聞いて……!」
いつも気丈なビビが、苦楽を共にしてきた親友がこれまでにないほど取り乱す姿に、ジェリーも痛々しく眉を歪めてぼろぼろと泣きながら、一息に言った。

「ブラムさんが他の店のと心中したらしいって……!」

ぴた、とビビは静かになった。思った通りの悪いニュースを、いや、ともすれば思った以上に絶望的なそれを聞き、遅れて脱力した彼女は椅子に崩れ落ち、どかりと背を叩きつけた化粧台の上で小瓶同士がけたたましく鳴った。

「……なにそれ」

呆然と、力なく言葉を発したビビは、涙でぐしゃぐしゃの親友の方に目線をやりながら、どこも見ていないようだった。

「ほかの店、の……? なん、……いつ、そんな」
「わかんない……、わかんないけど……」
ジェリー自身はブラムに恋慕していたわけじゃない、それでも泣くのは、親友である自分の心を心配してくれているのだろう。彼女は必死に、詳細を伝えようとしてくれる。
「あの、なんか……あるでしょ、外れに。おっきい用水路が……。そこの、……ほとり、に、女の子の遺書が、……ブラムさんの上着に、くるんで、あって……」
発見者によると、そこにはブラムの色の血だまりと、血みどろになったナイフがあったのだという。遺書にはこうあった。

『やっと見つけたんです。ブラムという男のひとを、私はずっと探していました。いつまで経っても帰って来てくれなかったから、私が探しに来たんです。今までさみしい思いをさせたぶん、これからずっといっしょにいてもらいます。お店のみんな、お世話になりました。今までありがとうございました』

「そのお店には去年来たばっかりのだったみたい、ひと懐っこい、いいこだったって……」
「いくつ?」
「えっ?」
「何歳だったの、その
「……!」

ここまで静かに聞いていたビビから急に発せられた質問に、ジェリーはハッとして、しばらく迷ってから口を開く。

「……16歳、だよ、たしか」

「……ーーーッ!!!」
聞くが早いか、ビビは突如、後ろの化粧台に並ぶ小瓶たちを一気に腕で払いのける。幻のかけらたちは大小問わず薄いカーペットの床めがけて転がり落ち、いくつかは音をたてて砕け散り、薬品のにおいが飛び散った。
「ビビ! やめて、落ち着いて!」
取り乱したのを止めようとジェリーは立ち上がったが、しかしビビはそれ以上動きはしなかった。彼女はゆっくりと顔をこちらに向け、笑った。
「ふふ、っ、あははは」
「ビ、ビ……?」
かつて自分のすべてを捧げるほどの想いをつのらせた恋人が別の女と死んだと、そう聞いて平常心でいられるはずはないと、ジェリーは親友を心配していた。でも、それにしても目の前の女の様子は異常だった。美しく、静かに笑うビビの口からは、乾いた笑いと共になにか恐ろしいものが漏れ出しているように感じられて、ジェリーは思わず後ずさってしまった。

「わかってたわ。……ね? わかってたことじゃない」
「……へ?」
おもむろにそう言って、悪戯っ子のように化粧台の上に腰かけるビビの様子に、ジェリーは言葉を継ぐことができないでいた。
「ビビ……? なに、わかってたって……?」
怯えるような声色を隠せない親友に、ビビは細く溜め息をついてから足を組んで、頬杖をつく。

「なにって……ハッ、あの男が救いようのないロリコン野郎だってことよ」

ジェリーは目を見開いて、目の前の親友を見た。
まったく知らない顔をした、化粧台の玉座からこちらを見下ろす冷酷な女王がそこには居て、彼女の表情はまさしく興醒めという言葉がぴったりだった。
「前にさ、先輩がご丁寧に教えてくださったじゃない。“あの男はいつも18歳で恋人を棄てるのよ”って。私がちょうど18歳の誕生日に、あいつに棄てられた次の日にね」
ジェリーはただ黙って、豹変した親友を見ていることしかできなかった。ビビはそんな友人と目を合わせないまま、いかにも面倒くさそうにかつての男を罵倒しつづける。

「あいつはね、結局は自分より下にみている人物を小馬鹿にすることでしか自分を保てなかったのよ。だから新人ばかり相手にするの、……ふっ、逆に言えばね、新人しか相手にできないのよ。去年までの私も、そう、ただの獲物。ただの愛玩動物ペット
去年、あいつに棄てられて、やっと思い知ったわ。期待してるって口では言いながら、私が自立して、自分に楯突くようになるのが怖かったのよ、どうせ。私はそれが悔しかったの。あんな男に頼らなくったって私は生きていけるわ。その証拠にさ、ねえ?」
くい、と顔をジェリーの方へ向け、ビビはにっこりと美しく笑う。
「あいつに棄てられてから私、売上トップにすぐなれたわ。ちょっと本気を出せばこーーんなに簡単。……ね?」
にこにこと陶磁器の人形のように冷たく笑う女を、ジェリーはただ見ていた。朗々と、時折こちらに問いかけるように語りながら、まったくこちらに目を向けようとしない、親友を。
ちょっと本気を、と彼女は言った。そんなもんじゃない。ブラムと別れてからの彼女がどれだけ身を粉にしていたか。いっそ痛々しいほどに男たちに媚びへつらい、ボトルを重ねるために毎日浴びるように酒を呑み、……月に一度、自分の部屋を訪ねてきて縋りつくように手を握って眠る。この一年の、どこが"ちょっと"なものか。
これまでもそうだった。働いていてつらいことがあると、逆にシフトをぎっちりと詰め込んでわざと忙殺されようとする。……今、目の前で尊大に振る舞う彼女も、今までの彼女に違いなかった。

ただ去年までは、そこまでひどくは無かったのだ。あのひとがいたから。

親友が眉を歪ませて投げつける視線を感じ取ってか、玉座の主は一息ついて、天井を仰ぐ。部屋の外では、錯乱して泣き叫ぶ嬢の悲鳴がいくつもこだましている。

「……あいつが私を甘やかしたのがいけなかったのよ」

細い線香の煙のようにその言葉は立ち昇って、怨嗟の声に震える空気のなかで霧散した。

「……ビビ」
「その名前も」
がくん、と首が倒れてきてビビの表情を突き付ける。笑うことに飽きたその顔は眼の黄緑色だけが爛々らんらんと、異様に光っているように見えてジェリーはびく、と小さく肩が跳ねた。
「もともとはあの男の飼ってた熱帯魚の名前なのよね。……ほら、もう間違いないじゃない。あいつは私を支配したかっただけ。……っていうか、私じゃなくても、ね。若い女の子なら誰でもよかったんでしょうし」
彼女のその主張は、外で泣きわめく何人もの嬢の声からも、明らかに思えた。しかしジェリーは、そう涼しげに語る親友の横顔を見つめながら、また静かに涙を流していた。
「……ほんとうに」
「?」
親友の涙声に、ビビはやっと、怪訝そうにこちらを向いた。
「ほんとうに、そう思うのね?、ビビ」
「……」
涙ながらにそう問うジェリーに、ビビは一瞬目を伏せてから、まっすぐにその目を見て笑う。

「ほんとう、って、なに?」
「……!」
「あのひとの……」
言いかけて、止まる。一度ゆっくりと瞬きをしてから、再び向き合った彼女に、迷いの色はもうなかった。

「……この店にいるひとのやること為すこと、ぜんぶ"ほんとう"でしょ?、私たちも。……違う?」

優しい、美しい声色だった。さっきまでの追い詰めるような苛烈さをすっかり飲み込んで、彼女はNo.1風俗嬢のビビとしてここに居た。
(そっか……)
目の前の親友を見つめながら、ジェリーは涙が止まらないでいた。彼女はそう、決めたのだ。これから先も生きるために、甘い思い出をすべて怒りに塗り替えて、虚構にまみれていくのだと。

しかしそれは、彼を永久に失った事実を彼女がどれだけ悲しんでいるか、その証左でもあった。

「……そうね」
ようやく喋りだしたジェリーの眼前で、ビビは静かに微笑をたたえたままでいる。嬢たちの嘆く声はどこか遠く、砕け散った化粧品のむせかえるような匂いと、少し乱れた彼女の口紅の美しさだけが存在していた。

「わたしたちみんな、“ほんとう”だと信じた通りになっていくのよね」
「でしょ?」
「だから」
我が意を得たりと主導権を握ろうとするのを制して、涙の乾いたジェリーの眼差しは、まっすぐにビビを捉えていた。

「何があっても、私はあなたの味方でいるわ、ビビ」

「……ッ」
濁りのない、澄んだ朝露のような親友の瞳に、ビビは一瞬言葉を詰まらせた。

のどの奥から這い出してきそうになる、塩辛いにくの食感。

「ーーーッ、ェ、っ」
「……ビビ!?」
急な吐き気に口を覆ったのを、ジェリーが血相を変えて駆け寄ってくる。ビビはしばらくうずくまっていたが、じきに顔を上げ、不快感をこらえて滲んだ目元で微笑み返す。
「……ありがとう、ジェリー」
「ビビ……!」
感極まった様子のジェリーは、こちらを抱きしめたかと思うとそのまま嗚咽を漏らし始めた。抱きすくめられながらぼんやりと、この様子ならあの涙はちゃんと嬉し泣きに見えたのかしら、と考えを巡らせる。
(ジェリー……私もあなたになら、何でも打ち明けたい、けど)
いつのまにか逆転した慰め役として、親友の頭を撫でながら、ビビは思う。

くらげ喰いこのことだけは)

「……ごめんなさい」
そう、独り言のように呟いた。



『儚い存在』おわり
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